1、大正15年4月  世界社を創設し社主兼主幹として『世界』を経営した。『世界』は日本の「ネーション」誌を以て任じたが時代に先行しすぎて永続しなかった。→永丘智太郎 略歴 〇岩波書店の雑誌『世界』は1946年1月創刊、誌名は谷川徹三の発案。


□『世界』創刊号は新垣讓氏が熊本県立図書館に所蔵されていることを突き止めて書誌的なコピーを新城栄徳に贈られた。
大正15年11月1日 『世界』創刊号 編集発行・饒平名智太郎 発行・世界社/発刊の言葉ー『世界』が世の光を見るまでには1年かかりました。人は胎内にあること10ヶ月にして産声をあげますけれど、『世界』は、編者の頭の中で丸1年育くまれました。実に難産でありました。難産であっただけに、生れた『世界』は、雄々しく颯爽たる姿をしています。/評論雑誌界が、一般に行詰ったといふことをよく聞きます。それは今までの雑誌が、読者本位でなく、経営者たる資本家本位であるがため、無暗と厖大に編輯されるからであります。この評論雑誌界の行詰りを転向するのが、『世界』の使命であります。/『世界』は読者のインタレストにたいしては、どんな犠牲も拂ふことを辞しない、読者のための読者の雑誌であらしめたいと思っています。この點で『世界』は、十分に存在の理由をもちます。/『世界』は評論雑誌界の新しい方向を指す革命児で、読者以外に何等の背景がないといふことも断言出来ます。
目次
岡本一平「政治漫画」/安倍磯雄「公平なるべき選挙」/堀江帰一「社会問題の研究、運動と学生」/青野李吉「文芸・社会雑感」/長田新「現代の教育哲学に就て」/三輪寿壮「労農党成立後の活動」/三宅雪嶺「後藤子の最近政治運動」/馬場恒吾「普選市議選の教訓」/山川均「無産階級運動の左右両翼の対立」/長谷川如是閑「二三の断想」
創作ー佐藤春夫「白服の悲しみ」/藤森成吉「ゴッホの花」/尾崎士郎「ピストル」/片岡鉄兵「身を固める」/小川未明「生物動揺」/芥川龍之介「鴉片」
海外論断
澤田謙「『自動車王』フオード」/下田将美「堅実なる財界整理に禍する日銀の利下」/遊佐敏彦「婦人職業生活の諸相」/石川武美「経営一家言」/饒平名智太郎「英国炭鉱争議の大立物クック」/國富信一「秋の空」/三角頭巾「内務省の人事系統」/三宅大輔「六大学野球リーグ戦予想」/森光子「ある遊女の実話」 
六大学通信


永丘智太郎 略歴
本籍         東京都北多摩郡武蔵野市吉祥寺2733
住所         千葉県印旛郡遠山村三里塚沖縄農場
東京のアドレス   都下田無町2729 誠和寮内永丘私室
出生地        沖縄県那覇市若狭町
出生年月日     明治24年2月3日
旧姓         饒平名を廃し祖父永丘家を復興
 
