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旧盆ウンケー/旧盆ウークイ



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2019年9月7日14:00~15:30 沖縄県立博物館・美術館 美術館講座室 講師・金城美奈子「金城安太郎展 ギャラリートーク」


2019年9月6日~ 11月4日 沖縄県立博物館・美術館「台湾 ~黒潮でつながる隣(とぅない)ジマ~」  
 台湾は人口約2300万人、沖縄最西端の島から111㎞の近い距離にあり、本県から最も近い外国です。特にアジアのなかでも沖縄の歴史や文化と深い関係があり、明治政府の「台湾出兵」から第二次世界大戦後まで日本による台湾統治の歴史が深く関係しています。
 本展示会では、まず台湾の歴史と住民について概観し、統治者の度重なる交代によって複雑な変転を遂げてきた台湾の歴史をたどりながら、近年急速な民主化を実現した経緯や背景を紹介します。また沖縄と台湾に関する刻まれた歴史の証跡、双方に見られる新しい文化の萌芽を紹介し、多様な民族と言語を有し、多様な文化を形成しながら発展する「隣のシマ」の歴史と文化を紹介します。→沖縄県立博物館・美術館

 「くろねこの短語」2019年8月23日ー(前略)元徴用工問題をきっかけとしたペテン政権による韓国への対応は、そもそもからして敵対一色だったんだよね。韓国最高裁判所が日本企業の賠償責任を認める判決を出したのがよほど気に障ったんだろうが、中国が同じように企業の戦争責任を問うた判決を出した時には何もリアクションしなかったんだから、そこには韓国をちょいといじめてやれって見下した感覚がなかったとは言えない。
 そして、埒があかないと見るやホワイト国から韓国を外すという、政治と経済を結びつけた対抗措置を最初に取ったのは日本なんだよね。ホワイト国から外すということは、「韓国は安全保障上信頼できない国」というレッテルを貼ったも同然で、韓国にすればだったら軍事上の協定を結んでいる必要はないってなるのは必然だろう。
 ごまめの歯ぎしり・河野君は「韓国は安全保障環境見誤った」なんて抜かしているけど、対応を見誤ったのは外務省の方じゃないのか。韓国がどんな動きをしてくるか読めなかったとしたら、情報収集&分析能力を問われても仕方がない。当然、外務大臣の責任だって問われることになる。


大濱聡 2019ー8-21


『日刊ゲンダイ』2019年8月20日

 「くろねこの短語」2019年8月20日ー市長選では「白紙」と言っていた横浜市長が、とうとうカジノ誘致に舵を切ったってね。おそらく、その背景には、「影の横浜市長」と噂される顔も頭も貧相な官房長官・ガースの存在があるのは間違いない。きっと、とんでもない利権が動き出してるんだろうね。それにしても、選挙では「白紙」だったものが何の説明もなしに「誘致」に一転するってのは、政治家として天に唾するような愚かな行為だ。今後は、是非とも横浜市長へのリコール運動を盛り上げていただきたい。
 ところで、初代宮内庁長官が昭和天皇とのやりとりを記した「拝謁記」が話題になっている。サンフランシスコ講和条約による日本の独立回復を祝う式典で戦争への反省を表明しようとする昭和天皇に当時の首相である吉田茂が反対した、なんてことにスポットが当てられているようだが、この「拝謁記」の中で「反省」と同時に「再軍備」にも強い意志表明をしているんだね。「軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやつた方がいい様ニ思ふ」「侵略を受ける脅威がある以上防衛的の新軍備なしといふ訳ニはいかぬ」
 ソ連の脅威を意識してのことではあるのだろうが、これを宮内庁長官は象徴天皇としては「それは禁句」と諫めてるんだね。しかし、ここから君主時代にはかなり自らの意志で、政治にも軍事にも意見を述べていたであろうことが伺えるのもまた事実だ。「反省」ばかりが喧伝されているけど、「再軍備」に意欲満々の昭和天皇の姿もしっかりと検証すべきだ。そして、この「拝謁記」は既に戦争責任は問われないと決定してからのものということも考慮する必要があるだろう。


2019-8-19 名古屋市公会堂4階ホール「沖縄県主催・デニー知事トークキャラバンin名古屋」〇阪井芳貴-デニー知事の講演、シンポジウムの後、愛知沖縄県人会連合会がセットした交流会の真っ最中です🎵愛知の沖縄調査会のメンバーと記念写真



