私は17歳は東京一の繁華街、新宿歌舞伎町の大衆居酒屋で働いた事もあるが、その頃は若くてパワーもあった。20年ほど前、浅草寺初詣に行ったとき参拝者の列に入ったら全く身動きが取れなく離脱したこともある。とにかく過密都市でのオリンピック開催は気が知れない。いずれにせよ静かな都市に憧れて京都に住み着いたのが1969年であった。復帰前、沖縄関係資料室主宰の西平守晴さん一家と同行、生駒聖天に初詣したのが生駒との出会いである。その後、私の家族は生駒に直通する近鉄奈良線の布施駅近くに住むことになる。


1985年10月 宗教社会学の会編『生駒の神々ー現代都市の民俗宗教』創元社〇朝鮮寺ー在日韓国・朝鮮人の巫俗と信仰ー


宝山寺と新城あけみ
宝山寺(ほうざんじ)は、奈良県生駒市門前町にある真言律宗大本山の寺院。生駒聖天(いこましょうてん)とも呼ばれる。山号は生駒山(いこまさん)。1678年に湛海律師によって開かれた。本尊は不動明王。鎮守神として歓喜天(聖天)を天堂(聖天堂)に祀っている。仏塔古寺十八尊第十五番。(→ウィキ)
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2006「トンビの目のパノラマ地図」
○我が家は近鉄奈良線の布施駅近く(上の赤丸・東大阪市)にある。奈良公園や、唐招提寺・薬師寺、大和文華館(山口宗季の花鳥図、座間味庸昌の人物画が所蔵されている)、近鉄資料室や大阪ミナミ(道頓堀)に出るのに便利である。奈良はシルクロードの終点と言われているが、1977年発行の辛島昇①編『インド入門』に「日本人のシルクロード好きは、毎秋奈良でひらかれる正倉院展にどっと人があつまる事情と軌を一にしたものである」とし「むかし大東亜共栄圏という日本を扇の要においたひろい意味での文化圏を捏造した国粋主義に通じる」とする。奈良は東大寺の大仏や興福寺の五重塔、阿修羅像でも知られ世界遺産でもある。
①辛島昇 からしま-のぼる
1933- 昭和後期-平成時代の南アジア史学者,インド史学者。
昭和8年4月24日生まれ。専門は南アジア史。昭和50年東大教授。のち大正大教授。平成15年「History and Society in South India:The Cholas to Vijiayanagar(南インドの歴史と社会─チョーラ朝からビジャヤナガル王国へ)」で学士院賞。19年文化功労者。東京出身。東大卒。著作に「インド入門」など。→コトバンク

東大寺大仏殿ー2017年1月


奈良近鉄駅ビル3・4階に歴史・観光の展示館「なら奈良館」(旧・奈良歴史教室)

源平争乱によって焼失した東大寺を、重源はその資金を広く寄付にあおいで各地をまわる勧進上人となって、宋人陳和卿の協力を得て再建にあたりました。そのとき採用されたのが、大仏様の建築様式で、大陸的な雄大さ、豪放な力強さを特色するもので、この東大寺南大門が代表的遺構です。

国宝・銅造盧舎那仏坐像/重文・如意輪観音坐像

大仏殿にある広目天像  多聞天像 

小説家して有名な森鴎外は、大正6年に帝室博物館の総長に任命され、東京・京都・奈良の帝室博物館を統括する要職でした。大正7年から10年まで、秋になると鴎外は正倉院宝庫の開封に立ち合うため奈良を訪れており、滞在中の宿舎はこの場所にありました。

 2006年5月13日ー午後は、近鉄丹波橋で降りて、御香宮神社に行く。名水「御香水」が境内にある。この神社には京都市天然記念物のソテツがあり、その実は「延命厄除そてつ守」になっている。鳥せい本店側では名水「白菊水」、月桂冠大倉記念館では名水「さかみづ」を飲んだ。同時に昼間からきき酒で顔が赤くなった。

