2003年8月23日『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森 人の網ー楽しみの一つ、『小学館の雑誌』」

1975年8月『小学館五十年史年表』

1953年1月『琉球新報』「安村書店は東京神田神保町に出張所」

     
1955年11月『少年クラブ』大日本雄弁会講談社
     
1959年1月『小学四年生』小学館

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1962年3月ー『オキナワグラフ』安村書店(安村善太郎・経営)
○父が定期的に那覇から粟国に送ってくれた小学館の少年雑誌は父・母の従兄弟の安村(安里)書店から買ったもの。

『まんだらけ』 ⑩ー1995年9月 ⑮1996年12月 『まんだらけZENBU』 №6ー2000年


1963年4月 『ボーイズ ライフ』創刊号「図解特集・ロケット・ミサイルのすべて」 小学館


 粟国の仲里正雄先輩のところで季刊『しま』№243を貰った。仲里氏に5冊送られてきたからであった。以前、氏が『日本の島ガイド SHIMADASU シマダス』を那覇の書店で置いてなく、直接日本離島センターに電話して三木剛志という人が出て親切に応対してくれて入手できたようだ。この三木氏が仲里氏と手紙のやり取りで粟国に興味を持ち、それに仲里氏が当然ながら協力したこともあって本誌の粟国取材がなった。グラビア「あわのくにの祈りと叡智」で粟国の祭事ヤガンウユミが紹介され、末尾で「多くの拝所が現存し、ヤガンウユミ以外にも数他の神事がのこされた粟国島。生きるために先人たちが重ねてきた労苦、神々や祖先を畏れ敬う気持ちを叡智として次世代に伝えつつ、独自の自然・文化資産の価値を高め、さまざまな体験プログラムを創出してゆけば、南西諸島に冠たる交流の島となるにちがいない」と結んでいる。

  

1953年12月 全国離島振興協議会広報誌『しま』
離島振興法が成立した年の昭和28年12月に全国離島振興協議会の機関誌として創刊。第72号(同48年2月発行)から(財)日本離島センター財団広報誌として継続刊行。昭和49年8月、私は東京晴海にある(財)日本離島センターを訪ねた。『しま』を購入したが、1号2号はボロボロだったのでいただいた。近くにある晴海桟橋は初めて東京の地を踏んだところである。第1号の編集後記に、誌名についても、大いに悩まされた。日本の島・島と生活・離島振興・島民・島人など、幾つも幾つも名案やら迷案やらがとび出す始末であった。最後に「しま」はどうだろうかといったのは長崎県企画室の松本氏であった。簡明で、しかも強烈な印象を受けるというみんなの賛成で採用されることになった。かつて柳田国男氏などが主宰された「嶋」という雑誌があるので本誌の方は、同じ発音でも平仮名を採用した。柳田氏のお考えの一部でも、本誌によって発展させることができれば、望外のしあわせといえよう、とある。『しま』100号には大城立裕「沖縄離島への思い」が載っている。










 左ー『あるくみるきく』は、日本の民俗学者、宮本常一によって1967年に創刊された雑誌。日本観光文化研究所から1988年まで出版されていた。/写真右から野里洋氏、佐野眞一氏、私


宮本常一の本

1984年11月 木崎甲子郎・目崎茂和『琉球の風水土』築地書館

1988年2月 目崎茂和『南島の地形ー沖縄の風景を読むー』沖縄出版

2007年5月 財団法人日本離島センター『日本の島ガイド SHIMADASU シマダス』

『日本の島ガイド SHIMADASU シマダス』「粟国島」

1960年8月に那覇の琉映本館で「壮烈新撰組/幕末の動乱」を見て以来の新撰組大好き人間だから「維新」を口にする人間は生理的に合わない。そのころオリオンでは「地底探検」「類猿人ターザン」を上映していたせいでもないが、江戸文化を再評価してみたい。