写真ー饒平名智太郎/1938年2月19日『琉球新報』「改姓広告」

学業
1、明治41年3月   沖縄県立中学校を卒業した。
○1908年・第20回卒業ー新垣朝光(県属)、上原章、上間長八(今帰仁今泊)、奥島憲慶(読谷山小学校長)、大嶺眞和、大湾政順(那覇市役所)、大見謝恒英(百四十七銀行那覇支店)、大湾喜福、嘉手川重輪(大阪税務監督局)、垣花恵祥(県庁)、我部政仁(東京小学教員)、嘉手川重位(那覇松山小学訓導)、川津博(早稲田文科卒)、神里常吉、金城嘉輔、嘉手納順範(在東京)、金城蒲戸(安里小学校訓導)、我謝秀輝、金城至蒲、許田重発(那覇尋常高等小訓導)、岸本幸厚(沖縄タイムス理事)、宜名眞邑挙(真和志小学校訓導)、久高将吉(工学士 京都市上市区田中町字大溝6)、城間垣貴(東京小学教員)、國吉良實(明大卒 泉崎)、小波津保光 、小橋川照顕(那覇市議)、小湾喜長(私立農業大学卒 中頭郡 技手)、佐久川恵柔(台南製糖会社嘉手納工場)、佐多忠三(台南製糖宜野湾工場)、島袋賀麻、謝花寛廉(在東京)、鹽谷亥之助、垂野光久、玉城友善(早稲田卒 本校在勤)、大工廻盛敏(沖縄県物産検査所産業主事補)、高志武盛蔚(津波小学校訓導)、照屋寛純(首里男子校訓導)、渡久地政佑(台南製糖会社高嶺工場)、東郷實(鹿児島県)、長友一郎(東京高商卒 郵船会社孟買支店)、名城嗣敏(在東京)、仲尾次政潤、名城嗣頼(南米ペルー)、今帰仁朝興(中頭郡書記)、仲吉良光(早稲田文科卒 在米)、今帰仁朝規(早稲田文科卒 糖商組合)、長嶺精一(佐敷小学校)、饒平名智太郎(在東京 改造社)、西平守由(広島高等師範卒 本校教諭)、新名栄蔵(那覇区旭町)、樋口敏彦(東京高工教員養成所卒 東京市役所建築課都市計画部)、比嘉賀秀(牧師)、弘中一郎、外間善助(国頭郡屁辺野喜小学校長)、外間誠昌(師二卒)、真境名安行(熊本医専卒 中頭郡勝連村医)、眞玉橋朝信(南風原小学校訓導)、又吉康和(名護)、松村嘉實(師二卒)、宮城普本(熊本医専卒 在大阪)、森田孟睦(高工卒 東京警視庁)、飛岡太郎(基隆台湾倉庫株式会社)、屋我宗恭(沖縄朝日新聞社)、山口房良(首里女子小学校長)、屋部憲重(泊小學訓導)、山城次郎(在南米)、吉嶺伊津(神戸山中廻送店)→1923年2月 沖縄県立第一中学校同窓会『同窓会報 第一号』


1、それから東京高等商業学校(明治42年4月)と上海の東亜同文書院(大正3年4月)に県費で入学したが、前者は家事の都合、後者は病気のため、何れも中退に終わった。大体学校よりも独学で素養をつけた。

1911年7月 饒平名智太郎、物産陳列所雇(~1912年6月)


1912年10月28日『琉球新報』

職業
1、大正5年9月   北京の共同通信に英文記者として入社3年間勤務した。

1、大正8年9月   改造社に記者として採用され、6年間の在勤中印度及びロシア問題を研究した。此間に北支、満州、シベリア(浦塩)に遊んだ。孫文、ヨツフエ、カラハン、片山潜等に知遇を得たのも此時代。浦塩に行ったのは、関東震災羅災労働者救援委員会(松岡駒吉、布施辰治其他学者グループを以て構成)の代表としての資格であった。

1922年4月  『改造』饒平名智太郎「真理の把握とガンヂーの運動」
1922年5月  『改造』饒平名智太郎「サチャグラハ運動」
1922年5月  鹿子木員信②・饒平名智太郎『ガンヂと真理の把握』改造社
②鹿子木 員信(かのこぎ かずのぶ、1884年(明治17年)11月3日 - 1949年(昭和24年)12月23日)は、日本の哲学者、海軍軍人。最終階級は海軍機関中尉。大日本言論報国会の事務局長として国粋主義思想運動をリードし、戦後はA級戦犯容疑者として逮捕された。妻は教育者である鹿子木コルネリア、息子にベルリンオリンピックに出場したバスケットボール選手、鹿子木健日子がいる。「プラトン哲学の研究」で文学博士(東京帝大)。→ウィキペデイア

