1983年、人類館事件の写真を見つけ、その背景を調べはじめて写真史に興味を持った

1983年5月に大阪で発見されて以来の2枚目の写真。出品者は仲里康秀氏(〒901-1117南風原町字津嘉山100電話090-3322-9908)
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1983年6月5日『琉球新報』新城栄徳「関西資料の散策・人類館事件の写真をめぐってーある日、京都河原町三条にある琉球料理店の新装開店に伊藤勝一さんと行った帰り、伊藤さん宅に泊まることになった。浦添出身の奥さんの料理をご馳走になって、隣のコレクションの部屋で、伊藤さんが『先日、この写真が手に入った。第五回内国勧業博覧会案内図と一緒のところを見ると人類館事件のものと思う』と写真を見せられた。(略)翌日、写真を借りて東大阪の自宅で複写し、電話で伊藤さんに『伊藤さんの名前は出さなくても良いから写真だけでも公開したい』と了解を強引に得たー」

1923年12月ー赤琉會(日本労働総同盟予備軍倶楽部)発足
1924年3月ー関西沖縄県人會機関誌『同胞』創刊

大阪人権歴史資料館の学芸員・仲間恵子が1994年6月『季刊・リバティ』に「関西沖縄県人会機関誌『同胞』創刊号ー関西に生きるウチナーンチュ(沖縄人)の第一歩ー」と題して『同胞』を翻刻、紹介している。2003年3月の『水平社博物館研究紀要』第五号にも仲間は「1920年代の在阪沖縄青年の運動」と題し『同胞』を紹介している。『同胞』は「沖縄県人同胞会」の機関誌として1924年3月に大阪市北区西野田吉野町で発行された。『同胞』は五号を数えると謄写版刷からタブロイド版印刷となった。


1924年5月ー真栄田三益らが中心となって日本労働総同盟予備軍倶楽部(赤琉会)を結成。大阪市電、私鉄の労働争議の応援などに旗を持って参加。大阪天王寺公園でー大阪のメーデーに参加した関西沖縄県人会の活動家。前列右から2人目が上里春生、4人目が眞榮田三益、その後が眞榮田之璞、後列右の旗手は宜保為貞

1925年  前列右から2人目が阿波連之智、4人目が眞榮田之璞、前列左から2人目が浦崎康壮、後列右端が浦崎康慶、3人目が眞榮田三益
真栄田一郎については安仁屋政昭氏が『沖縄大百科事典』に詳細に記しておられる。林世功の一族である。本名は之璞、写真はその墓の前で左から姪の上原美津子、池宮城秀意、瀬長亀次郎、城間得栄(国吉真哲撮影)。右は国家権力により弾圧された真栄田一郎の遺体写真(国吉真哲撮影)。真栄田家・8世は世佐、9世が傳詩、10世が正隆で一郎はその4男。兄に之琛(真栄田勝朗)、之璟、之か、姉の冬子(まかと)は伊波普猷の妻。関西沖縄県人会、沖縄人連盟を組織した真栄田(松本)三益は親戚である。
1933年5月ー『琉球新報』桑江常格□同志前田一郎を悼む/歴史上の一人物としてー(略)同志前田は理論家ではなかった。彼の長所は頭の中で理論をデッチ上げるのではなくして自身の信ずるところを行動において現すところにあった。(略)彼が16、7歳のころから沖縄のアナーキストたちと行動を共にし後にマルクス主義に転向して大正13年から14年にかけての関西沖縄県人会草創期を経て××党沖縄支部結成時代から死ぬまでの彼の行動の中によく現れている。彼がマルクス主義者としての活動は大正14年の春に当時関西沖縄県人会の仕事をしていた真栄田三益の紹介で県人会事務所に来たときから始まる」
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松本(真栄田)三益資料

