新聞、テレビでは連日「猛火に耐えた大龍柱、焼け跡に希望」と報じられている。日本列島は竜の落とし子の形をイメージする人が多い故か。『琉球新報』11月1日には、県指定無形文化財保持者で、首里城復元にも携わった漆芸作家の前田孝允(こういん)さん(82)と、首里城正殿を復元する際の基本・実施設計委員を務めた琉球大名誉教授の西村貞雄さん(76)の紹介。西村さんは首里城が焼失した前日の10月30日、小中高校の元美術教諭ら50人を首里城へ案内。場内を見回りながら、復元に関わった龍柱や首里城の特徴について6時間に渡って説明したばかりだった。テレビで焼け落ちる様子を見てショックを受けた」と声を落とした。「全て記録に残している。予算があればできるし、後は気持ちの問題。また復元させるので県民も応援してほしい」と力を込めた。

2019年11月12日『琉球新報』西村貞雄「焼失から再建へ 首里城火災」

 『八重山毎日新聞』2019年11月16日<不連続線>今から116年前まで、宮古・八重山には琉球王府時代に課せられた人頭税があった。15歳から50歳まで年齢、性別に応じた頭割りの税。男性は穀物、女性は織物を納めなければならない。その税制は各地に悲劇をもたらした▼与那国島久部良にある岩盤の割れ目、クブラバリ。年に1度、妊婦を集め、岩の裂け目を跳ばせ、間引きしたと伝えられている。さらに島のほぼ中央にあるトゥング田跡。課税対象の男性を非常招集し、決められた時間内に田の中に入れなかった人が殺されたという(略)▼石垣市では2002年、人頭税廃止100周年記念事業が行われた。「私たちの先人はその不合理で過酷な税制のもとで苦境にあえいでいた」と先人の労苦と人頭税廃止の意義を後世に伝える記念碑が市立八重山博物館敷地内に建つ▼首里城はかつて、先島にとって圧政の象徴であった。そういう歴史も内包していることを踏まえつつ、早期再建を望みたい。

 『しんぶん赤旗』2019年ー11月14日正殿などが焼失した首里城(那覇市)は、太平洋戦争末期の沖縄戦で、米軍の攻撃によって灰燼(かいじん)に帰してしまった過去があります。地下に沖縄守備軍の第32軍司令部壕(ごう)がおかれたためです。当時、「鉄血勤皇師範隊」に召集されていた日本共産党元衆院議員の古堅実吉(ふるげん・さねよし)さん(90)は、首里城の破壊を目の当たりにした一人です。/〇那覇市首里城の地下に、「第32軍司令部壕」があります。司令部壕は、首里城の地下を南北に横断するように掘られており、全長1キ口から2キロの壕に、1000人以上の兵士がいたといいます。6か所の入口があったとされていますが、今も残っているのは南側の1か所だけです。なお、内部は壁が崩れるなど危険なため、公開されていません。壕のなかは、今もわき水が流れ、日々浸食が進んでいて、岩盤が大きく崩落しているところもあります。沖縄県は、司令部壕の保存や公開を検討していますが、数十億円の費用がかかるとみられ、計画は今も進んでいません→NHK沖縄放送局/首里城の園比屋武御嶽石門近くにある司令部壕の第1坑道入り口付近には説明板が設置されているが、県は2012年に説明板設置検討委員会がまとめた説明文から「慰安婦」の文言と日本軍による住民虐殺に関する記述を削除した。委員らが記述復活を求める声が上がるなど、曲折を経ている。→琉球新報



→「特定非営利活動法人 地質情報整備活用機構(GUPI)」
『琉球新報』1992年7月13日「首里城地下の沖縄戦 32軍司令部壕 第25回ー〈第5砲兵壕/工業学生の9割犠牲に/将校のそばには慰安婦」

 「琉球朝日放送」11月11日、東京で開かれた全国知事会。その冒頭で飯泉嘉門全国知事会長が、首里城火災について、全国知事会として国に早期復元に取り組むよう求める決議を呼びかけました。11月に入った。前日、首里城が炎上するという衝撃的な出来事があった。しかし、辺野古では今日も新基地建設の埋め立て工事が強行されている。→目取真俊ブログ「11月に入った。前日、首里城が炎上するという衝撃的な出来事があった。しかし、辺野古では今日も新基地建設の埋め立て工事が強行されている」も、核基地もない平和なウチナー「みるく世」をつくる上でも、膨大な税金を喰い、かつ自然破壊の辺野古新基地強行は寸時も忘れてはならないだろう。/「時事」首相は「必要な予算を確保した上で、オールジャパンで国土強靱化をパワーアップしていく」と強調。その上で「国家百年の大計として、災害に屈しない強さとしなやかさを備えた国土をつくっていきたい」と述べ、防災対策の抜本強化に取り組む考えを示した。→そう、トランプにも屈しないで!!。防災関連産業を、中小企業中心に起こし内需拡大だ。大企業では利権が絡む。そのためにも消費税は廃止だろう。

