4月13日は、歌人石川啄木(1912年(明治45年)4月13日午前9時30分頃、小石川区久堅町にて肺結核のため死去。妻、父、友人の若山牧水に看取られている。26歳没。戒名は啄木居士→ウィキ)がその短い生涯を閉じた啄木忌。そして、1977年、故国吉真哲氏が那覇市西町の真教寺境内に啄木歌碑を建立、沖縄啄木同好会が発足して42年となります。つきましては久方ぶりに啄木忌を開催したいと存じます。何かと忙しい4月ですが、「私の啄木」をテーマに啄木の歌に関わる思い出やお手持ちの本や資料を紹介し合う茶話会を持ちますので、どうぞ親しい方々お誘い合わせてご参集ください。
場所 那覇市西・真教寺 啄木歌碑前・本堂 〒900-0036 那覇市西2-5-21 電話098-868-0515
会費千円 本や資料など当日ご持参下さい。
主催 沖縄啄木同好会 屋部公子 喜納勝代 宮城義弘 新垣安子 芝憲子 
事務局連絡先 真栄里泰山携帯 090-6863-3035


読経 お話ー真宗大谷派真教寺住職 田原大興師

主催者あいさつー沖縄啄木同好会会長 屋部公子さん











山城正忠の短冊を手にする平山良明氏、山城正忠自画像を持つ屋部公子さん/左から喜納勝代さん、新城良一氏、平山良明氏

 
2019年4月14日『盛岡タイムス』「啄木忌法要 宝徳寺で献歌、献吟も」「渋民駅副駅名『啄木のふるさと』産声」




2005年10月 大西照雄『愚直 辺野古からの問い』なんよう文庫
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大西照雄氏の著作
2000年10月22日『琉球新報』新城栄徳(書評)ー大西照雄『啄木と沖縄』(あけぼの印刷)/著者は高校教師で社会科を教えているという。現実妥協で県民に背を向ける輩が多数を占めるアブナイ状況の中、著者は高校教師の身で「五感をゆさぶる授業の模索」などと称し環境問題や平和運動に奔走している人物である。本書はヤラなくても良い多忙の中での『私の教育日誌ー学園に愛とロマンを求めて』『「沖縄の太陽」物語』に続く著書である。
本書は今は亡き国吉真哲翁についてふれている。翁は大宜味や本部で小学校代用教員を経て「琉球新報」記者、戦後」は「琉球放送」報道部長、「沖縄啄木同好会」会長などをつとめたジャーナリストで、翁の自宅は別名「国吉大学」とも称され私は最後の「生徒」の一人であった。本書に翁の戦前の詩が紹介されているが、それより古い詩「風景短章」が『南鵬』(大正15年12月)に友人の山之口貘の詩とともに載っている。
真哲翁が『沖縄教育』の編集人のときに文化人類学者で早稲田大学教授の西村真次が来沖し名嘉地宗直宅に投宿中を訪ねて人類学上の話、芸術観や石川啄木の話を3時間も聞いている。西村が東京朝日新聞社会部で社説や政治記事を書いていたときに啄木は校正係として入って来た。その出会いを西村は改造社の『短歌研究』(昭和11年)に「啄木君の憶ひ出」を記し自分宛の啄木の手紙の写真を載せている。著者にとっては皮肉になるが稲嶺沖縄知事は西村の外孫にあたる。
歌人・山城正忠は国吉真哲翁の文学の師でもあるが啄木の文学仲間でもあった。その縁で啄木の墓参りに沖縄朝日新聞の特派員として北海道へ赴く。その旅程は大正15年7月18日の午後5時に台北丸で出帆、乗客に湧上聾人も居た。20日には紀淡海峡上にあって翌日の5時すぎには神戸着、三宮駅を7時7分発で金沢に向かい午後の5時すぎには金沢に着いている。いま分かるのはこれだけである。本書は啄木と北国の人物たちを通して沖縄と北国の連帯を考える好著となっている。