1927年ー渡口精鴻『呼吸器病の知識ー付肺結核の臓器療法』南江堂
国民新聞 1921.11.17(大正10)「百日咳の世界的新療法」
○百日咳に対する世界的の新療法が警視庁細菌検査所の渡口精鴻氏に依って発見せられた始め動物試験に於て成功したる同氏はそれを自分から自分の家族に試み更に最近に至って済生会病院の豊福博士慶応病院の唐沢博士神田の藁科小児科病院等に於て患者に之を試みたが何れも大なる好成績を挙げていると云うことである新療法とは百日咳に対するアンタゴニスムス(拮抗菌)の発見である・・・・□→神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 衛生保健(3-182)

関西沖縄県人会初代会長・渡口精鴻


1933年5月5日ー大宜味朝徳主幹『南島』(郷友版)□「医学博士・渡口精鴻氏に物を訊く座談会」
渡口精鴻氏の経歴
記者・博士の出生地はどちらでありますかー渡口「那覇泊ですよ明治14年1月20日生まれです」。記者・沖縄県では矢張り県立医学校を御卒業になりましたかー渡口「そうです明治35年卒業と同時に熊本で開業医の試験を受けて医師の免許を受けたのです」。記者・上京しましたのはいつ頃でありましたー渡口「明治42年に上京して約一ヵ年間伝染病研究所と帝国大学の病理教室で実地の研究をしました」。記者・官途におつきになったのはー渡口「明治43年末より大正12年まで青森、香川、神奈川関東庁警視庁茨城において防疫官ならびに衛生技師として就任してきました、その間には赤十字病院の検査部長を兼任していたこともありました。愛国婦人会や看護婦養成所の講師に招聘されたこともあります」。記者・大阪で開業せられたのは何年でしたー渡口「官職をやめて大正12年に大阪で独立開業しましたが研究其の他の都合で大阪を引き揚げて東京に参りました。上京当時は一時青山北町に診療所を開設しましたが大正15年に現在の場所(蒲田区蒲田470)に新築移転してきました」。
大阪の県人会
記者・大阪の沖縄県人会長に就任せられたのは大阪で開業せられた時ですかー渡口「そうです。大阪の県人会は陣容はなかなか堂々たるものです。春秋の会合は一流の公会堂で開催しますが会員の熱心が東京とはちがいます」。記者・東京の県人会と大阪の県人会とどう違いますかー渡口「東京は学生が多いが大阪は勤労者が多い。従って東京は理論が多いが大阪はどっちかと云えば実際運動が多いようです」。記者・只今ほかに公職に御関係がありますかー渡口「出来るだけ御免を蒙りたいと存じますがそれでも医政調査会と日本医師刷新聯盟の委員になっています」。
博士になるまで
記者・あなたは県人中第一番目に博士になられたと記憶していますが学位はいつ得られましたー渡口「大正12年の4月9日東京帝国大学医学部教授会から医学博士の学位を授けられました、論文は『インフルエンザ菌および百日咳菌と他の細菌との関係ー共棲ならびに拮抗作用に就いて』でした」。記者・其の研究のために奨学資金を得られたんですかー渡口「そうです東京帝国大学と横浜医学会から2回受けました、百日咳薬と肺結核の新薬として僕の創製したハイルミンは昭和6年6月内務省国産奨励指定薬にされています」。記者・博士になるまでの苦心談を聞かしてくれませんかー渡口「僕のは苦心と云えば苦心もあったが、防疫官または衛生技師と云う仕事が自然研究せしめたようなもので仕事に一生懸命やったことが僕の研究を大成せしめたと云うのでしょう。伝染病または防疫上研究に都合のよい地位にいたことが主です。医学会には実験報告は47、8回だしました」。
(略)
沖縄救済問題
記者・沖縄救済運動に就いてどう考えますかー渡口「沖縄救済運動も大正10年ごろから叫ばれているが声の大きい割合に、成果は挙がらんようだネーもっと根強い根本的な運動が必要である。それにしても常に当局を鞭撻する政治家がなければならぬと思う、開会中だけj上京し或いは旅費を貰って陳情運動に出てくるようではカラ熱はない。代議士も知事の尻馬にばかり乗っていずにもっと自主的に自己の党を動員して仕事は出来ないもんかネー」。