‎咲いた 満ぞう 2019年‎8月18日ー横浜鶴見 本日旧盆道ジュネーやってます。

 「くろねこの短語」2019年8月18日ー(前略)汚染の原因は除菌されていない下水が流れ込んでいるのが原因のひとつとされているようだが、ちょっと待てだよね。汚染とくれば、福島第一原発爆発による放射能汚染の方がもっと深刻だ。過去の調査では、「東京湾の旧江戸川河口で採取した泥からは、最高で1平方メートルあたり約10万4千ベクレルの放射性セシウムを検出」なんてこともあった。
・東京湾への放射性セシウム流入続く 河口付近の泥に集積
 マスコミは大腸菌がどうしたこうしたということばかり報道しているけど、放射能汚染には完全に口を閉ざしている。オリンピックに浮かれて、初老の小学生・ペテン総理の「アンダーコントロール」なんて嘘を世界にばら撒いたJOCも同罪で、ここまできたらせめて会場を東京湾から伊豆あたりの海へ変更するくらいの誠意を見せてみやがれ・・・って出来ない相談してみた猛暑の日曜の朝であった。

  「くろねこの短語」2019年8月17日ー(前略)ところで、北のカリアゲ君がやたら飛翔体という名のミサイルを飛ばしているんだが、初老の小学生・ペテン総理は「わが国の安全保障に影響を与えるようなものではないことは確認されている」とさ。いやあ、お笑いだよね。だったら、去年さんざん煽っていた「避難訓練」ってのは何のためだったんだろうね。
 ようするに、トランプが「短距離ミサイル発射はOK」って言ってるから、それにお追従しているだけなんだね。つまりは、大局的な安全保障体制について何のプランも持っていないってことだ。アメリカが右と言えば右向くし、左といえば左を向く・・・だったら、誰だって総理大臣できるじゃん。政治を家業とする世襲の政治屋なんて、こんなものです。

 「くろねこの短語」2019年8月16日ー(前略)ところで、森友学園疑獄捜査終了を待っていたかのように、文書改竄の中核的役割を果たしたとされる財務省官房参事官の中村稔とやらが駐英公使に栄転だってさ。公文書改竄では停職1ケ月の処分が下されているんだから、大阪地検特捜が不起訴処分にしなければ裁判で有罪になる可能性だってあったんだよね。ペテン総理にシッポを振れば、どんな奴でも出世街道が用意されているってことが、またひとつ証明されちゃいましたね。
 最後に、お笑いをひとつ。「NHK契約者は受信料を支払う義務がある」って閣議決定しましたとさ。N国党がどんなに喚き散らそうが、NHKの存在ってのはペテン総理にとって世論操作の最前線ですからね。N国党は自民党の裏組織みたいなものだから、いい加減にしとけよという忠告の意味もあるのかもしれない。顔も頭も貧相な官房長官・ガースの後援者でもある崎陽軒をdisったのがまずかったのかもね。図に乗るとこういうことになります。そんなことより、N国党の幹事長に就任したらしい永田町のブローカー・上杉君の行く末やいかに。

 「くろねこの短語」2019年8月15日ー敗戦から74年。戦争責任すらその当事者たちがほっかむりして、あげくにアメリカの意を汲んだ戦犯が総理大臣になり、その血を継いだ世襲のボンクラ政治屋がいまや「改憲」を喚く。なんとも「けじめ」のない国になったものだ。・安倍首相、山口に帰省 父の墓前で改憲誓い参院選の結果も報告。
 そして、官僚は政権への「忖度」から公文書すら平然と改竄し、総理と私人の嫁の犯罪はロクな捜査もせずにチャラになる。靖国神社が天皇に「行幸」を要請したなんてニュースも、国家神道としての負の歴史を反省すらしない、「けじめ」のなさゆえのことだ。イヌアッチイケーを筆頭とするマスメディアの劣化もまた、戦前の大本営発表の垂れ流しを真摯にみつめ直すことをせずに、「楽しくなければテレビじゃない」なんて浮かれまくって「けじめ」をなくしたからなんだね。吉本興業が、こっそりと謹慎芸人の復帰を発表したのも、やっぱり「けじめ」のなさの典型で、世間を舐めているってことなのだ。
 政官財+メディアの「けじめ」のなさをほったらかしにしておくと、そのうち「けじめ」のない戦争へと突入することになりますよ・・・なんて真夏の世の夢を見た敗戦記念日の朝であった。


8月17日(土)から、東京都人権プラザ(〒105-0014 東京都港区芝2丁目5−6 256 スクエアビル1・2階)1階企画展示室で、儀間比呂志「ツルとタケシ」原画展が行われます。

