1897年  9月25日ー沖縄県那覇区下泉町にて父正芳・母ツルの二男一女の長男として出生 
1905年  那覇区立甲辰尋常小学校
5年生頃よりメソジスト教会牧師H・B・シュワルツ師に英語を学ぶ。この時の恩師が佐久本嗣宗。正通□佐久本先生は私達が甲辰尋常小学校の生徒であったとき、沖縄の天地創造や三山統一の歴史を熱心に説かれた。日本歴史には、蘇我物部、藤原菅原、南朝北朝、源平、豊臣徳川、勤王佐幕、といつも二つの対立しかないのに、沖縄には北山中山南山と三つの鼎立のあった史実を知って、二より三が多いというむつかしい算術まで知っていた私は、大沖縄帝国は広いなあと子供心に言い知れぬ誇りを感じたものである。→城間正八・佐久本嗣宗『隠れたる偉人ー城間正安翁ー』玻名城印刷所1932年5月
        
1911年  沖縄県立第一中学校入学
1915年  6月6日、那覇尋常高等小学校で琉球新報主催「学生雄弁大会」一中代表として石川正通英語演説「立てよ沖縄青年」と云う題下に流暢明快の弁を揮った。商業の玻名城政博は「統計上より本県の輸出入関係」を述べ警醒を促した。商業の渡久地政憑「立てよ日本青年」と題し日本の将来を考えよと提唱。徒弟の真栄城玄明は「犠牲的精神の涵養」と題し述べた。他に県農の比嘉盛宮、徒弟の中原政良、二中の安慶田正松、商業の宮城邦英「道徳の効果」、師範の石垣信知、一中の大浜用介「沖縄の宝庫は八重山なり」、徒弟の原秀樹、二中の前田豊、水産の東恩納寛成、一中の平野弘「冒険的日本男児たれ」、二中の嵩原佐久利、師範の佐久川饒、水産の勢頭眞佐、県農の田港朝全、師範の前堂貞烋が演説した。

石川正通〇南方熊楠は、山口沢之助校長と同郷和歌山県の大先輩、奇行に富む世界的大学者。山口校長が折に触れて話された、南方熊楠の逸話は一冊の本にも纏め得るほど、僕はあざやかに覚えている。山口校長の講義は、僕にとっては生理学でなく、熊楠学であったと、今でも有難く思っている。脱線学の妙味ここにあり。(1980年12月『養秀百年』)

1916年  一中退学、私立麻布中学校へ転校。3月29日、真玉橋朝起、武元朝朗、竹内弘道たちに見送られて沖縄丸で上京、甲板上で明大受験の城間恒昌、杉浦重剛校長の日本中学に転校する我部政達と3人で雑談に耽る。4月3日東京駅に着く。翌日、比屋根安定が大八車で荷物を一緒に運んでくれる。斎藤秀三郎校長の抜擢で正則英語学校講師となる。後に比嘉春潮(荻窪)、島袋盛敏(成城)、比屋根安定(青山学院構内)、仲吉良光(鶴見)、八幡一郎(東中野)、金城朝永(大塚)、石川正通(本郷)の7人で七星会結成する。

□斎藤秀三郎 【さいとう・ひでさぶろう】
生年: 慶応2.1.2 (1866.2.16) 没年: 昭和4.11.9 (1929)
明治大正時代の英語教育者。仙台生まれ。仙台藩士で運上方の斎藤永頼の長男。父の手ほどきで英語を学び,宮城英語学校を経て明治14(1881)年工部大学校に入学。在学中に英語教師のJ.M.ディクソンから強い感化を受けた。その後,岐阜,長崎,東京の一高などで英語を教えたが,明治29年正則英語学校設立以後,精力的に英語の文法書,読本の註解書,和英・英和辞書の編纂に従事した。その作文練習問題や和英辞典の用例には自伝的要素が濃厚。多磨墓地に墓がある。妹は明治女学校生だった斎藤ふゆ,次男は音楽家の斎藤秀雄,次女の婿は無教会伝道者の塚本虎二。<著作>『熟語本位英和中辞典』<参考文献>大村喜吉『斎藤秀三郎伝』 (コトバンクー加納孝代)

