東京の島袋和幸氏から近著『沖縄の軌跡ー沖縄烽火のネッワーク』が贈られてきた。島袋氏が最初に書いた『青い海』(1983年6月)の「沖縄烽火考」も収録されている。私は『青い海』大阪本社で島袋氏を知り東京に会いにいった。1975年9月29日、東京で沖縄史を記録する会が発足した。81年5月、機関誌『沖縄民衆史を歩くー記録と発掘』が創刊された。82年1月発行『沖縄民衆史を歩く』第2号に島袋氏は「沖縄烽火考」を書き、書評『むらの輝ける日々』も書いている。82年9月発行の第3号に氏は「戦後沖縄史研究の手引書」を書いている。
null null

1983年11月、島袋和幸宅を事務局に沖縄民衆史の会機関誌『沖縄民衆史』第1号が発行された。島袋氏は「上里春生のこと」を書いている。島袋氏は85年1月から個人紙『沖縄の軌跡』を発行するようになる。『沖縄民衆史』第2号は85年3月発行で島袋氏は「南洋の足跡ー沖縄県人の生きた島」を書いている。同号に『琉文手帖』の広告がある。第3号の発行は86年3月、私が提供した人類館事件の写真が表紙に用いられ、島袋氏は「人類館事件と中国」を書いている。同号にも『琉文手帖』の広告が載っている。86年12月発行の『沖縄民衆史』第4号に島袋氏は「苦難の上京美酒『泡盛』」を書いている。

1986年、このころ島袋氏は故郷・伊江島と沖縄島との架橋運動も展開している。氏の故郷関連の著作でまとまったものに1985年発行の『浮亀山物語』がある。2009年11月には『伊江島人(チュ)ミーチリサンダーの一生』を発刊。1996年1月、氏は永年の宮里良保、安元実発、佐々木笑受郎の調査(聞き書き)をまとめ『沖縄・ある編集者の記録』を出している。これは沖縄の新聞書評で新川明、伊佐真一が取り上げた。2000年4月に弁護士・前島清三郎のことをまとめ『琉球の事件』を出版。これは鹿児島の山下欣一氏にも送った。01年には詩人・上里春生、国頭三奇人らをまとめ『沖縄・山原の二才達』を出版。

2007年1月、島袋氏は『沖縄タイムス』の唐獅子を担当、聞き書きボランティアについてj書いた。葛飾区の聞き書きボランティアの会の一員として3月には『ボランティアのための聞き書きの手引き』を出した。今回は新たに「沖縄・烽火ネットワーク連絡会」(〒124-0011東京都葛飾区四つ木4-18-10 電話03-3695-9276 携帯090-4920-6952)を立ち上げている。
null

島袋さんは昨年6月に「沖縄の軌跡」を集大成した『沖縄の軌跡』を発行している。その中には人類館事件の写真も載っているが、人物も多く紹介され、「来沖した太平洋画会/吉田博・中川八郎・石川寅治」「大久保孝三郎」「加藤松男」「大城朝詮」「飛行家・奈良原三次」「小田栄・俊与兄弟」「豊川善曄」「中尾捨吉」「津曲兼綜・鴻巣盛雄」「木下寿徳」「大宜味朝徳」「漢詩人・渡辺重綱」「佐々木笑受郎」「上里参治」「内間静雄」「新城朝功」「江里口武次」「渡辺重綱」「佐々木笑受郎と一族」「伊江島三兄弟」「金城時男」「前島清三郎」「安元実発」「塙忠雄」「仲原善徳」「松下之基」「石野瑛」「浦添為宗」「宮里良保」「山田真山」「横山健堂」「上里春生」などが取りあげられた。本書刊行後も「沖縄の軌跡」は発行されているので、さらに2冊目も期待できる。→2010-4記

島袋和幸 ☎03-3695-9276 携帯090-4920-6952




2004年3月27日『沖縄タイムス』新城栄徳「ヤンバルの青年たち」
 先日、屋嘉比収氏、大峰林一氏(与徳研究家)、ニライ社の西里信人君と画家・宮城与徳の郷里ヤンバル名護を訪ね、親族の比嘉氏の案内で与徳の墓跡、生家跡まどを見た。徳田球一の碑も見た。
null
写真左から新城栄徳、大峰林一氏、屋嘉比収氏(西里信人撮影)
平良真六さん
平良真六氏は琉大総合農学科を卒業し、教諭として30年間、安波小中学校、辺土名、那覇商業、名護商業の高校などに務め、教公二法闘争や復帰運動に積極的にかかわった。また中部商業高校勤務のかたわら琉大大学院に通い90年に修了。同窓に屋嘉比収や孫薇さん、豊見山和美さんらが居た。

真六氏は90年に『ふるさとに生きがいを求めて』を出版し、喜如嘉は「ちっぽけな片田舎だが、純真で団結心、共同体の強いところほど時代の変遷にくるくると真っ先に安易に妥協せしめられ、時の政治に振り回された」と記している。夫人・啓子さんは対馬丸遭難の体験記録『海鳴りのレクイエム』で真六氏との歩みにもふれている。