2019年8月『月刊琉球』№68琉球館〒903-0801 那覇市首里末吉町1-154-102 ☎098-943-6945/FAX098-943-6947

しもじけいこ「宮古島・住民は幸せ??」/渡久山ミライ「宮古島への陸自配備について」/楚南有香子「島の未来を思う」

すねしまさく菜「西表IN・『東京西表島郷友会』総会に出席してー32年ぶりの再会」/与那嶺功「沖縄振興ー『明治維新150年』を問う 大東亜・植民政策・ナショナリズム⑫」

 「くろねこの短語」2019年8月11日ー(前略)もちろん、その出来レースには官邸記者クラブの新聞屋も名前を連ねている。だからこそ、恥ずかしげもなく「あれは会見ではなくぶら下がり」なんて言い訳する毎日新聞の記者みたいなのが出てくるんだね。・進次郎×滝クリの「官邸結婚報告」に異論噴出。首相官邸からの生中継という異常さ
 それにしても、臆面もないでき婚会見を何の衒いもなくやってのけられる無神経さってのは、「初代が作り2代目で傾き3代目で潰す」という言葉があるけど、まさにそれを地で行くうすのろってことか。そして、そんな虚けを持ち上げるマスコミもまた同じ穴のなんとやらで、この国はまたしても世界に恥を晒したのでありました。

 「くろねこの短語」2019年8月10日ー長崎原爆の日に、初老の小学生・ペテン総理は広島の式典とほぼ同じコピペの挨拶文で大顰蹙を買ったってね。長崎市長の「一刻も早く核兵器禁止条約に署名、批准してください」と語る平和宣言は、おそらく馬の耳に念仏、馬耳東風なのだろう。広島てもそうだったように式典中の不機嫌そうなツラがそれを物語っている。
 なんでも、式典後の被爆者との面談では両肘を机に立てて、手に顎を乗せるという無礼な態度だったとか。そのくせ、自らの人気取りのためには、官邸でろくでなしとおもてなしのデキちゃった婚の会見をセットするってんだから、なにからなにまでミーハーのバカボンってことだ。
 そんなミーハーぶりを、これまたマスコミは大はしゃぎで垂れ流し、おいおい、もっと重要なニュースがあるだろうと突っ込んだ矢先に、なんと大阪地検特捜が森友学園疑獄の捜査を終了だとさ。公文書改竄はまぎれもない事実なんだから、少なくとも法廷で決着をつけるのが筋ってものだろうに。
 「起訴するに足る証拠を収集することができなかった」なんて言い訳を大阪地検特捜部の部長はのたまっているが、そんなことはありませんよ。どんな些細なことだって、特捜がその気になったら有力な証拠足り得るんですからね。たかが期ズレという形式犯でありながら、さんざんオザワンを叩きまくった陸山会事件なんかその典型だ。もはや、地検特捜部なんて何の意味もない。こうなったら、1日も早く解体しちゃった方が世のためというものだ。でなけりゃ、公文書改竄を強要されて、死をもって抗議した職員が浮かばれませんよ、ったく!!

 「くろねこの短語」2019年8月9日ー福島第一原発からの汚染水を溜めるタンクが、2022年の夏には限界に達するそうだ。タンクの大型化も困難ってんだから、最終的には海に垂れ流すしかなくなる。そうなれば漁業関係者からの猛反発は避けられないから、それもまた簡単にはできそうもない。さあ、どうする、どうする、ってなもんです。ようするに、オリンピックを1年後に控え、「アンダーコントロール」なんて1mmも出来ていないってことだ。初老の小学生・ペテン総理の大嘘を理由に、オリンピックをボイコットする国が出てくるのも時間の問題か。
 「表現の不自由展・その後」への脅迫、そして顔も頭も貧相な官房長官・ガースや名古屋市長のエビフリャー河村君の憲法違反発言を糾弾した愛知県知事の大村君に、大阪のノータリン知事が噛み付いたってね。なんでも、「辞職相当」なんてことを口走ったってんだが、これに対して愛知県知事は「はっきり言って哀れだ」と切り返したうえで、こんなコメントしてます。「憲法21条の表現の自由についてまったく理解していないのではないか。公権力を持っている人がこの内容はよくて、この内容はだめだとずっと言っている。(吉村知事が常任役員を務めている)日本維新の会は表現の自由はどうでもいいと思っているのではないか」マスコミも企画展の内容にばかりにスポットを当てているけど、問題の核心はこれに尽きるんだよね。こうなったら、警備云々にこだわらず、1日も早く再開することだ。
 最後に、吉本興業が、お家騒動の鎮静化のために「経営アドバイザリー委員会」なるものを設置したんだが、このメンバーがまさにお笑い。委員長の川上和久・国際医療福祉大学教授ってのは、マネージメントを吉本にまかしてるんだよね。つまり、身内です。さらに、三浦瑠麗なんてのも名前を連ねているんだから、吉本興業がどんな勢力と結びついているか一目瞭然。松本人志を筆頭に、吉本の芸人がやたらペテン総理をほめそやすのもわかろうというものだ。