 渡久地 政司(愛知県 豊田市)11月9日ー 首里城の敷地、建物、所蔵物の所有者は多分国だと思いますが管理者は、国直轄なのか、それとも管理権を国から沖縄県に移譲・委託・移管等々どのようになされているのか。今回の火災では、管理責任が問われるはずです。電気配線ならば、どのような点検、管理されていたのかなど。また、火災保険にはいっていたのかどうか。再建される建物を建設する主体はどこなのか。国ならば、地方自治体が国に建設費を支払うことは法律で禁止されています。沖縄県がどの部分を担うのか、明確にしないで、募金活動をすることはどうかと思います。

『沖縄タイムス』11月11日ー首里城火災を受け、沖縄県や那覇市には県内外から多くの寄付金が集まっている。正殿など焼失した建物部分は国の所有で、再建などの大規模な修繕費は国が負担する取り決めだ。那覇市は寄付金の県への移譲を検討。県は知事直轄組織で使途を検討する方針で、謝花喜一郎副知事は「文化財等は県で取り組まなければならない」と述べるなど、文化財の修復や収集などに取り組む姿勢を見せている。

 龍脈ー地中を流れる気のルートのこと。大地の気は山の尾根伝いに流れると考えられており、その流れが龍のように見えることから「龍脈」と呼ばれる。風水では、この「龍脈」の気が噴き出すポイントである「龍穴」に住むと、一族は永きに渡って繁栄できると考えられている。 →コトバンク
 鎌倉芳太郎は那覇の若狭についてその著『沖縄文化の遺宝』の中で古事集を引いて「思うに若狭(北陸)はその地勢、畿内に接して摂津と表裏し、小浜①は日本海の港津として難波の津に比扁する位置にあり、古来日本海における外国貿易の起点となっていたが、15世紀の初頭以来南蛮船も着船し、この地の代官も書をもって朝鮮国と通交しており、小浜から出て東シナ海に向かい、琉球に新しく出来た那覇港に、貿易物資生産のための若狭の居留地が造成されてとする推定も可能」という。①小浜市には【オバマを勝手に応援する会】がある。


 こんぶが旅した”こんぶロードー鎌倉中期以降になると、昆布の交易船が北海道の松前と本州の間を、盛んに行き交うようになりました。昆布が庶民の口に入るようになったのは、そのころからです。海上交通がさかんになった江戸時代には、北前船を使い、下関から瀬戸内海を通る西廻り航路で、直接、商業の中心地である「天下の台所」大阪まで運ばれるようになりました。昆布を運んだ航路の総称を「こんぶロード」と言います。こんぶロードは江戸、九州、琉球王国(沖縄県)、清(中国)へとのびていきました。特に、琉球王国は薩摩藩(鹿児島県)と清とのこんぶ貿易の中継地として、重要な役割を果たしました。→こんぶネット


『福井新聞』11月7日ー激しく燃え上がる首里城の正殿=10月31日午前3時50分ごろ、沖縄県那覇市(近隣住民撮影)◇株式会社福井新聞社ー本社所在地〒910-8552福井県福井市大和田二丁目801番地 https://www.fukuishimbun.co.jp/11月1日ー沖縄戦災復興の象徴とされた首里城復元工事の中心を担ったのは、福井県の宮大工たちだった。職人の技が惜しみなく注がれた首里城が全焼した10月31日、正殿の屋根が焼け落ちるテレビ映像を目の当たりにした宮大工は「あまりにもショック」と肩を落とした。復元に携わったのは藤田社寺建設(福井県永平寺町)。越前大仏の建設に台湾ヒノキを使用していたことから、同じ木材での復元を目指す正殿工事の要として白羽の矢が立った。1992年の完成まで、10人を超す精鋭が3年以上現地に滞在。現地の宮大工と汗を流した。

越前大仏は、福井県勝山市の臨済宗妙心寺派の寺院、大師山清大寺にある大仏/元となった九龍壁は、中国の国宝第一号に指定された由緒あるもので、中国政府の許可をとり作成/回廊に使われているのは樹齢1500年を超える台湾桧。その数なんと152本。→Dearふくい

