2019年8月30日『沖縄タイムス』文化欄「百名朝敏の人物像判明 北里蝋管収録『茶屋節』演奏」→言語学者の北里闌(たけし)(1870~1960年)が1920(大正9)年に沖縄本島や宮古、八重山で歌謡を中心に採録された「北里録音蝋管(ろうかん)」

『大典記念 沖縄人事興信録』「百名朝敏」(タイトルに県はない)装画・山田真山


那覇市史だより11世 百名朝起/写真 11世百名朝起ー十二世 五男・朝盛=オトの養子に朝敏。六男・朝計

1922年5月6日『沖縄朝日新聞』「家扶 伊是名朝睦、内事課長 伊波興庭は老体の故もって辞職、総監督の尚順男は引退。今後は護得久朝惟、会計課長百名朝敏が尚家家政を掌ることとなる。」

鎌倉方太郎第1回「琉球芸術調査事業」(1924[大正13]年5月~1925[大正14]5月]ー伊東忠太との共同事業で、財団法人啓明会から1か年3000円の補助を受けてのもので、その内の1000円でドイツ製写真機タゴールを入手した。 東京美術学校写真科主任であった森芳太郎教授の特別指導を受け写真技術を習得。 「琉球芸術調査事業」の開始―「鹿児島経由で南航し、三日目の早朝那覇着、早速首里市役所に出頭して、市長高嶺朝教氏に会い、市役所内に写真の暗室を作って貰うことを願い出て許可を受けた」。毎日昼間は写真を撮影して歩き、夜は乾板を現像、首里城の龍樋から水を引いた師範学校の浴場で一晩中水洗いし、翌日乾かした。
尚家(中城御殿)を初めとする首里・那覇の旧家に所蔵される美術・工芸品の調査。中城御殿については「家扶百名朝敏氏に会い、(中略)各種芸術の写真の撮影、文献の調査等についても侯爵家資料の公開が重要なのでこれを願い出て協力を依頼した」(『沖縄文化の遺宝』276頁)。真栄平房敬氏によると「ウグシク(首里城)を救ったということで、仲座ゲンタツ氏―尚侯爵家の侍従役―の先導で野嵩御殿―中城王子妃―と会った」こともあるという(1999年1月29日談)。
この調査の期間中、沖縄県師範学校の「図画科教諭の西銘生楽氏の後任の役を引き受け、特に上級四年生のためには毎週二時間の沖縄美術史を講義。この「組の級長が屋良朝苗氏であった」。(波照間永吉2018-11-15鎌倉方太郎生誕120周年顕彰例会)


1916年11月『沖縄縣人事録』「伊是名朝睦」/1934年3月16日
〇向宣猷・伊是名親雲上朝睦(朝宣男、1853 - 1934)は、王国最後の冊封使来琉(1866年、寅の御冠船)の時の踊童子として両勅使の御前で舞を披露した。1877年(明治10年)、留学のため上京、廃藩置県直後の1879年(明治12年)に帰郷。その後、首里区会議員、沖縄県会議員、旧沖縄銀行取締役、尚家家扶等を歴任。東京の尚家家扶時代に二人の娘から女学校で伊是名の苗字が難解で読み間違いが多く困るとの事で、昔の家名である野村家を名乗る事になった。 →ウィキ


1915年 沖縄最初の混声合唱団『玉声会』の小湾の尚家別荘での公演記念写真ー前列右から①尚順男爵、尚昌侯爵、神山政良、嵩原家扶、2列目右端が徳田安周の母の仲吉初枝、左端の少年は金武良章 右端上に尚琳、金武良仁、山内盛彬。


      
①尚順

1930年7月18日ー金武良仁、良章、浅間丸(新垣松含一行と同船)で来布、布哇屋ホテルに止宿。

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1936-9-11 『琉球新報』尚順「追悼・金武良仁君」漢詩「題琉球絃歌」