 「くろねこの短語」2019年8月8日ー実に、まあ、アッサリと捕まったものだ。誰が?って、「表現の不自由展・その後」の脅迫犯です。愛知県警が「匿名化されているから特定できない」って捜査に乗り出す気がないようなことを言ってたのは何だったんだ。ここは、キッチリと説明責任があるんじゃないのか。
 犯人は59歳のトラック運転手ってことなんだが、果して個人の犯罪なんだろうか。当人は単なる鉄砲玉で、裏で糸引く奴がいるんじゃないのかねえ。そのへんもキッチリと捜査してほしいものだ。やらないだろうけど。なにはともあれ、とりあえず脅迫犯は捕まったんだから、「表現の不自由展・その後」は再開すべきなんじゃありませんかねえ。
 ところで、森友学園疑獄で公文書改竄を強要されて自殺した近畿財務局の職員を、「公務災害」として労災認定したってね。「公務災害」ってことは、過剰な職務を強要した上司がいるわけで、それで災害(=自殺)に至ったんだから、そこを特定しなけりゃ意味ないんじゃないのかねえ。最終的には、その責任は財務大臣にあるわけで、ここは改めてひょっとこ麻生の責任を追及するきっかけにすべきだろう。そうでなけりゃ、自殺した職員が浮かばれない。
 ああ、それなのに、マスコミは口だけの進次郎と滝川おもてなしクリステルの結婚でおおはしゃぎ。しかしまあ、できちゃった婚を官邸に報告って、バカか!! 官邸での初老の小学生・ペテン総理との個別の面会ってのは、なんでも1ケ月以上前からのスケジュール調整が必要なんだとか。てことは、できちゃった婚の報告ってのは、このタイミングで仕込まれていたってことなんだね。そんなミエミエの出来レースを、新聞もTVも、タラタラ垂れ流してんじゃねーよ!!
※ネットではデキ婚、元カレの小澤征悦との復縁はなし。また、ここにしゃしゃり出るアベ総理への嫌悪感が充満。テレビは結婚でおおはしゃぎだが、さて週刊誌ではどうか。

  室井佑月「わくわくしてます」〈週刊朝日2019年8月16日‐23日合併号〉-(前略)国会から変われば、あたしたちの世界も変わる。障害を持たれる方が生きやすい世の中は、大勢にとっても生きやすい世の中である。誰もが歳をとっていくし、誰もが障害を持つかもしれない。なのに、人間が生産性とかコストとかで語られる今にうんざりしてこないか? 弱肉強食、拝金主義の世界に、吐き気がしてこないか? いきすぎたものは、元に戻すべきだろう。(略)
 山本太郎のポップさと共産党の固さがミックスされるのは、魅力的だ。お互いに足りない部分を補い合い、パワーアップするんじゃないかと希望を抱ける。そして彼らは主権者のための政策をあげ、弱者を救う。本気で政治をやっている彼らのもとには、本気で政治をやろうと思う人たちが集まってくるだろう。ほんとうの野党共闘はここからはじまるのかもしれない。

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田中健夫訳注 『海東諸国紀 朝鮮人の見た中世の日本と琉球』 岩波文庫、1991年
海東諸国紀』(かいとうしょこくき, 朝鮮語: 해동제국기)は、李氏朝鮮領議政(宰相)申叔舟(しん しゅくしゅう、シン・スクチュ)が日本国と琉球国について記述した漢文書籍の歴史書。1471年(成宗2年)刊行された。 これに1501年(燕山君7年)、琉球語の対訳集である「語音翻訳」が付け加えられ現在の体裁となった。1443年(世宗25年)朝鮮通信使書状官として日本に赴いた後、成宗の命を受けて作成したもので、日本の皇室や国王(武家政権の最高権力者)、地名、国情、交聘往来の沿革、使臣館待遇接待の節目などを記録している。「語音翻訳」は1500年(燕山君6年)に来訪した琉球使節から、宣慰使成希顔が聞き書きし、翌年に兵曹判書李季仝の進言で付け加えられた。→ウィキ


