石川正通「布袋腹に酒杯乗せて踊りたる麦門冬の珍芸懐ふ」

 
1983年9月14日『琉球新報』新城栄徳「落ち穂/資料室運動」
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写真は左から西平守晴、真喜志康忠夫妻、河井寛次郎夫妻




府の〇印は大阪府立中之島図書館

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1月4日、今日は「石の日」という。沖縄県立図書館の階下に仲島の大石がある。(石川正通は1945年の東京空襲で自宅と5万冊の蔵書全焼している)そのそばに那覇市名誉市民・石川正通歌碑[橋内の 誇りも髙き 泉崎 昔も今も 人美しく](写真左)がある。
 石川正通が1979年の新聞元旦号に書いた随筆、今でも通用する。
〇徳富蘇峰は、終戦の詔勅を拝して、「八十三年非なり」と、自分の史観の誤りを、五言律の漢詩に托して懺悔した。伊江朝助男爵が、ヤガテユヤ暮リテ、行クン先ヤ見ラン六十六タンメ、ドゥゲイクルビ と、琉歌に盛った心境と同工異曲の挽歌である。歴史書きの歴史知らずは論語読みの論語知らずより哀れなりけり。人類の発生から絶滅まで、過渡期でない瞬間は無い。時々刻々、革新へ革新へと、動いてやまないのである。世界の列強が軍備拡張に明け暮れている今の今々、第三次世界戦争の勃発を想定して見るのも狂人の狂態ではあるまい。→『琉球新報』石川正通「憂時立砲と沖縄」
〇写真右→京都(大石橋の東にある陶化小学校の校庭)・大阪(住吉大社)にある石敢當。右端のこの写真は旅館の前にあった石敢當、現在は御津八幡宮にある。心斎橋駅の南西、御堂筋と西横堀に挟まれた西心斎橋のうち、御津公園(通称、三角公園→グーグル画像「アメリカ村三角公園」)を中心にアメリカ村と言われる。近くの御津八幡宮(祭神・応神天皇、仲哀天皇、神功皇后)の左側狛犬の傍にソテツ、梅石筆「石敢當」(→画像グーグル・ヤフー)入り口付近に建っている。


 大阪府立中之島図書館ー住友家により建築、寄贈され、1904年に「大阪図書館」として開館した。設計は野口孫市、日高胖。同年2月25日、開館式を挙行。大阪図書館は、開館直後の1906年に「大阪府立図書館」と改称。以来、長らく唯一の府立図書館であったが、1945年に大原社会問題研究所から蔵書の寄贈を受けたことで、1950年、同研究所跡地に天王寺分館を建設し蔵書の管理・収集に充てた。1974年に大阪府立図書館は「大阪府立中之島図書館」に、天王寺分館は「大阪府立夕陽丘図書館」に名称を変更している。中之島図書館が国の重要文化財に指定されたのはこの年である。 1996年、東大阪市に大阪府立中央図書館が開館。これに伴い、中之島図書館の一般蔵書の大半と夕陽丘図書館の蔵書約60万冊(特許資料関係を除く)を中央図書館に移設。両図書館で収集してきた内外特許資料・科学技術資料は、閉館した夕陽丘図書館の建物を流用して新設された大阪府立特許情報センターに移された。 2004年から、中之島図書館はビジネスマンに様々な情報を提供する「ビジネス支援サービス」を開始。→ウィキ

『大阪府立中之島図書館だより なにわづ』(1958年10月 №1~)
1979年11月 №75 竹中郁「青銅屋根ー(略)この美しい青いドーム。市民社会のシンボルのような円屋根が、片や日本経済の中の有力な銀行の屋根と向かいあって在ることにわれわれは或る誇りを感じつつ見守っていきたい。一国の経済もおろそかにはできないものだが、それと向かいあってある図書館が表徴する文化の広さや深さが、もっともっと大切だということを誇りとするのだ。そのいつも新鮮な色彩でこころにしみ入る或る暗示を、われわれ民衆は片時も忘れてはならないのだ。」