1922年8月  饒平名智太郎『ガンヂ審判の日』改造社
1922年10月 『改造』饒平名智太郎「松岡駒吉君」
1922年11月 『改造』饒平名智太郎「ケマール・パシャ」
1923年4月  『改造』饒平名智太郎「水平社大会特派記ー(略)水平運動は決して彼等のみの解放運動に止まってはいけない。彼等の解放運動であると同時に、全無産階級を解放するの運動でなければならない。幸ひ彼等はその方向を指して突進しつつあるのを私は見た。私は彼等の前途を祝福しながら筆を擱かう。」
1924年3月  『改造』饒平名智太郎「ルイコフの片鱗」



1961年1月11日『沖縄タイムス』永丘智太郎「遺稿・難民のころ」①~1月18日⑦
御料牧場の開放ー昭和20年10月ごろ、久米島出身の与世盛智郎①(本願寺の海外布教師)が中支方面から引き揚げて来ていた。引き揚げ者やら復員軍人やら彼を取り巻く一族郎党は多く皆が困っていたので、いわゆる集団入植を計画して沖縄協会に何べんか私を訪ねて来た。富士山の麓か浜名湖の近くにある御料地は如何だろうかという話であった。彼は農業をやった経験はなし、入植適地か如何か、だれも下検分に行ったわけではなかったから、私も容易に動こうとはしなかった。

私は戦前、与世盛君とは一度会ったことがあり、宮城聡が私の職場に連れて来て紹介されていたので、人間的に信頼をおいていた。そこへ行くと理事長の伊江さんは、初対面の素性のわからない人には警戒的であった。幸いなことに、沖縄協会に来てくれた那覇の人で城間君(恒加翁の長男)といって、慶応大の助手をしていて、毎年夏になると実習に千葉県の三里塚御料牧場に行ったことがあり牧草地帯だから地味肥沃で絶好な入植地だと太鼓判をおしてくれた。この城間君を与世盛君に紹介することによって、初めて与世盛君のアイディアも生かされた。現地へは、同君が率先して久米島の若い人々を連れて調査に乗り込むし、山城君や儀間君など血気盛んな青年たちも視察に行って、極めて入植適地であることがわかったので、私は初めて宮内庁は御料地百町歩の開放ー「郷土を失って帰ろうにも帰れない沖縄の難民を、沖縄協会においてあっせん入植させたいから、特別の詮議で許可を乞う」旨の陳情書をしたためた。伊江男や高嶺君も宮内庁の官僚に知人があって奔走してくれた。宮内庁への運動には、伊江さんは当時まだ顔がきいた。

そこで沖縄協会としては、神奈川逗子の沼間寮、横浜金沢八景の引揚寮、および埼玉県のわらび寮に収容されていた県人から入植希望者を募集し、与世盛君を団長として18人の先遣隊を現地に送り込んだのは、昭和21年3月6日であった。この中から現在に至るまで定着している者は、11人あり、唯一人の婦人として私の家内が初めから加わっていた。この先遣隊が、いわば三里塚開拓の中核隊であり、久米島一統が5家族あった。(それから二次三次の入植補欠募集で久米島は更に数家族増えた)その後、宮内庁はマッカーサー総司令部の強要によって、全国にある大部分の御料地を放擲せねばならなかった。三里塚においては、千四百町歩の内千町歩は大蔵省へ物納(税金)として収めることになり、大蔵省はその土地をそっくり開拓財産として農林省へ回付した。農林省は、千葉県の開拓課に処分を一任した。宮内庁からは、千葉県知事に対して沖縄協会へは、優先的に土地を分譲するよう特別の指示を出してくれ、その旨沖縄協会へも通達があった。


『久米島と私』/上江洲智泰

■2002年の10月、久しく山之口貘記念会を預かっていた若夏社の山川敏江さんの案内で上江洲智一氏に会い、父君・智泰の回想録『久米島と私』を頂いた。中に南満の公主嶺に航空兵として滞在した話、上海で布教していた義父・与世盛智郎(西本願寺僧侶)と千葉県三里塚の御料牧場を永丘智太郎名(沖縄人連盟)で宮内省、千葉県との交渉、「沖縄農場」として入植した話、そこで世話になったのが与世里盛春農業学校校長だったことが記されている。