2014年12月9日~韓国・ソウルの国立古宮博物館で「琉球王国の至宝」展

2014年12月9日『沖縄タイムス』琉球王が着用した国宝の「玉冠(たまのおかんむり)」など、琉球国に関する資料約200点を一堂に集めた「琉球王国の至宝」展が9日、韓国・ソウルの国立古宮博物館で開幕する。来年2月8日まで、東アジアの中で独自の歴史と文化を築いた琉球国を、韓国の人々に紹介する。 展示資料は那覇市歴史博物館、県立博物館・美術館、浦添市美術館、美ら島財団(首里城公園)、東京国立博物館などが貸し出している。王族の衣装や当時の風景を描いた絵、高い技術を伝える漆器など第1級の資料が並び、琉球国の文化を伝える。

〇1992年にオープンした国立古宮博物館は、朝鮮時代の宮中で使われていた貴重な物品を文化財として保存、展示しているところです。景福宮、昌徳宮、昌慶宮、宗廟などに分散し埋もれていたこれらの文化財約20,000点あまりを所蔵しています。

1913年5月 『沖縄毎日新聞』襄哉(末吉安恭)譯「朝鮮小説 龍宮の宴」


松都に天磨山と云ふ山がある。高く天に沖りてグッと聳へ立った山の姿が厳かなので天磨山の稱も成程と思はせる。この山の中に一つの池がある。周囲は窄いけれど深さが底の知れぬ池で、恰度瓢箪ののやうな形をしてるので瓢淵と云ふ名が利た。

■「金鰲新話」 朝鮮時代初期に政治家であり文学者であった金時習によって書かれた漢文文語体の朝鮮最初の小説です。《萬福寺樗蒲記》《李生窺牆傳》《醉遊浮碧亭記》《龍宮赴宴録》《南炎浮洲志》の5編で構成されています。後世の研究者に依れば元々はそれ以上に書かれていたと推測されていますが、残された資料が少なく定かではありません。また、この作品がその後に書かれた小説に大きな影響を与えたと言われています。ぜひ皆さんもイージー文庫の連載『金鰲新話(クモシナ)』をお楽しみください
王からの招待
松都(高麗時代の都=開城)には天磨山と呼ばれる山がある。その山の高さが天に届く程で、その険しく秀麗である事からその様な名前が付いた。山の中に大きな滝があったが、滝の名を*朴淵(パギョン)と言った。滝つぼの広さはそれ程広くは無かったが、深さは如何程か分からないほどであり、水が落ちてくる滝の高さはとても高かった。この朴淵瀑布(パギョンポクポ)の景色が非常に美しく、地方から松都に来た人々は必ずこの地を訪れて見物して行くの常だった。また、昔からこの滝つぼには神聖な存在が居るとの言い伝えがあり、朝廷では毎年の名節の折に牛を供えて祭祀を執り行っていた。  *朴淵瀑布:高さ37m、幅1.5mの開城にある滝で、金剛山の九龍瀑布、雪岳山の大勝瀑布 と併せて朝鮮三大名瀑に数えられる。

高麗の時代の話である。韓氏の姓を持つ書生が居たが、若い時から書に優れていることで朝廷にも知られ称賛を受けていた。ある日、韓生(ハンセング)は自分の部屋で一日過ごしていると、官吏の正装をした二人の男が天から降りてきて庭にひざまずいた。「朴淵の神龍さまがお呼びで御座います。」韓生は驚きの余り顔色が変わった。「神と人の間は遮られているのに、如何して行き交う事ができるのですか?まして神龍様の居られる水府は水の奥深くにあり、滝の水が激しく落ちるのに如何して行く事ができましょうか?」二人が言った。「門の外に駿馬を準備致しました。どうか遠慮なさらずにお使い下さい。」二人は身体を曲げつつ韓生の袖を引いて門の外に連れ出した。すると外には馬が一頭用意されていたが、金で出来た鞍と玉と絹で作られた手綱で仕立てられており馬には翼が付いてた。その傍には赤い頭巾で額を隠した絹の服を着た10余名の侍従が立っていた。侍従は韓生が馬にまたがるのを助けると、一隊の前に立って先導し、女官と楽隊が後に続いた。また、先の二人も互いに手を取り合って続いた。馬が空中に舞い上がると、その下に見えるのは立ち込めた煙と雲だけであり、他には何も見る事が出来なかった。やがて韓生は龍宮門に到着した。馬から下りると門番たちが蟹、海老、亀の鎧を着て杖を持って立っていたが、その目がとても大きかった。彼らは韓生を見ると皆こぞって頭を下げてお辞儀し用意された席まで案内して休息を勧めた。予め到着を待っていた様であった。彼を案内して来た二人がいち早く中に入って到着を伝えると、すぐに青い服を着た二人の童子が恭しく出迎えて挨拶すると先導を代わった。韓生は先導に従いゆっくりと歩いて宮殿に向った。韓生が門の中に入ると龍王が*切雲冠をかぶり剣を差したまま、手に竹簡を持って階(きざはし)まで降りて迎えた。龍王は韓生を誘い殿閣に上がると座る様に勧めたが、それは水晶宮の中にある白玉の椅子であった。  *切雲冠:雲を衝くほどに高くそびえ立った冠