東京沖縄県人会1933年春季大会ー中央右より渡口精鴻・東京沖縄県人会会長、長嶺大佐、上与那原大佐

1934年

1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社


1935年8月 『関西沖縄興信名鑑』刊
1937年7月25日 『大阪球陽新報』創刊/8月 親泊康永、大阪球陽新報東京支局長
この頃 知名定繁、来阪し普久原朝喜に民謡、又吉栄義に古典音楽を学ぶ

写真ー真栄田勝朗

下地玄信

1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社
1938年3月 大阪球陽新報主催「書画展覧会」都島幼稚園。山城正忠来阪

1938年8月 大阪歌舞伎座にて曾我廼家五郎を囲んで中央が真栄田勝朗、左が下地玄信、右が豊川忠進
1939年  比嘉恒敏、大阪の「大阪発動機」に単身で就職。1944年、父恒徳、母ジル、長男恒啓を対馬丸で亡くす。1945年、妻光子、次男恒次を大阪大空襲で亡くす→2015年10月10日 仲松昌次『「艦砲ぬ喰ぇー残さー」物語ー「でいご娘」と父・比嘉恒敏が歩んだ沖縄』ボーダーインク
1939年12月1日『大阪球陽新報』「14日・市岡会館で本社主催ー演劇と舞踊の夕ー組踊・執心鐘入」
1940年2月1日『大阪球陽新報』「2月10日より戎座ー戎座扇子家玉四郎一座・伊集、野村、良順、蘭繁合同ー日支風雲録、八重山アカハチ、上リ口説、花風、仲里節、鳩間節、下リ口説、萬歳、下千鳥節、いりしな節、天川、戻リ駕、その他数番」
1940年3月1日『大阪球陽新報』「2月15日から梅田映画劇場で日劇ダンシング・チームによる”楽しき日劇”上演、琉球おどり」
1940年4月1日『大阪球陽新報』「伊波南哲原作・八重山レビウ、3月に横浜宝塚劇場で上演、4月1日から20日間丸の内日本劇場で上演」
1940年6月1日『大阪球陽新報』「戎座の陣容強化ー5月1日旗上興行以来、比嘉正義、多嘉良朝成・カナ子夫妻、我如古彌栄・やす子親子等16名の一座」
1940年10月15日『大阪球陽新報』緑葉生「日劇に於ける新垣澄子の踊り」「24日・西区岡島会館ー関西球陽会後援ー島晴美舞踊公演ー琉球民謡に新しく振付けした花笠踊、美しき風景、ふるさとの唄3種は鳩間節、ションガネ、瓦屋節、浜千鳥節を取材新作したもの」「戎座の郷土芝居に仲井間盛良加入」

1981年6月 真栄田勝朗『琉球芝居物語』青磁社


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2009年9月17日ー「第45回琉球新報賞」を大田昌秀、大城光代、山田實の諸氏とともに受賞した獣医学博士・根路銘国昭氏(右)と挨拶をする新城栄徳(左端)

1995年  根路銘国昭『ウイルスで読み解く[人類史]』徳間書店

□1996年1月ー根路銘国昭『超ウイルスー太古から甦った怪物たち』(カッパ・サイエンス)光文社
2000年8月 根路銘国昭『驚異のウイルスー人類への猛威と遺伝子が解く進化の謎』羊土社
2004年  根路銘国昭『出番を待つ怪物ウイルスー彼らはすぐ隣にいる』光文社

『沖縄タイムス』2016-9-20□那覇市保健所は20日、市内の日本語学校に通う留学生らが結核に集団感染したと発表した。最初に症状が出た外国人の20代女子学生を含む感染者は計10人。うち女子学生ら4人が発病し通院中だが、治療を受けたことで周囲に感染する恐れはないという。ほか6人は発病予防のための内服薬を飲んでいる。市保健所によると、女子学生は今年1月ごろからせきやたんの症状があり、4月に肺結核と診断され入院。女子学生と接触した計39人が健康診断を受けた結果、9月7日時点で、同居する学生や学校関係者ら9人に感染していたことが分かった。