1918年  国民英学会講師、逗子開成中学校講師(ここでの教え子に、平野威馬雄、岡田時彦・女優茉莉子の父、徳山環ー歌手)、大成中学校講師、東洋商業学校講師


□平野威馬雄の本

1919年  保善商業学校講師(国語担当)、明治学院専門部講師(現明治学院大学)
1922年  第三版『全訳・シャーロックホームズ』越山堂。文部省中等教員英語科検定試験合格
1923年  8月ー沖縄県立第二中学校講堂で石川正通「英語講座」、伊佐三郎、赤嶺康成ら参加 
1924年  東北帝国大学法文学部文学科入学。在学中、土井晩翠の寵愛を受けた。
        
土井晩翠
仙台市生れ。本名、土井(つちい)林吉。姓は1934年から‘どい’という通常音を容認。1894年、東大英文科に入学、
同年末に結成された帝国文学会に加入。その機関誌「帝国文学」に1895年11月から新体詩を載せ始め 翌年3月から編
集にも携わり、1898年、ユゴーの詩集『光と影』の序文を訳載した。この年、東京音楽学校の依頼で『荒城の月』を
書いた。大学卒業後 1901年6月に私費で外遊、ロンドンで夏目漱石と同居し、滝廉太郎とも会っている。1904年10月
までに至る欧州諸国での感興はその詩作の主要なモチーフとなった。「帝国文学」などに寄せられた諸詩篇は『天地
有情』(1899)『暁鐘』(1901)『東海遊子吟』(1906)の3集にまとめられた。 その作は一貫して文語で書かれ、漢語利
用の効果も目立ち、はじめ七五調によったが、さらに他の定形にも手を染め、自由詩の試作にも及んでいる。1945年
7月、戦災によって万巻の蔵書を、また1948年までに妻子のすべてを失い、没年まで孤寂の時を過した。前記3集の他
『曙光』(1919)、『天馬の道に』(1920)、『アジアに叫ぶ』(1932)、『神風』(1936)があり、他に数種の選集も出た。
尚、唱歌や校歌の類も多く、短歌の制作もあって後に『晩翠歌抄』(1949)に収められた。/「日本現代詩辞典」

1925年1月29日『沖縄朝日新聞』石川正通「朝日歌壇ー雪の●日本/冬空に茜さす日は登りたり 小鳥よ啼け雪遠き間に/この寒さいよ つのらば川の音も 氷の下にひそまるらんか/日の照りつ雪の舞ひ舞ふ冬空に こだまを返し鶏はひた鳴く/久方に映えし朝日ををろがむと 窓を開けば雪片の舞ひ入る/変装の雪は悲しも舞ひ舞へど このたまゆらの白雪にして/憎らしく可愛きものよじやれ雪は 我が唇に止りては消ゆ/冬籠る我が部屋ぬちに炭聞きつ 幼き●の友想ふなり」

1928年  東北帝国大学法文学部国文科卒業。卒論「近松門左衛門の世話浄瑠璃について」。国民英学会講師に復職、京華高等学校教諭、日本女子高等学院英文学科教授
1929年  雑誌『イギリス文学』に「ヘルンの『沙翁論』」
1933年   『南島』1月1日□石川正通氏ー伊波普猷先生と共力で近く日英両文の沖縄案内を発刊する由
         『南島』4月5日□石川正通「三十七歳の曙光」「玉城朝薫の二百年祭に當りて」
         『南島』8月5日□石川正通氏ー7月24日、澄子夫人同伴帰郷 約1カ月滞在予定、二高女で英語講習会開催□石川正通「夏は故郷で=鎖夏漫筆=」
1934年   『南島』8月1日□石川正通「友の首途を祝して故郷を語る=武元朝朗・國吉休微両君を叱咤する=(略)最近出た某書店の百科辞典を引いて見たが、おもろ、蔡温、程順則、尚泰侯爵も出て居ない。沢田正二郎、田健次郎等は写真まで出て居る。土田杏村が第二の万葉集と言った『おもろ』も国語国文学校の士すら全般的に知られて居ない。」