☆若狭湾は原発銀座(17基の原発があり、今なにかと話題の高速増殖炉”もんじゅ〟もある)であるが、オキナワは台風銀座。またオキナワは超クルマ社会でクルマで溢れ返って停滞だらけ。北京の大気汚染は笑えない。なおかつ米軍・自衛隊の基地銀座(使い古されているが『基地の中にオキナワがある』というのもある)でもある。狭い与那国や、宮古、八重山にも自衛隊は島を守る(皇軍は守らなかったどころか、投降し捕虜になったのも多い)という美名のもとに、新たに「基地」をつくろうとしている。安保下では自衛隊基地には当然のように米軍機もやってくるので第2第3の普天間基地となるのは目に見えている。自衛隊基地をつくるのであれば、米軍と小指、ではなく手を切って自前の自衛隊にしてもらいたい。まぁ無理か。
 若狭湾の先端に突き出た常神半島の民家の裏庭にある、およそ樹齢1,300年の大ソテツ。国指定天然記念物です。日本海側で最も北にあり、大きく古いものはとても珍しいといわれています。根元から樹高4.5〜6.5mの支幹5本と、樹高1.5〜3.0mの支幹8本に分かれ、その全幹の周囲は5.2mあります→常神の大そてつ 国指定天然記念物

1991年7月 日本旅文庫『琵琶湖・若狭湾』昭文社


久能山東照宮- 国宝 拝殿・本殿 〈静岡県静岡市〉 /朝鮮ソテツと鼓楼(ころう) →行って見たい神社とお寺


斎藤 陽子(Walnut, California)2019-11-24 10年物のソテツです、こちらは乾燥しているので水やりが欠かせません。


2016年1月8日 若狭の龍柱
  安田浩一2018-11-3「沖縄の龍柱は、沖縄のものです」若狭の「龍柱」のデザイン日本列島は龍の形をを担当したのは、沖縄美術界の大家として知られる琉球大学名誉教授の西村貞雄さんだ。「私も『中国の手先』などと直接に面罵されたこともあります。一部で龍柱の意味がまったく理解されていないのが本当に残念です」そう言って、西村さんは悔しそうな表情を見せた。「沖縄の龍柱は、沖縄のものですよ。だいたい、中国各地に存在する龍柱とは形状からして違います」たとえば、中国特有の「龍柱」は、那覇市内の中国式庭園「福州園」に足を運べば目にすることができる。(略)中国式「龍柱」は、龍が柱に巻き付いた形状となっているのに対し、沖縄の「龍柱」は、龍の胴体そのものが柱となっている。そう、デザイン的にはまったくの別物なのだ。

福州園は中国福建省福州市(ふっけんしょう・ふくしゅうし)と那覇市の友好都市締結10周年と、那覇市市制70周年を記念して、1992年に完成しました。園内は中国の雄大な自然と福州の名勝をイメージして造られている。
 「私はアジア各国を回って龍柱を見てきましたが、中国の影響を受けつつも、それぞれの国がそれぞれの龍柱を持っている。爪の数にしても同様です。属国の龍柱は5本爪であってはならないというのが通説ですが、私から言わせれば、これも怪しい。モンゴルには3本爪、4本爪、5本爪の三種の龍柱がありましたし、韓国には6本爪の龍柱がありました。私が若狭の龍柱を4本爪にしたのは、単に沖縄の伝統的な龍柱が4本爪だったからにすぎません。歴史どおりに、伝統に基づいてデザインしただけです。そこには中国への忠誠だの、そんな意図が含まれているはずがない。仮に批判を受けいれて5本爪にしたら、それは歴史を無視した、きわめて政治的なデザインとなってしまうではないですか」西村さんによれば、若狭の龍柱には、沖縄の歴史と未来への思いが込められているという。
 「一対の龍は向き合っているのではなく、海の方角を向いています。つまり、尾の部分は首里城までつながっているという想定です」西村さんは、これを「龍脈」と呼んでいる。龍のからだは首里城から国際通りの地中をくぐり、海岸線で地中から垂直に飛び出る、といったイメージだ。首里城は沖縄の源流であり、国際通りは戦後復興の象徴である。そして若狭の港は外に開ける海の玄関だ。つまり、この「龍脈」は沖縄の歴史を意味する展開軸、導線なのだ。「龍の頭が海を向いているのは、その先の未来を見ているからなのです。水平線の先にあるニライカナイ(理想郷)ですよ」「龍脈」は過去と未来を結ぶ。中国とも侵略とも関係ない。龍の目玉はニライカナイの海を望む。