末吉麥門冬が最初に朝鮮史にふれたのは1915年6月22日『琉球新報』末吉麦門冬「朝鮮史に見えたる古琉球」(1)からである。
1915年6月22日『琉球新報』末吉麦門冬「朝鮮史に見えたる古琉球」(1)
□松下見林の『異称日本伝』の例に倣った訳でもないが、記者は年来琉球史の記実が詳細を欠き、漠として雲を掴むような観あるを、常に憾みとしていた。其の原因は吾々の祖先が文字に暗い上に、筆不精と来てるので、有る事実も材料も使い得ず、官命を帯びて不性無性、筆を執って偶々物したのが、僅かに球陽、中山世譜位のもので其れも憖じいに廻らぬ筆の陳文漢文だから要を得ぬ所が多いのである。其れは先ず正史の方だが沖縄には元来野乗随筆と云った物が無い。正史の缼を補うような材料が得られない。歴史家困らせである。

目下県の事業として真境名笑古氏が満幅の精神を傾けて、材料蒐集に従事して居らるるが、氏も常に語って委しからず、録して汎ねからぬ史籍に憾みを抱き是ではならぬと本邦の史籍は無論支那朝鮮の史料まで眼を通さねばならぬと云って望洋の歎を発している。幸いに氏が不撓の努力と燃犀の史眼は、沙礫の中から珠玉を拾うような苦心で新材料が一つ一つ机の上に転がって来る。其の愉快は又学者ならでは味わえぬことだろう。此の新材料提供の泉の一つが朝鮮の古書である。流石は朝鮮で支那に次ぐ文字の國ではある。蔚然たる古記録には東洋各國の史料が束になって這いっている。一たび其の堆土の中に熊手を入るれば、敕々雑々として葉山の秋の落葉を掻くが如きものがある。記者も眠気醒ましに熊手代わりの雑筆を揮いて高麗山の落葉を掻いて荒れたる史田の肥料にでもと思い立ちぬ。

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麦門冬が引用した文献資料
○りゅうひぎょてんか【竜飛御天歌】 朝鮮の李朝建国叙事詩。鄭麟趾らの撰。1447年刊,木版本。10巻,125章から成る。初章1聯,終章3聯以外は2聯で,対になったハングル歌,そして漢詩訳が続く。前聯は中国の故事,後聯は朝鮮の事跡で建国の正当性を主張する。世宗(せいそう)前6代祖の事跡を述べるが,太祖(李成桂)に最も詳しい。110章以降は後代の王への訓誡。ハングル(1446年訓民正音として制定)による最初の資料で,注は漢文で書かれて長く,高麗末から李朝初期の中国東北部や日本に関する記事もあり,文学・語学・歴史的にも重要である。
(コトバンク)
○櫟翁稗説・筆苑雑記 李斉賢/徐居正著
高麗・朝鮮王朝の古典の翻訳
韓半島に栄えた高麗・李氏朝鮮の両王朝の2人の高官が書き残したさまざまな人物評や風聞、笑い話、風俗、官僚の姿、制度などの記述に豊富な注と解説を加えた歴史的古典の翻訳。 韓流ブームの中にあって、解説書や入門書の紹介は数多いが、本格的な当時の古文書を翻訳したものは少ないので貴重な書籍である。 とはいえ、全体が短い文でつづられているので、出てくる人物のことやその他の情報を知るにはいささか厳しい。それこそ多数の人物が登場するが、注を読んでもさっぱり分からないことが多い。 しかし、当時の人物が直接書いた感想や評伝なので、歴史的な事実の裏側を知るには貴重な文献とは言えるだろう。 高麗王朝の高官だった李斉賢の「櫟翁稗説」の解説には、当時の高麗王が元の侵略によって、その後の王の名前に「忠」が付いたものが多いことが指摘されている(「忠烈王」「忠宣王」「忠粛王」「忠恵王」など)。
これは解説によれば、「元の圧力によって高麗王は『宗』や『祖』を名乗れなくなったのである」とある。要するに、「『忠』などというのは臣下の徳目であって、王の徳目としてはありえない。最高主権者は『忠』であるべき対象をもたないはずだが、高麗王は元の皇帝に『忠』であることを強制されたのである」。 そのことは世継ぎを「太子」と呼ぶのではなく、「世子」と呼ぶようになったのも元の干渉からきていると訳者は指摘している。 また、李氏朝鮮王朝の高官だった徐居正の「筆苑雑記」では科挙の試験に昔は酒食がふるまわれたことや日本の戦国大名の大内氏の祖先が新羅から来ているのではないかと考察したものや7代王の世祖の時代に「女と見まがう容貌」の男がいて、罪人として法によって処刑することを司法関係の役所では願ったが、王が大目に見て却下したことなど興味深いエピソードが記されている。 (梅山秀幸訳) 中山雅樹

