1978年8月 新里清篤編『記録と証言 あゝ学童疎開船対馬丸』対馬丸遭難者遺族会

ヒーサン(寒い)、ヤーサン(ひもじい)、シカラーサン(寂しい)
〇沖縄から本土への学童疎開は1944(昭和19)年7月7日、政府の緊急閣議で決定した。この日サイパン島が玉砕、民間人を巻き込んだ戦闘は衝撃を与えた。次は沖縄である。閣議決定は「本土へ8万人、台湾へ2万人、計10万人を7月中に引き揚げさせよ」であった。鹿児島県知事へも奄美群島からの引き揚げを命じている。疎開業務は警察部が所管となり、進められた。学童疎開は文部省の指示を受け県教育課が計画を推進した。疎開業務は容易には進まなかった。米軍の潜水艦が沖縄・鹿児島間の海上で日本の艦船を沈め、多くの犠牲者が出ていることは公然の秘密になっていた。県外へ、しかも危険な航海。親たちは反対した。校長らは説得に懸命になった。一人でも多くの疎開学童を集められる教師が優秀な先生といわれた。→『沖縄学童たちの疎開』琉球新報社
〇他府県での学童疎開も1944年8月から国民学校初等科3年から6年生を対象に始まった。大都市への本格的空襲が予想されるようになり、被害を防ぐ観点から戦火にさらされそうな地域に居住する学童をより安全な地域に一時移住させた。防空体勢の強化、次代の戦力を培養する目的の国策として実施された。具体的には東京、川崎、横浜、横須賀、名古屋、大阪、神戸などから約45万人の学童が34都道府県の旅館や寺院など約7千カ所に疎開した。→『沖縄学童たちの疎開』琉球新報社
〇1943年4月、新里清篤は妻の千代子と共に本部国民学校にへ赴任した。翌年7月にはサイパン島が玉砕、間もなく沖縄県内政部長名で「学童集団疎開実地要綱」の通報が学校に届いた。立場上、新里は「父兄、学童に疎開を呼び掛けるには、まずわが家族を率先させねば・・・・・・」と考えた。鹿児島への海路は既に何隻もの船が撃沈され、”魔の海„と化しており、船旅は一大決心を必要としていた。対馬丸には千代子、長男、二男、長女の3人の子供、そして「孫が疎開するなら、自分も」と言ってきた母親のナベの5人が乗船、全員が帰らぬ人となってしまう。→『沖縄学童たちの疎開』琉球新報社

1995年5月 琉球新報編集局学童疎開取材班(池間一武、照屋直、崎原孫雄)『沖縄学童たちの疎開』琉球新報社

1913年 第一大里尋常小学校の分教場として御殿山に開設され,1941年 与那原国民学校として独立校として開校された。→与那原町立 与那原小学校

1995年8月 与那原町学童疎開史編集委員会『与那原の学童集団疎開』与那原町教育委員会/新垣隆一2代与那原国民学校長(1943年の教職員名簿に「與那原國民学校 校長 正七 六待一五六〇加 新垣隆一」)

1995年8月 与那原町学童疎開史編集委員会『与那原の学童集団疎開』与那原町教育委員会
 上原敏雄・引率教諭「与那原国民学校第一次学童疎開」1944年8月15日ー疎開申込児童188名、引率教員、養護婦、世話人、合計218名が親川に集合し、トラック3台に分乗して那覇に向かった。那覇では宿舎浦崎旅館に男子、那覇旅館に女子、津波旅館に女子と家族が分宿して乗船待機をした。8月17日ー「いかだ用の棒と縄の準備をせよ」との達示で海上輸送の不安を感じた父兄が、18日早朝、疎開取り消しのため宿舎に殺到して混乱状態になった。新垣隆一校長の出覇、父兄会、大多数取消し、荷物整理に津嘉山朝吉先生を主任に全力を注いで下さった。
 残り児童95名、引率関係者合わせて119名、8月21日午後7時ー和浦丸(那覇の子どもたちの荷物も乗せる)に乗船。左右に2隻の護衛艦の5船団で、時折飛んでくる飛行機に守られ、航海を続ける。22日夜半ー僚船対馬丸の悲報、最悪状態。魚雷が左右に白波を立てて、舷めがけてやって来る。ジグザグの航路・・・(略)1946年10月26日帰還。那覇港に降り立つとDDTの洗礼を受け、トラックに乗せられ、懐かしい荒れ果てた与那原を右手に見ながら久場埼の収容所に下り立った。玉那覇栄三先生に迎えられ感激の涙がしみ込み、実にうれしかった。一夜明かし、あこがれの与那原へ向かった。変わり果てた親川で、子どもたちを父兄に引き渡すことが出来たことを、疎開関係各位に心からお礼を申し上げる。帰還を迎えて下さるはずの新垣隆一校長は戦死、佐久本嗣矩校長先生ほか、疎開児童の父兄方に迎えられ、帰還報告を済ませた。児童たちと引率教員は、佐久本先生を校長とする与那原初等学校所属となった。