96年に発行された辺土名高校五十周年記念誌『波原』に真六氏は19代PTA会長、事業期成会会長として挨拶を寄せている。2001年、私は友人・島袋和幸の著『沖縄・山原二才達』を真六氏に贈ると礼状に「早速拝読致しました。上里春生について、その人物像を知りたいと思っていましたので喜んで居ります」とある。

null
2004年2月16日『沖縄タイムス』「自衛隊のイラク派遣を受け、大宜味村喜如嘉に住む元高校教師の平良真六さん(67)が、自衛隊や日本をテーマにした詞を作った。曲はあえて軍歌調にした」


 大震災後、テレビが「日本はひとつ」の大合唱である。これは「一人は万人のために、万人は一人のために」という社会運動の文句を思い出す。無縁社会から連帯社会への転換期であろうか。改めてその連帯社会運動の先駆者・徳田球一を客観的に見つめ直すことにする。

1905年2月17日ー『琉球新報』死亡広告「父佐平葬式ノ際ハ雨天且遠路ニモー長男 徳田球一 二男 徳田正次 兄 徳田彌太郎 親戚 喜屋武泰蔵

1911年3月8日ー沖縄県立中学校卒業ー徳田球一、新城朝功、池宮城積宝、恩河朝健、許田普正、佐々木微笑、尚琳、仲里朝章、西平賀譲、比嘉良篤ほか

1946年5月5日ー『自由沖縄』□今は時めく共産党書記長、郷土出身唯一の代議士徳田球一氏が昔々『特急』に乗ってソ連に潜入してという話は余りに有名だが、凡そ徳田といえば頭の先から足の先まで闘争心だけだと世人は思い込んでいるが、なかなかどうして氏には絶対に他の追随を許さぬやわらかい領域がある。インターナショナルの大会で逆立ちをして世界代表の度肝を抜いたという芸当はさて置き、徳田氏飲めば必ず歌う十八番がある。ざっと御紹介に及ぶと
                   九年母木の下うて    布織いる女    あきさみよー
                   あんしん美らさがや    九年母木の下ソーイソーイ
                   美らかーぎ下ソーイソーイ
この琉歌は「九年母木節」で、普通には
   九年母木の下をて    香しやん木の下をて  ハーリヨー シホーラーヨー
   おれが下をとて     布巻ちゆる女   ハーリー  アンシン美ラシャルヤー       
            
nullnull
左・1955年8月『徳田球一伝ー追悼版ー』理論社/1955年10月『回想の徳田球一』東洋書館
里見哲太郎

1939年9月1日 『大阪球陽新報』里見哲太郎「浮世漫談三則」

1964年12月 里見哲太郎(徳島市南矢三町堂屋敷1-1)『わたしの歩み』

2000年3月 『記念誌・徳田球一』徳田球一顕彰記念事業期成会(東江康治会長)□里見哲太郎「徳田球一氏を偲ぶ」)(『わたしの歩み』転載)

杉森久英
小説家・評論家
明治45年(1912)〜平成9年(1997)
石川県七尾市に生まれ、この地の旧家の出で吏員を勤めて石川県属となった父の転任で金沢市に移り住み、菊川小学校、一中、四高に学び、昭和9年東大国文科を卒業しました。昭和28年発表の短編小説「猿」が芥川賞候補となったことを機に文筆生活に入ります。文芸評論、人物論、書評などにも筆をとるかたわら、諧謔、風刺小説をつぎつぎに発表し、同郷の作家島田清次郎の生涯を書いた「天才と狂人の間」(昭和35〜36年)で直木賞を獲得し文壇の地位を確立します。
□→「百科事典ディマス」(動画・徳田球一/1946)


石川正通□「ふりむん随筆」
徳田球一と神田の下宿で寝ころんで本を読んだのもその頃だ。球一はいつも丸太のように寝そべって坐ることなんかめったになかった。それから田端の或寺に引っ越して行った。当時の徳田球一の事を最も詳しく知っているのは山城正綱画伯と文学薄士石川正通である。その一年前までの球一、つまり七高造士館時代の球一のことは伊禮肇に聞けば一番よくわかる。またその前というと、沖縄一中時代の徳田球一の勉強振りや怠け振りに就いては伊禮亀(肇の当時の名)、比嘉良篤、瀬長良直あたりが生々しく語って呉れるであろう。当時の徳田球一行状記に関しては天才池宮城積宝が生き字引であったが、惜しい人を亡くしたものだ。(略)尼寺の若く美しい尼僧達が球一の天真爛漫な開放主義と男性美に面くらって感じてはならない春を感じてそそくさと列を乱し嬌声をあげて逃げたことも一度や二度ではない。私はもちろん共産党と何ら関係はないが人間としての彼をこよなく愛する。