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2015年7月22日~8月31日 古代出雲歴史博物館「琉球王国ー東アジア交流の盛華」琉球王国のすべてが出雲に集結

出雲/島根県と沖縄

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前列左から前田所長、當間次長、兵庫県人会婦人部ー大城一史の作品を背景に

沖縄県大阪事務所は前田所長、當間次長のとき(1980年)島根県ビルから大阪駅前第3ビルに移転してきた。だから梅田に行くと島根県事務所もよく寄るが、島根(出雲)はまだ行ったことがない。熊野は熊野本宮大社だけが残っている。1937年7月の『月刊琉球』に沖縄県総務部長の清水谷徹が「王仁三郎を捕ふ」というのを書き「元来、島根県は松江市は有力な大本教の地盤で、その大本教松江分院なるものが、また素晴らしく豪奢なものであった。面白いことには、その隣りが皮肉にも島根県警察部長官舎で、当時私が住んでいた訳である。」と述べている。私は最近、千田稔『華族総覧』講談社を愛読しているが、島根県・亀井家を見ると「王政復古以後、議定、神祇局副知事となり、同局判事に大国隆正を登用した。まさに津和野藩主主従が宗教行政を握ったかであり、廃仏毀釈で神道国教化政策を推進した。(略)亀井家では西周が亀井玆明の養育を担い、森林太郎も同世代として玆明と交流した。日清戦争が勃発すると、亀井玆明は祖先玆矩が琉球守として外征の大志を抱いたことに触発され、従軍写真家として中国に赴く。のちに『明治廿七八年戦役写真貼』を皇室に献本した。」とある。



○森鴎外記念館もりおうがいきねんかん 島根県津和野町町田イ238 電話番号 0856-72-3210
営業時間 9時~16時45分  定休日 12月~3月中旬の月曜(祝日の場合は翌日)
料金 入館600円(森鴎外旧宅の見学料含む)  アクセス JR津和野駅→石見交通バス鴎外旧居・長野行きで7分、バス停:鴎外旧居前下車、徒歩3分
森鴎外旧宅に隣接して立つ記念館。軍医であり、文学者でもあった鴎外の生涯を、遺品や直筆の原稿、ハイビジョン映像などで紹介している。鴎外は、幼くして『論語』や『孟子』を学び、天才少年の誉れ高かった。7歳から2年間、養老館で学び、10歳で上京し、その後、鴎外は陸軍軍医となり総監に就任。そのかたわら『舞姫』『山椒大夫』『阿部一族』など多くの小説を著した。鴎外が妻や子どもたちに宛てた書簡や、日記も展示。

○安部榮四郎記念館ー〒690-2102 島根県八束郡八雲村東岩坂1754 ☎FAⅩ(0852)54-1745
安部栄四郎 あべ-えいしろう
1902-1984 昭和時代の和紙製作家。
明治35年1月14日生まれ。出雲国(いずものくに)製紙伝習所で修業し,家業の和紙づくりにはげむ。昭和6年柳宗悦(むねよし)と出あい民芸運動に参加,雁皮紙(がんぴし)の特色をいかした出雲民芸紙を創作。43年人間国宝。昭和59年12月18日死去。82歳。島根県出身。著作に「出雲民芸紙譜」「和紙三昧(ざんまい)」など。(コトバンク)

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 1894年2月、那覇の南陽館で第8回九州沖縄八県連合共進会が開催された。5月、沖縄尋常中学校生徒(伊波普猷、真境名安興、渡久地政瑚ら)が下国良之助教頭の引率で関西に修学旅行。下国は20歳のとき滋賀の学校に勤めていて中井弘①の薫陶も受けているので関西には知人が多く、どこでも歓迎された。京都滞在中に学生数人は六孫王神社②を訪ねて、天保三年の江戸上りの時に正使が奉納した額を書き写している。