御香宮神社
近鉄奈良駅西口を出て地下道を通って近鉄高天ビルに出て歩道を西の方に歩くと直ぐ通称「山の寺」という看板が見える。奧まったところに「葵」の紋を打った山門が建っているところが浄土宗降魔山「念仏寺」である。門をくぐると降魔山と記された燈篭がある。その傍らに蘇鉄。1614年(慶長19年)11月15日徳川家康が大阪冬の陣の折、木津の戦いで真田幸村の軍勢に敗れ、奈良へ逃げ延び、この地の小字山の寺に至って、桶屋の棺桶の中に隠れ、九死に一生を得た。その後に、家康が豊臣方を破って、天下が治まった、1622年(元和8年)徳川家康の末弟で当時伏見城代を務めていた松平隠岐守定勝が、ここ油坂・漢国町を買い受け、袋中上人を開山として諸堂を建立したのが、山の寺「念仏寺」の始めである。

浄土宗降魔山「念仏寺」
〇御香宮神社は徳川家と深い関わりがある。徳川家康が豊臣秀吉のあとをうけ伏見城で天下の政事をとったおり、尾張、紀伊、水戸の御三家の藩祖と、秀忠の娘千姫はこの伏見で誕生している。御香宮を産土神として特別な崇敬を払っている。御香宮の神門は1622年に水戸中納言頼房(水戸光圀の父)が伏見城大手門を寄進したものと言われている。
□御香宮神社は江戸末期の慶応4年(1868)正月に勃発した「伏見・鳥羽の戦」では、吉井孝助率ら官軍(薩摩藩など)の屯所となった。片や幕府軍は大手筋通りを隔てた南側200mほど離れた伏見奉行所に陣(伝習隊、会津藩、桑名藩、新撰組などが)を構えた。大砲・鉄砲などの弾が激しく飛び交ったが、御香宮は幸いにして戦火には免れている。官軍の屯所となった境内には「明治維新伏見の戦跡」の石碑がある。□→1983年9月ー山本眞嗣著・水野克比古撮影『京都伏見歴史紀行』山川出版社

奈良・飛鳥の本

平良盛吉□→1991年1月『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)平良盛吉「村の先生」/平良盛吉(1890年8月28日~1977年6月28日)1912年、沖縄ではじめての総合文化誌『新沖縄』を創刊。琉球音楽研究家。『関西沖縄開発史』の著がある。□→2009年5月『うるまネシア』第10号/新城栄徳「失われた時を求めてー近鉄奈良線永和駅近くに平良盛吉氏が住んでおられた。息子が1歳のとき遊びに行ったら誕生祝をいただいた。袋は今もある」null
右の電報は青い海出版社から「息子誕生」の祝電である。

 大阪、奈良の双方から望める金剛生駒国定公園内の大阪生駒霊園に阿氏西平家の墓、近くには大阪沖縄県人会の共同墓地「かりゆしの郷」もある。

元祖阿姓南風原按磁司守忠七世西平親雲上守安四男守秀ー守朋ー守保ー守孝ー守紀ー守諄ー






法隆寺の蘇鉄


夢殿にたたずむ新城あけみ
聖徳太子が住まわれた斑鳩宮跡に、行信僧都という高僧が、聖徳太子の遺徳を偲んで天平11年(739)に建てた伽藍を上宮王院(東院伽藍)といいます。その中心となる建物がこの夢殿です。八角円堂の中央の厨子には、聖徳太子等身と伝える秘仏救世観音像(飛鳥時代)を安置し、その周囲には聖観音菩薩像(平安時代)、乾漆の行信僧都像(奈良時代)、平安時代に夢殿の修理をされた道詮律師の塑像(平安時代)なども安置しています。この夢殿は中門を改造した礼堂(鎌倉時代)と廻廊に囲まれ、まさに観音の化身と伝える聖徳太子を供養するための殿堂として、神秘的な雰囲気を漂わせています。(→法隆寺)