1981年1月 №80 小笠原「カード箱ーわが国の図書館においては、従来図書(本)が中心で、逐次刊行物(雑誌・新聞・研究紀要・年報等)が副次的に取り扱われ、その受入管理や利用者サービスも余り重要視されていませんでした。しかし、図書館が情報センター的機能を負わされてくると、情報の主たる源である逐次刊行物は、図書とその立場が入れ替わり、だんだん主役の座にのし上がってきたように感じられます。」
1993年3月 №119 大谷晃一 「中之島と私ー(前略)中之島にいて空襲警報が鳴った。地下鉄の淀屋橋駅に駆け込む。やがて、ぐあーんと地を響かす爆発音が不気味につづく。そんな空襲の中で、図書館をはじめ中之島の建物は多く生き残った。奇跡に近い。(略)三高生の武田麟太郎は、ここで田山花袋の『西鶴小論』を筆写した。プロレタリア作家として行き詰まったとき、西鶴を思い出し市井事物で立ち直る。三好達治はここへ通ってファーブルの『昆虫記』を翻訳し、帰りに梶井基次郎を見舞う。織田作之助は夜にここの前の公園のペンチで女といて、風俗紊乱の現行犯で派出所に連行された。私が中之島図書館を守りたいのは、建物が美的で文化財のゆえだけではない。」

2004年10月 №138 石崎重雄「古典籍の活用とビジネス支援について(略)全てにわたって、供給過剰な日本の経済で一番の需要不足が労働力であり、それも若手である。フリーターと称してマスコミの話に乗っている場合ではない。バラエティー番組の後ろの観客席に座っている場合でもない。産業社会の中で、せめて自分の分の付加価値を働いて生み出す仕事を自分で見つける仕掛けを用意しなければと思う。」
→「なにわづ 大阪府立中之島図書館だより」




新城栄徳「木村兼葭堂」
 2007年11月 美術館開館記念『沖縄文化の軌跡』新城栄徳□麦門冬の果たした役割ー大阪の町人学者・木村兼葭堂は大名とも交流があり、幅広い文人ネットワークを形成していた。兼葭堂は1796年には江戸上りの琉球人を見物、また新井白石の『南島志』や、殷元良の「琉球国図」を写本するなど琉球物を愛蔵した。兼葭堂は文人画家の浦上玉堂、池大雅とも親交があった。黄檗宗僧で煎茶道の祖・売茶翁は、大雅、若中とも親しかった。」

□1802年5月から8月にかけて、馬琴は関西に旅行した。太田南畝の紹介状や、山東京伝の書画(売却して旅費に当てる)を受け取った。馬琴は井原西鶴や近松門左衛門、竹田出雲などの遺跡も尋ねているから、江戸文学興隆の祖に思いを馳せたとしても不思議でない。関西の文人と交流した馬琴は、物語ゆかりの名所をめぐり、私的な旅行記『羇旅漫録』に「大阪にはいま、これといった人物がいない。上田秋成は京に住んでいるし、あえてあげれば木村蒹葭堂(琉球大好き人間)くらいだが、それもことしの春1月25日に亡くなってしまった。(略)岡田玉山の画(美人画や挿絵)を珍重するのは出版屋だけで、通人はこれをけなしている。森狙仙は猿の写生に巧みで、そのほか画家はいくらでもいるが、みな京にはおよばない。」と記している。(□→木村剛久「マイブログ海神日和」 )