1934年  青山学院専門部講師
1936年1月 『沖縄教育』(有銘興昭)石川正通「東京生活二十年」「年賀集ー下村宏、山城東榮、新屋敷幸繁、石川正通、川出麻須美、北里闌、アブラタニ キクジロー、村尾三郎、辻木、末原貫一郎、青山於菟、堀池英一、石井漠、田場盛義、島袋盛敏、安部金剛・安部ツヤコ」

1938年  
 
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1939年   
                 
         
       このころ母校一中で講演
1939年  1月『月刊琉球』石川正通「傷心の友に」
       
 
 1939年1月1日『琉球新報』石川正通「幽明を境して=太田朝敷先生と語る=(略)皮肉屋の斎藤緑雨君と飲んで居た末吉麦門冬君’娑婆からは十 億土一またぎと駄句って’」

        

1944年  戦時中の英語教育政策により京華高等学校退職。東洋大学講師、本海上火災保険に入社(外国課勤務)
1945年  空襲で自宅と5万冊の蔵書全焼。陸軍省嘱託俘虜情報局通訳官、翻訳官、陸軍省嘱託憲兵司令部通訳官



1946年 極東国際軍事裁判(東京裁判)翻訳官、通訳官、調査官、(キーナン検事と同居)G・H・Q第八軍教育顧問(教育課長と学校視察)
1982年5月20日 那覇市名誉市民(6代目)の称号

石川正通「平和更新曲(年代不詳)」
東京には空が無いと高村光太郎は痛く歎いた/沖縄には空しかないと石川正通は泣いている
その沖縄大陸の青空に飛行機雲が鮮やかに落書きしている/軍拡へ軍拡へと臭きも靡く鼻持ちならぬ軍事大国志向
侵略戦争は聖戦、侵入線は生命線、敗戦は終戦、占領軍は進駐軍/原爆公園は平和公園、負け肥りで嘗ての鬼畜米英と親類になった
古今東西幾多の戦闘に散った無数の戦死者は/犬死を名誉の戦死と、万才を唱えただろうか
機構いじりは行財政改革。日本語土地転がしは/政治語日本列島改造論と、注意深く翻訳された
基地を無くする機智も無いままに票田の雑草は枯れて行く/大惨亊世界大戦が起こったら地球の全人類は瞬時に絶滅する
間違って生き残った人食人種は酸鼻歌を歌いながら共食する/昔・口頭禅、今・荒唐善。口先だけの平和論に踊らされるな
ラッセル・アインシュタイン・湯川秀樹の/平和論陣も暖簾に腕押しに終わってしまった
戦争防止が出来ないような哲学や宗教は/有害無益の空念仏に過ぎない思想膿漏だ
彼アリガ平和小グヮヤ嘘ユクシヌ多サヌ/ワー私平和小ケ買ン候レエ

1970年1月
世界マルクス主義提唱/人の上に人を造ったり/神や仏を発明したり/鬼や幽霊を考案したりして/道草を食っているうちに
1530年コペルニクスの地動説/1859年にダーウィンの進化論/1867年にマルクスの資本論と/人間開眼の三つの鐘が鳴ったはずだが
沖縄は白に/アメリカは黒に/日本は赤に悩まされつつ/レーニン生誕百年を迎える今年
1970年6月23日の安保の日に/安寧を危うくする暗愚なアンポンタン供が/暗躍して安全を暗殺する/暗黒な嵐が荒れないように
亜細亜どころか世界は一つだ/地上の全人類を仲よく丸くする/丸クス主義で平和に自由に平等に豊かに/地球を共存共栄の優等部屋ユートピァにしましょう