昭和25年4月 いかるが会『法隆寺手帖』



2013年5月15日 公益財団法人平山郁夫シルクロード美術館」館長 平山美知子さん、新城栄徳(このとき平山画伯夫人に薬師寺は大阪の家から1時間で行けます、といったら『羨ましい』と答えられた。奈良・薬師寺玄奘三蔵院の壁画は平山画伯の作。)
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戦前のオキナワノ嶽(神名ヨリアゲ森カネノ御イベ)

那覇市安里のバス停崇元寺近くにあるオキナワノ嶽(神名ヨリアゲ森カネノ御イベ)、ハーリーのとき泊村が祈願する。

□1925年2月 仲原善忠『日本外交史』イデア書院
命がけの航海ー第二船には古磨と支那の有名な坊さん鑒真和尚(鑑真和上)が載っていました。此の人の伝記(鑒真和尚東征伝)を読むとその時分の航海がいかに困難であったか細かくかいてあります。此の船は15日に他の船といっしょに楊州を出発し、暴風のため6日間あちこち吹き流されて21日に沖縄につきました。第三船も前夜そこに吹き流されて来ています。翌月6日に風が出たので出発しょうとしたが浅瀬に乗りあげて動かない、島人の助けによって、やうやう船を下ろし7日にそこを出て屋久島にちょっと寄って20日にサツマの國川邊郡の秋目につきました。鑒真和尚は奈良に行って有名な唐招提寺を立て聖武帝や光明皇后の信仰をうけた人でその寺は当時の学問芸術の中心になったことはよく人の知っている所です。

□恵心僧都「観世音菩薩の像」

恵心僧都 【けいしんそうず】
平安中期の天台宗の僧。恵心流の祖。大和生。諱は源信、恵心僧都は通称。良源に師事し、顕密二教を学ぶ。また『往生要集』を著し、以後の浄土宗信仰の展開に大きな影響を与え、宋でも高く評価された。寛仁元年(1017)寂、76才。 →コトバンク

□伊波普猷『沖縄考』
東恩納寛惇君の琉球地名考中の「沖縄」の項を引用して、緒言に代へよう。延歴僧録中、淡海三船が僧鑒真伝、天平勝宝五年冬、遣唐大使藤原清河、副使大伴古磨、吉備真備、僧鑒真、唐より帰朝の途次、暴風に遭ひて「阿児奈波島」に漂到したる記事を以て始見となす。琉球古代の神歌「おもろ」に『オキナワ』に作る。




琉文菴は同じ世界遺産の法隆寺、京都、熊野にも取り囲まれているがかつて那覇の小中学時代の歴史教科書で慣れ親しんだ大和、奈良、平安、室町、安土桃山の各時代の舞台にも近い。其れはさて置き、鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝』に、鑑真和上が来た阿児奈波島の港は安里川に面する「ウチナーヌウタキ」(沖縄美御嶽)の拝所附近と推察する、としている。天平勝宝5年(753年)遣唐使3船一行(①吉備真備ら)は10日余、安里の此所に南風の吹く日の風待ちのために滞在したということである。


鑑真和上のころの東大寺
①きびのまきび【吉備真備】 695‐775(持統9‐宝亀6)
もと下道(しもつみち)真備。奈良時代の学者,政治家。備中国下道郡出身。父は右衛士少尉下道圀勝(くにかつ)。母は楊貴(八木)氏。圀勝の母の骨蔵器が岡山県矢掛町三成で発見されている。716年(霊亀2)22歳で唐への留学生となり翌年出発し,735年(天平7)に帰国。唐では儒学のほかに天文学や兵学,音楽も学んだことは,帰朝時に献上した《唐礼》130巻(経書),《大衍(えん)暦経》1巻,《大衍暦立成》12巻(以上天文暦書),測影鉄尺(日時計),銅律管,鉄如方響,写律管声12条(以上楽器),《楽書要録》10巻(音楽書),絃纏漆角弓,馬上飲水漆角弓,露面漆四節角弓各1張(いずれも騎馬民族の使う弭(ゆはず)が角製の弓),射甲箭20隻,平射箭10隻等によってわかる。