与世盛智郎1981年ー与世盛智郎『50年計画ー理想の久米島建設』/1979年3月ー与世盛智郎『沖縄仏教読本ー本願寺派』久米島本願寺布教所/真喜志康徳氏宛の与世盛智郎ハガキ
    写真ー与世盛智郎①


1947年11月28日『自由沖縄』


1947年8月15日『自由沖縄』




2015年4月25日ー写真左から新垣讓氏①、佐藤充氏、新城栄徳
①新垣讓ー1964年東京都板橋区生まれ。大学除籍後、週刊誌編集者を経て、フリーのライターへ。旅行雑誌、アウトドア雑誌などで、おもにインタビュー記事を中心に執筆。1997年、晴釣雨筆の生活を夢見て、千葉県銚子市に移住


2016年11月7日『沖縄タイムス』新垣譲「開拓村 『沖縄農場』の軌跡」

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世界社の刊行物ー世界社は6年間の持続期間中に幾多特色ある図書を刊行した。

1927年7月ー漢那憲和『今上陛下と昭和新政』世界社(饒平名彌榮)
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3月5日ー(沖縄)県の特産品を差上ぐることの県民としての光栄を思ひ、翌日 殿下県庁に御成りの際、川越知事に御思召の程を伝へ永良部鰻にその料理法の簡単なる書きものを添えて献上されたき旨を勧告せしに、知事亦欣然と之に賛同し早速その手続きをされた。翌7日、御運動の御相手を承りしとき、「殿下、永良部鰻を召上りましたか」と伺ったら「ウン、喰べた、大変おいしかった」との有難き御言葉に接した。
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写真前列中央・東宮、その左が漢那憲和

◇ジブラルターでは、米国の地中海艦隊司令長官ニグラック中将が、旗艦ピツツバーグに坐乗して佛國南岸から態々大速力でかけつけて参り、東宮殿下を御歓迎申し上げた。同長官は大統領の伝言として、殿下が今回米國に御出遊ばさない事を遺憾とするが、機会あらば是非御出を賜り度い、と言上したそうである。(略)殿下も色々と御話し遊ばされたる内に、極めて好適の時機に『私は米國を訪問することを切に希望するのであるが、今回はブログラムも悉く確定しており、如何とも致しようがない。然し貴國とは距離が近いことであるから、一旦帰って又出直す機会もあろうかと思うから、大統領閣下に此の旨御伝えあらんことを希望す』と御述べになられたので、ニグラック長官は急に容を正し叩頭して、御懇篤なる御挨拶を感謝し奉り、仰せの通りお伝え致します、と非常に喜んだと云うことである。御帰朝後は間もなく摂政の重任遊ばされたので、米國御訪問の機会は遂に失われて大統領の希望に副はせられることは出来なかった。
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1928年11月 エグ・オグニヨフ著/饒平名智太郎・訳『ソウェート学生の日記』世界社
1928年11月『中央公論』大宅壮一「出版革命の勝利者」/饒平名智太郎「出版会のリーダー四人男 講談社の野間氏、改造社の山本氏、新潮社の佐藤氏、平凡社の下中氏其の人と事業の短評。 野間氏は僕の中学時代の国語の先生だ。其頃の野間氏は快活な放胆な、教育者といふよりは一個の遊子ローマンテイストだった。国語の時間に、よく八犬伝を聞かせてくれたものだ。氏の放蕩は、学生の間にも知れ亘っていたから余程遊んだものらしい。それの快打策として当時の中学校長だった大久保氏に世話して貰ったのが、今の野間夫人だ。(以下略)」
1929年7月  饒平名智太郎『プロレタリア芸術教程 第一輯』世界社
1929年11月 饒平名智太郎『プロレタリア芸術教程 第二輯』世界社
1930年4月  饒平名智太郎『プロレタリア芸術教程 第三輯』世界社
1930年7月  饒平名智太郎『プロレタリア芸術教程 第四輯』世界社

1、昭和6年3月   改造社との関係を復活し、モスコー特派員として1年間露都に駐在し、5カ年計画第三次決定年度の進展状況をレポートした。日ソ間の文化交流に微力を致す心算であったが、満州事変の勃発があって空しく帰国した。