1934年4月15日『琉球新報』に山城正忠「旅塵抄」の連載がある。その16回に「東京も琉球」と題し、東京の石川正通を訪ねたときのことが書かれている。
 山城です。と名乗りを上げると、矢庭に襖が放いて、見知り越しの奥さんが顔を見せる。 上がれといふので、遠慮無しにあがった。小ざっぱりとした、八畳の間である。(略)額が二面、襖の上にかかっている。ひとつは、英文で斎藤秀三郎先生の毛筆揮毫だとすぐ判った。勿論、私にそれが読める筈もないが、かねて此家の主人から、その事をきいて居たからである。今ひとつは、巻紙に書いた手紙を表装したもので、おしまひの処に、短歌が一首、書かれて有ったやうに覚えて居る。能くこなされた筆づかひで、酒悦な風格を偲ばせる迫力があった。何人の心憎い業であらうかと、態々立上ってみると「晩翠」といふ署名が鮮やかに、私の網膜に映った。それと同時に、これが、その昔、有名な「天地有情」によって、一代の詩名を謳はれた、土井先生の筆蹟だといふ事を知ったので、一しほ、懐かしく仰がれた。(略)こんな閑寂な処にいて、常住心を落ちつけていたら、きっとそのうちには、自然の脈搏が聴かれるだらう。そしたら、思ふ存分に、自分の貧しい想も練られて行くにちがいない。などと、空想してる所へ「ハイサイ。イチメンソウチャガ」と、例の開けっ放しな聲で、斯う云ひ乍らはいって来たのは、紛れもない、あるじの石川正通君であった。 

1973年
快適なご鎖夏を祈ります
蛇成人ジャナリストや羅耳王・照れ美・真文・習慣誌などの増す込みに叩かれ、酷会や痴呆団体で吊るし上げられると、たいていの学校には校塵萬大の校害が起こると、某大学狂儒は言っています。

醜議院や惨議院の連日の愚劇を見聞するにつけても、日本劣等改造論を早急に実行に移して、せめて中等位には持って行きたいと願わずにはおられません。

若夏国体では、全国知事代表千田正岩手県知事が、那覇公民館の講演では作家の司馬遼太郎氏が無学振りを発揮していました。沖縄に行くと、誰でも無学病が伝染するのでしょうか。
那覇バスターミナルの一角にある。石川正通歌碑「橋内の 誇りも高き 泉崎 昔も今も 人美しく」
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那覇の花 けさとくと咲け 那覇の花
ナハノハナ、ケサトクトサケ、ナハノハナ

1974年元旦
明治は近くになりにけり
「主さんのような好いたらしいとのごが、どうした風の吹きまわしで、わちきの所に、来てくんなましたえ」と、かんなくずか何かと間違えたりする。花魁の惚れた客を、英語でマブと言う。英語でなくたってマブと言う。アドリブまでも八方破れのこの芸風。これが去る9月20日、83才で、あの世の吉原へ、旅立ったであろう古今亭志ん生の江戸前のユニークな味であった。志ん生師匠、酒と共に去りぬ。古典落語の醍醐味と共に去りぬ。
こういう明治マンが、芸能界だけでなく、政界、学界など、各界から、一人消え、二人去って行く。私は現存する日本人の生態を、生活学を実践しながら去る10月27日85才の生涯を閉じた今和次郎氏の考現学方式で、明治マン、大正ボーイ、昭和ベイビーの三世代に分類する。マンとボーイは男性、ベイビーは男女両性。男女同権は、昭和20年経って、敗戦の賜物なのだ。気になるのは、遠く近く、陰に陽に聞こえてくる軍靴の音である。  春泥や明治は近くなりにけり

読者ーやっと辿りつきました。城北予備校で英文和訳を習いました(私立城北高校教師)。と云うより講義中に語る歴史、古文で和訳したり、歌舞伎の名場面を語ったり大変愉快な授業でした。君が代を英訳して歌ってくれました。世の中にこんな素晴らしい人がいるもんだ⇒あんな素晴らしい先生に出会えたことを思い出します。「君たちっ!これだけ英語を学んだのだ、ムダにせず英会話をものにしなさい」と最後の講義で言われました。それをしなかったことを悔やんでおります。2013-07-15 @ 03:18KD111103200060.ppp-bb.dion.ne.jp