木村兼葭堂邸跡に於いてー新城あけみ、さやか、江

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木村蒹葭堂の墓、下に『琉文手帖』が見える。

きむらけんかどう【木村蒹葭堂】 1736‐1802(元文1‐享和2)
江戸後期の雑学者。名は孔恭,字は世粛。別に巽斎とも号した。通称は坪井屋吉右衛門。大坂の人。酒造業を営むかたわら,学芸を好み,小野蘭山に本草学を,片山北海に漢詩文を,大岡春卜に絵を学ぶなどした。書画骨董や珍品奇物の収集と考証につとめ,博学多識をもって聞こえた。その一端は《蒹葭堂雑録》に示されている。博識と好事の癖を愛して来訪する者がきわめて多かった。晩年24年間の克明な日記を残しており,それによると地元大坂の人ばかりでなく,大田南畝,頼春水など諸方の名士のほとんどが来訪しており,当代の知識人のサロンの主宰者のような蒹葭堂の立場を伝えている。(→コトバンク)


伊賀上野「芭蕉翁記念館」息子と/1963年9月 大阪・大丸 毎日新聞社主催「芭蕉の生涯展」 、1983年6月 上野市観光協会「俳聖 芭蕉翁」、2004年5月 難波別院「南御堂と芭蕉」

御堂筋の南御堂と北御堂

『此附近芭蕉翁終焉ノ地』
御堂筋の南御堂(真宗大谷派 難波別院)前にはソテツ。御堂筋道路の石碑に刻まれている文字は『此附近芭蕉翁終焉ノ地』とあり、松尾芭蕉の終焉の地と言われている。人生の多くの時間を、旅と、紀行文や俳句の執筆に費やした芭蕉は九州へと向かう旅の途中に立ち寄った大阪で病に伏し、51歳の生涯を閉じたとされている。そして、松尾芭蕉の有名な句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」が刻まれた石碑は難波別院境内の中にある。松尾芭蕉辞世の句を刻む石碑には芭蕉(バナナ)の木が傍に立っている。本堂で阿弥陀如来佛を前にして瞑想したつもりが気持ちが良く、つい、うたた寝をしてしまった。別院でパンフ「南御堂と芭蕉」をもらった。善導大師「信心の人はすでに浄土に居(こ)す」。
北御堂(本願寺津村別院)ー本願寺第8代宗主蓮如上人の手により、大坂(明治から大阪)に、親鸞聖人から伝えられた「お念仏」のみ教えを弘めるため、現在の大阪城のあたりに坊舎(後の石山本願寺)が建てられました。1497年のことです。その坊舎を中心にしてまわりに寺内町が形成され、大坂の町は大いに発展していったそうです。しかし、織田信長との長い争いにより、本願寺は生み育てた大坂を離れなければならなくなり、そこで、大坂の門徒はこの地での「お念仏」の灯りをまもるため、天満に近い「楼の岸」に新しい坊舎を建立しました。その後、「津村郷」と呼ばれていた現在の地に移り(津村別院の名称の由来)、津村御坊は「北御堂」と称されるようになり、南御堂(真宗大谷派難波別院。津村別院から南へ約500メートル)とならび大坂のひとびとに親しまれた。津村ホール傍に見事なソテツと巨大な親鸞聖人像が立っている。向かい合う形で蓮如上人像が立っている。善導大師「娑婆に楽ありといえども これ真(まこと)の楽にあらずこれ大苦なり」。

 1914年11月 同人誌『五人』末吉麦門冬「芭蕉の恋ー(略)彼等二人の間に男色の関係のあったといふことは今日から見る程不自然なものではない。鎌倉以来我国には衆道といふことが武家間には非常に盛んであった。足利義政公は  常盤山とはにはさかずいはいはつつじ/春の日数をたづねてもとへ  云々と云はれた。南浦文集に昔々物語を引いて曰く  昔は衆道といふ事有て一四五六、七八の男に生まれ付よきは勿論大躰の生付にても念者といふもの持たぬ若衆は一人もなし。云々(以下略)」
 南方熊楠は麦門冬・末吉安恭からも琉球の男色の情報を得ている。ネットで一々紹介するのは憚れるので割愛する。麦門冬は早婚なのでいわゆる淡いプラトニックで終わってしまった。その分、妻に愛を注ぐことになるが、男色については折々書いている。たとえば1911年1月『沖縄毎日新聞』に書いた東京時代の古手帖には「沖縄の組躍に男色をほのめかしたのに執心鐘入と二童敵討」「伊藤銀月の男色観」、14年11月ー同人雑誌『五人』の「芭蕉の恋」などがそうである。