2019年9月 琉球新報編集局『琉球新報が挑んだファクトチェック・フェイク監視』高文研

写真左よりー安田浩一氏、平良肇氏、島袋和幸氏、長嶺福信氏
2017年11月3日13:00 なは市民活動支援センター第三会議室「〔検見川事件を語る会〕学習会」

2017年10月 朝日新聞出版『一冊の本』安田浩一「沖縄の右派と〔プロ市民〕7 人々を虐殺に向かわた回路」
安田 浩一(やすだ こういち、1964年(昭和39年)9月28日 - )は日本のジャーナリスト。日本労働組合総評議会(総評)系の機関誌『労働情報』編集委員。静岡県出身。千葉県在住。慶應義塾大学経済学部卒業。伊豆半島の温泉地帯に生まれた。日本経済新聞など様々な新聞社、出版社の記者を経て『週刊宝石』の記者だった1999年(平成11年)前後に、同誌にて創価学会の批判記事を書いていた。『サンデー毎日』時代は名誉毀損で訴えられ、証言台に立った。→ウィキ2014年9月 佐野眞一『あんぽん 孫正義伝』小学館文庫 解説・安田浩一


御菓子御殿 国際通り松尾店ー私が奥原崇典氏(首里城の瓦を手掛けた。1950年-2014年3月12日)を最後に見たのがこの柱の龍を仕上げているときである。

2014年5月20日~6月22日 沖縄県立博物館・美術館「麗しき琉球の記憶ー鎌倉芳太郎が発見した美」
同時期開催/6月3日~8日 西村貞雄主催「復元のあゆみー琉球王朝造形文化の独自性を求めてー」


石川和男氏、松島弘明氏

1991年4月19日『レキオ』


末吉安允氏(末吉麦門冬の甥)と西村貞雄氏〇11月5日の沖縄タイムス文化欄に、大城立裕さんが焼けた首里城について「当時の持ち主であった首里市は、取り壊しにかかったが、識者の末吉麦門冬の注進で、建築家の伊東忠太が文部省(当時)に掛け合って温存され、2年後に国宝に指定された」と書いておられるが、結果論としては合っているが、具体的な経緯は別にある。

平良昭隆氏、平良知二氏、新城栄徳、宮城篤正氏

2019年11月12日『沖縄タイムス』宮城篤正「視点 焼けた首里城」

2014年6月5日ー左から伊佐眞一氏、西村貞雄氏、亀島靖氏

1991年1月 伊佐眞一『アール・ブール 人と時代』伊佐牧子〇編集後記に下の新聞記事の解説













新城栄徳、西村貞雄さん









沖縄県那覇市にある拝所(うがんじゅ)の石門。首里城の守礼門と歓会門の中間にあり、石門と後方の山地を総称して園比屋武御岳という。石門は永正16年(1519)に建立。昭和8年(1933)国宝に指定されたが、沖縄戦の戦禍を被り大破した。戦後、修復され、昭和47年(1972)重要文化財。平成12年(2000)「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録された。→g辞書
戦後最初は山田真山により修復されたが、後に西村貞雄によって修復された。




1986年11月12日~14日『沖縄タイムス』西村貞雄「そのひやんの彫刻ー石門修理竣工に寄せて」






当宮は琉球八社と呼ばれた由緒ある社の一つです。社号は琉球神道記(一六〇八年)には「尸棄那権現」、琉球国由来記(一七一三年)には「姑射山権現」と 記されています。尚、前者には「縁起亦明ナラズ。熊野神ト見ヘタリ。石窟惟霊地也」と祭神のことが記されています。さらに近世沖縄における熊野三山、いわゆる権現信仰としては末吉宮は熊野新宮に、普天満宮は熊野那智(飛龍)に、識名宮は熊野本宮に見立てて信仰されていました。→識名宮


1995年2月『ドラゴンブックレット』№1 
1995年2月 『ドラゴンブックレット』№.1
1995年11月 『ドラゴンブックレット』№.2
1997年2月 『ドラゴンブックレット』№.3
1992年10月26日『琉球新報』「首里城の大龍柱 本来はどこ向き?ー西村貞雄琉大教授『正面向きだということが立証できる』」
1993年3月『琉球大学教育学部紀要』第42集□西村貞雄「首里城正殿・大龍柱の『向き』についての考察」
1995年2月『ドラゴンブックレット』№1□西村貞雄「『百浦添御殿普請付御絵図并御材木寸法記』の絵図をとおして」
1995年3月 沖縄県立博物館友の会機関誌『博友』第9号□西村貞雄「絵図についての考察」
1995年11月『ドラゴンブックレット』№2□西村貞雄「昭和の解体修理後の大龍柱と形態についての考察」
1997年2月『ドラゴンブックレット』№3□西村貞雄「首里城正殿大龍柱の形態と台座及び欄干についての考察」
1997年3月『おきなわ用地』第23号□西村貞雄「沖縄のシーサー/日本・中国・韓国等諸外国の比較を通じて」沖縄地区用地対策連絡会
2003年3月『琉球大学教育学部紀要』第72集□西村貞雄「首里城周辺の建造物と彫刻に関する意匠の共通性と独自性について」

沖縄県立図書館