 安谷屋勇・引率教諭「与那原国民学校第一次学童疎開」昭和19年。それはよい年ではなかった。日本軍は南方戦線で次々と敗れ、7月7日にはついにサイパン島が陥落して、米軍の沖縄上陸は必至の状況になっていた。すでに沖縄には守備軍として、球部隊、山部隊、石部隊、武部隊の約10万に及ぶ精鋭が配備されていた。国民学校はいずれもその兵舎に併用され、兵隊と児童の雑居で、正常の授業はできなくなっていた。与那原国民学校にも部隊の一隊が駐屯していたが、その行事板には米軍上陸予想月日が掲示され、上陸近しを感じさせるほど、戦局は緊迫していた。
 8月21日ー焼けつくような酷暑の中、那覇港近くの西新町広場に集結した。何しろ一般疎開を含めて約5千人に及ぶ大集団に、それを取り巻く見送り人で混雑を極めていた。(略)港外には護衛艦二隻と輸送船三隻の、計五隻編成の船団が待っていた。輸送船はいずれも、陸軍所属の老巧化した数千トン以上の貨物船だと言われていた。それは和浦丸、対馬丸、暁空丸であった。島尻地区は最初、対馬丸に割り当てられていたが、いつの間にか和浦丸に変更され、対馬丸には那覇地区が割り当てられていた。対馬丸は僚船三隻中、最も外観が良かった。真偽のほどは不明だが、那覇地区のクレームによって変更されたとのうわさが流れていた。船団は午後7時ごろ錨を上げ、ゆっくり動き出して港を後にした。行く先は長崎港、疎開先は熊本県日奈久町である。・・・

 津嘉山朝吉・引率教諭「与那原国民学校第二次学童疎開」わが子を戦火にさらすより疎開させようと、学童疎開を希望する残余の生徒が集められた。時の新垣隆一校長の強い要請により、最終的に私が引率教師となった。昭和19年9月15日には、学童疎開第二陣(学童数40人、安里国民学校の5人を含む)として、輸送艦「室戸丸」で那覇港を出航した。室戸丸が最後の学童疎開船だったようだ。9月24日ー室戸丸、鹿児島に入港(錦生旅館に投宿)。9月30日ー疎開先の熊本県湯浦町(現芦北町湯浦)に到着。宿舎は寿旅館。湯浦国民学校に転入。

対馬丸犠牲者(1、484人)の慰霊碑・小桜の塔/対馬丸犠牲者「刻銘板」与那原出身は瑞慶村マカト、瑞慶村光子、長嶺澄子

対馬丸犠牲者「刻銘板」粟国出身は玉寄オツル、玉寄マサ子、玉寄恵美子/海鳴りの像-赤城丸犠牲者(406人)・嘉義丸犠牲者(368人)・開城丸犠牲者(10人)・湖南丸犠牲者(577人)・台中丸犠牲者(186人)

1983年4月雑誌『青い海』№122 「座談会ー海の戦後はいつ終わるー戦時遭難船の遺族は訴える」出席者・湖南丸遺族会・赤嶺広吉、大城敬人/嘉義丸遺族会・吉本英吉、仲宗根トヨ/赤城丸遺族会・又吉久全、翁長春元 司会・玉城朋彦


儀間比呂志「モニュメント『海鳴りの像』戦後の沖縄の心は『戦はならんどー』である」

     
写真ー全員対馬丸に乗り込んだ学童たち。後列左から4人目 山里昌男14歳(翁長良明所蔵)