近松門左衛門
井原西鶴(浮世草子)、松尾芭蕉(俳諧)とともに元禄三大文豪として名高い浄瑠璃・歌舞伎作者の近松門左衛門の墓は尼崎の広済寺(→HP)と、地下鉄谷町線「谷町6丁目」下車、谷町筋を南へ 谷町7丁目交差点南へすぐ、ガソリンスタンド手前の狭い道の奥にある。墓は、当初近くの法妙寺境内にあったが、同寺は大東市へ移転し、墓だけは現在地におかれ、押し込まれたようにして残っていた。1980年に整備が図られ、国の指定史跡となった。【広済寺】尼崎市にある日蓮宗の寺(ソテツもある)。957年(天徳1)多田満仲が妙見菩薩を勧請して創建したと伝え、のち荒廃。1714年(正徳四)日昌が堂宇を建立。近松門左衛門の墓がある。俗称、近松寺。(広辞苑第四版)帰途、浄土真宗本願寺派西正寺のソテツを見る。□→「HP・近松のまち・あまがさき」
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近松門左衛門は1653年(承応2年)の生まれで(出生地については諸説あり)、本名は杉森信盛、幼名は次郎吉といい、越前・吉江藩士杉森市左衛門信義の次男として誕生する、。元禄年間を中心として、貞享~享保と約40年間にわたり劇作家として活躍し、1724年(享保9年)に72歳で没した。

京都に移った近松は公家に仕え、その間、浄瑠璃の語り宇治嘉太夫と出会い、彼のもとで浄瑠璃作家の修行を始めます。天和3年(1683)、嘉太夫に書いた「世継曾我」が世評を得、嘉太夫の門下にあった竹本義太夫とも提携するようになりました。貞享元年(1684)、大坂に竹本座を創設した義太夫を祝って書いた「出世景清」を契機として、現実的、個性的描写による浄瑠璃の新生面を開き深化を遂げました。

元禄期後半の約10年間は、上方の名歌舞伎俳優坂田藤十郎との緊密な提携のもと、歌舞伎制作に主たる情熱を注ぎました。代表作として「傾城仏の原」があります。坂田藤十郎のために20数作の歌舞伎狂言を著している。「曽根崎心中」「心中天網島」「女殺油地獄」などの世話物に代表される作品に描かれる人間の姿は今日に通ずる所も多く、伝統芸能や演劇、映画などの中で再創造され、たくさんの人に感動を与え続けている。

藤十郎が都万太夫座(京都)の座元を引退すると大坂に移住し、義太夫の竹本座専属となって浄瑠璃の創作に専念しました。元禄16年(1703)「曾根崎心中」で大当たりをとって以降、次々と傑作を生み出していきました。「曾根崎心中」については、麦門冬・末吉安恭が組踊談叢で「近松門左衛門が心中の『死ににゆく身をたとふればあだしが原の道の霜一足づつに消えてゆく・・・』まで書いて後をつづけ得ないで困っていると際、来訪した伊勢の俳人涼菟に助言を求めて、『夢の夢こそはかなけれ』とつけて貰った話と似て居る」と書いている。

□岩田涼菟
岩田涼菟(いわたりょうと)1659~1717 本名は岩田正致。通称は又二郎。初号は団友、のち団友斉、元禄十三年頃涼菟と改号した。後、神風館(じんぷうかん)をついでその三世を名乗る。本職は伊勢山の神職。俳諧は芭蕉門下、後世この軽妙な俳風を伊勢派と呼んだ。江戸の其角とは同門の親友。 著書に『皮籠摺』『山中集』『砂つばめ』などがある。享保二年(一七一七年)四月二十八日没。享年五十九歳 (→三重県ゆかりの俳人たち )