東京江戸博物館や京都国立博物館で開かれた「新撰組展」


「壮烈新撰組/幕末の動乱」中央・片岡千恵蔵

映画ー1960年8月「壮烈新撰組・幕末の動乱」琉映本館・桜坂琉映



東映太秦映画村の片岡千恵蔵コーナー
かたおかちえぞう【片岡千恵蔵】 1904‐83(明治37‐昭和58)
映画俳優。本名植木正義。群馬県生れ。ヒット作の一つに《七つの顔》があるが,遠山の金さん18本,多羅尾伴内11本,宮本武蔵10本,国定忠治9本,浅野内匠頭8本,大石内蔵助6本,机竜之介6本と,当り役の作品本数に明らかなように,まさしく〈七つの顔〉をもつ映画スターであった。それらに共通する個性の特徴は明朗さで,若いころの美剣士ぶりにはユーモアの気配があり,中年以降,豪快さを演ずるときはむろん,一転して虚無的な心情を演じても,どこか明るさを感じさせた。(→コトバンク)

旗本退屈男 はたもとたいくつおとこ (映画)
市川右太衛門を世に知らしめた時代劇映画。もともとは、佐々木味津三*1の時代もの小説。1930年に映画化。以来、戦後の1963年まで作られ、舞台でも数え切れないぐらい上演した。旗本の早乙女主水之介の「眉間に冴える三日月形、天下御免の向こう傷」の名ゼリフと豪快な太刀裁きで人気を集め、右太衛門の代表的な作品になった。また、右太衛門の息子の北大路欣也もこの役を演じた。(はてなキーワード)
◎粟国島の幼年時代、少年雑誌の旗本退屈男をモデルにした劇画をよく模写した。


(上原実所蔵)
月形龍之介(1902ー1970)
阪東妻三郎、大河内伝次郎と並ぶ剣豪スターの一人。日本で最初に創られた俳優養成所の第一期生。尾上松之助の「仙石権兵衛」のチョイ役でデビュー。あらゆる下積みの苦労をなめ、妻三郎主演の「討たるる者」(1924)で準主役に抜擢され出世作とする。戦前戦後を通じての日本映画史上の名優。大スターではじめて性格俳優と呼ばれた。「剣士・沖田総司」(1929/監督・井上金太郎)で月形が自分で企画し自分の月形プロで初めて沖田総司を主役にした映画を撮った。もんくなく最初の沖田総司役者である。伊藤大輔監督と組んだ映画史に残る名作「斬人斬馬剣」、「堀田隼人」の家老役に評価が高い。(はてなキーワード)
 NHK大河ドラマは会津が舞台の「八重の桜」である。新選組は、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争に参戦するも、無念の敗北を繰り返した。甲州勝沼戦争を経て、近藤勇が西軍へ投降してもなお抵抗し、戦争の舞台は宇都宮さらには会津へと移る。 会津においては、負傷した土方歳三に代わり、斎藤一が隊長を務めることとなる。白河方面へ出陣し、白河関門の守備にあたる。猪苗代町の母成峠において、会津藩士や新選組隊士を含む800名と西軍3000名とが交戦。
 旧幕府軍の敗色が濃厚な中、土方歳三は援軍を求めて、単身仙台へ向かう。会津に残ることを主張した山口次郎(斎藤一)ら一部の隊士は、市内如来堂において西軍に急襲され全滅したと言われる。(実際には何らかのかたちで脱出し、その後も生存している。) 翌年、土方歳三の函館での戦死をもって、史上最強にして最高の剣客集団「新選組」は武士の時代とともに終焉を迎えた。 →「会津と新撰組」
 天寧寺の裏手の墓地には新選組の近藤勇の墓があります。土方歳三が遺髪などを持っていて会津戦の折、ここに仮埋葬したといいます。4月25日の近藤勇の命日には、墓前祭りが開催されます。
また、藩主松平容保が京都守護職にあった際の国家老で、戊辰戦争の責任者となり明治2年に切腹した萱野権兵衛と、その次男郡長正の墓もあります。→「会津若松観光ナビ」