 1912年4月30日『沖縄毎日新聞』山城正忠「噫!啄木君」□昨年の七月帰郷してここ暫く故山に起臥するの身になって以来先に三念君が死ぬし近くは狭浦君が死んだ。かくて今又畏友石川啄木君の死が中央の諸新聞に拠って報ぜられた。かうなるともう故人の為に悼み悲しむといふよりは寧ろ冷やかに彼等生前の面影を惹起せしめることが出来るものである。そこで私は瞑目して静かに啄木君の「風采」を浮かべて見た。苟も新しい歌人といふ名のつくものなら誰しも君の名は記憶しているにちがひない。小説「島影」、詩集「あこがれ」、歌集「一握の砂」の著書に依って此才人の声名を長しへに伝へられるであらう。嘗ては森鴎外先生をして舌を巻かしめた程の天才詩人でその作歌に至っては長く中央文壇の珍とするに足るのである。君は常に「歌は我等の悲しい玩具である」といっていた。私はこのなさけない言葉を思ひ出すたんびにあの死の神に咒れたやうな青い顔色を思ひ出さずにはおられない。私が初めて君を識lったのは去る四十一年の夏雷雨の劇しい暮方であった。その日千駄ヶ谷の与謝野先生の御宅で新詩社の歌の会があった。連中には、先生夫妻を初めとして吉井勇、北原白秋、茅野蕭々、平野萬里、石川啄木といったやうな皆当代知名の青年文士を網羅していた。さうして百首会を開いて夜を徹したことがある。その時から特に心安くしてくれたのは君であった。その蟠りのない素朴な口の利き振りが軈て田舎出の私をしてうちとけしむる媒介となった。その時始めて見た君の顔色に私は直ちに薄命の相があるといふことを直覚した。蒼ぶくれた色艶のわるい顔の色合が常に悲しげに沈んでいる。その後会ふ度毎に私は君の顔色を惨ましく思った。かくて段々相親しくなって君が本郷の下宿にいたときには度々訪れて君の気焔にあてられたものだ。又ある時などはしんみりと悲しい物語に夜を更したこともある。当時余は外国語学校の附属速成科に印度語を学び遠く南洋の地の○展して此敗残の遺骸を菩提樹下に葬むるつもりでいたのでこれを君に計ると「舎したまへ。つまらないことで自棄になるものぢやない。御両親も未だ御存命中だといふぢやないか」とたしなめるやうに忠告してくれた。そうして自分の故里にいる若い妻の話なぞ持出して係累のない私の生活を羨んでいた。そこで自然私の方でも二三の友達の外は知らない悲しい話までも君にはかくさずうちあけて泣いたこともある。それを君は「泣かんでもいいぢやないか。まだ若いんだもの」といってくれた時には私は此他郷の友によって囁かれたなぐさめの言葉が此上もなく嬉しかった。しかし日ならず何かの際で君の一言が気に障り「君のやうな残酷な人にはもう二度と会ふまい」といふ捨台詞を残して突然席を立つたことがある。所があとで松原正光君の話によると、「こなひだ山城君は何だか怒っているやうだったが、どうしたのだらう」といっていたく心配していたといふことを聞いて私はああ○○○事をしたと思い乍ら、遂に又会ふ機会を得なかった。その啄木君が四月十三日遂に死んだのである。私はもう何んとも言ふまい。ただ此天才を抱いて白玉楼中の人となった薄命詩人のために極楽浄土の道安かれと衷心から祈るのである。

石川啄木作成「新詩社番付」左から3番目に山城正忠

1912年5月 親泊朝擢『沖縄教育』第七十三号 山城正忠「琉球の二大彫刻家 梅帯華と梅宏昌」

1927年9月  山城正忠、同人雑誌『珊瑚礁』山里永吉「人間は居ない」→1935年3月『海邦』山里永吉「佐伯氏夫妻」→1991年1月ー『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)収録。モデルは佐山明(歯科医)
○1985年11月『歌人・山城正忠』(琉文手帖3号)国吉真哲「珊瑚礁のころ(同人たち)ー佐山明(歯科医)、菊地亮(沖縄刑務所教誨師)、糸数三武郎(訓導)、川俣和(沖縄二中教諭)、型谷悌二郎(国吉真哲)」

1929年8月8日 『琉球新報』本山夢路「再び放浪の旅へー放浪の旅への力附けをして下さいました、山城正忠、川俣和、向井文忠氏 奥様、根尾耳鼻科部長(県病院)花城清用、国場道平諸先輩に心から感謝します・・・」/川俣和「前線を歩む人々(15)眞なるが故に新なり」


1932年4月13日 伊禮肇代議士、啄木20年忌(本郷団子坂「菊そば」)に参加