宮崎と沖縄
○山田弘「学童疎開引率日記抄」○1993年6月 那覇市文化振興課『那覇学童疎開体験座談会』/1991年6月『沖縄県学童疎開者名簿ー宮崎県学事関係諸令達通牒ー』
1944年8月15日 学童疎開で、早朝5時20分抜描。那覇港出港
     8月16日  早朝2時ごろ、敵潜水艦が爆雷投下。迅鯨艦内緊張する。じぐざぐコースをとり午後1時55分に鹿児島に入港。一行131名、鶴鳴館に落ち着く。疎開先を宮崎に決定。
     8月18日  城間喜春・仲地清・石川芳子、引率の第二陣140名余到着。
     8月19日  先発隊のみ午後前に宮崎駅着。泊校とともに武徳殿が宿舎。
     8月21日  第二陣の本隊、2回に分かれ宮崎駅に到着。先着の城間・石川先生の班は宮崎神宮近くの江陽女学校、仲地班は宮崎県庁近くの女子実践商業学校が宿舎。
      8月27日  宮崎市内の理髪業組合が児童の散髪奉仕。対馬丸遭難の情報が入る。
     9月8日   各校先発隊は本隊へ合体。武徳殿の児童は江陽寮舎に移動。児童数107名の大所帯。夕7時より第二宮崎国民     学校の児童による慰問学芸会。
     9月11日  対馬丸で遭難した桃原信子が来る。
     9月12日  第二宮崎国民学校の児童として初登校。引率3名も同校職員身分。
     9月24日  青島の「こどもの国」へ遠足。
     
     10月16日 宮崎県庁で那覇市灰燼に帰すと聞かされびっくり仰天する。

1945年5月12日  団体下校中、機銃掃射を受けるが全児童無事。宮崎師範に爆弾命中、大道校疎開児童1名即死、5名負傷の惨事。/以後、空襲が激しくなる。
     6月25日  空襲の被害を避けるために郊外の新宿舎に移動する。報道で沖縄作戦終了の悲報を聞く。
     8月3日   暴風雨。空襲の心配なくかえって天佑と喜び。翌日、小林町西小林に移動し、ほぼ一カ年の宮崎市生活を終える。
1945年8月10日 西小林国民学校の学童たちを主に、小林高女生徒たちも加えて編成された勤労奉仕隊の列に、超低空で飛来した米グラマン機が機銃を浴びせた。10人死亡し、18人が重軽傷を負った。→『沖縄学童たちの疎開』琉球新報社

○社会福祉法人 宮崎県大島振興協会 TEL 0985(25)3668〕
宮崎漆器は琉球漆器の流れをくんでいます。太平洋戦争の末期、沖縄から宮崎に移住してきた琉球漆器の技術者によって漆器作が始まりました。汁椀は、ミズメサクラをくり抜いたもので、底の部分を和紙などで補強し、下地塗りと研磨を何度も繰り返した後、漆で上塗りして仕上げています。

○『宮崎日日新聞』2012年5月14日
宮崎市波島地区は太平洋戦争中や戦後、疎開などで沖縄県から約300世帯が移住し、“リトルオキナワ”が形成された。民家の軒先には魔よけのシーサーや石敢当が飾られ、商店にはサーターアンダーギーが並ぶ。終戦から67年、沖縄文化の息づく同地区でも戦争を経験していない人が多くを占めるようになり、移住者の3世代目はすでに成人を迎えた。「波島でも沖縄の方言が通じなくなったね。聞くことはできても、話せる若者はほとんどいない」。同市波島1丁目の会社経営崎原秀和さん(63)は移住第2世代。「沖縄への関心には(自分と)同世代でも温度差がある。3世代目となるとなおさら」と、時間の経過とともに、第2世代以降に生じた意識格差も強く感じている。宮崎沖縄県人会(大城規由会長)によると、同会会員は10年ほど前には約200世帯だったが、現在は半減したという。第3世代になると多くが県外に出ていく状況で、大城会長(68)は「時代の流れなので仕方がない」と寂しげに話す。

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1984年3月 平良啓子 『海鳴りのレクイエム「対馬丸そうなん」の友と生きる』 民衆社
2000.1 マリア宮城・バートラフ『対馬丸の悲劇 : 学童疎開船』