1894年5月20日『日出新聞』

□①5代京都府知事 中井弘(なかいひろし)
就任期間:明治26年(1893)11月~明治27年10月
天保9年(1838)、鹿児島生まれ。幕末と明治のはじめに二度にわたり欧州に留学、西郷隆盛に従軍したこともあった。工部大学校書記官、滋賀県知事、貴族院議員を経て京都府知事となる。滋賀県時代は時の北垣京都府知事とともに琵琶湖疎水建設にあたった。京都府知事在任中は「京都三大問題」(遷都千百年記念祭、第四回内国勧業博覧会、京都舞鶴間鉄道の建設)に力を尽くしたが、在任中脳出血で倒れ、これらの完成を見ずして亡くなった。(京都府)中井弘の胸像は円山公園内にある。

②六孫王神社
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大城弘明氏撮影

□六孫王は、清和天皇の六男を父として生まれ、経基と名づけられたが、皇室では六男の六と天皇の孫ということで六孫王と呼ばれていた。十五才にて元服、源の姓を賜わり、先例に従い臣籍に加えられたとある。承平・天慶の乱に東国・西国の追討使を承り、現地に赴き凱旋の後、鎮守府将軍に任じられた。王は現在の社地に住居を構え、臨終に臨み「霊魂滅するとも龍(神)となり西八条の池に住みて子孫の繁栄を祈るゆえにこの地に葬れ」と遺言された。王の長子満仲公は遺骸を当地に埋葬され(本殿後方に石積の神廟がある)その前に社殿を築いたのが、六孫王神社の始まりである。(平安時代中期)
 境内中央の池を神龍池といい、その側に満仲誕生のおり井戸上に琵琶湖の竹生島より弁財天を勧請し、安産を祈願し産湯に使ったと云う、誕生水弁財天社がある。(6月13日弁財天御開帳祭)
 江戸時代五代将軍綱吉の時代に現在の本殿・拝殿等建物が再建された。毎年十月体育の日に例祭(再興が元禄より始まり宝永年間に完成したゆえ別名“宝永祭”とも謂われる)が行われる。
 王の後裔には源義家・頼光・頼政・木曽義仲・頼朝等、また足利・新田・細川・島津・山名・今川・明智・小笠原・徳川等の武将が多数輩出され、それぞれ子孫繁栄されている。
 昔は、六ノ宮権現とも呼ばれ、今昔物語に「六の宮」それを基に芥川龍之介が「六の宮の姫君」にも載せている。小泉八雲著の「怪談」には、「弁天の同情」と題して不思議な夫婦の出会いの話が紹介されている。

「小泉八雲」2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

1909年4月『琉球新報』□師範中学旅行生の消息ー4月6日、火曜日、神戸、京都 午前9時半汽車にて神戸駅を発し12時京都に着。直ちに東本願寺に参詣致し建築の壮大な に驚き入り候。これより途中耳塚を右に見立て豊国神社に詣で旧伏見桃山殿の唐門大仏殿、国家安康の大鐘を見て博物館に入り歴史美術上の珍品に知囊を養い三十三間堂を経て桃山御殿に詣で血天井を見。妙法院西大谷を過ぎて清水寺に詣で候・・・。

1917年4月『琉球新報』□沖縄師範旅行たよりー午前8時、軽装して比叡山登りの道すがら、本能寺の信長墓を弔った。五尺ばかりの石塔で手向ける人とてもなくあはれ物寂しい。御所を拝して大学の裏道より、田圃の間にいで右に吉田の山を見つつ銀閣寺にいった。庭園の美、泉石の趣、形容も及び難いが義政将軍風流三昧をつくしたところかと思うと折角の美景も興がさめてしまう。狩野元信の筆や、弘法大師の書などは珍しいものである。ここから大文字山の森の下道を通ってその名もゆかしい大原白河口に出た。比叡山の登り口である。流汗淋満として瀧なす泉に咽喉を濕し息もたえだえに登ると境は益々幽邃である。ラスキンが山を讃美して、宗教家には聖光を付与す・・・。

1925年8月 『琉球新報』□女子師範二部旅行便り・夏の旅ー7月17日、2日目の京都見物に8時頃宿を出発して京津電車に乗って浜大津に着く。(略)高く聳える比叡山を後にして瀬多の唐橋を潜りときに名高い石山寺に詣づ。紫式部の源氏の間はかたく閉ざされて、ありし昔を物語る如く墨黒々と書かれて居るここに天然記念物に指定されたるけい灰岩あり、其処を引き返して又船に乗る。粟津の晴嵐を右手に眺め三井寺に参拝して疎水下りにつく流れ清き水に行く船の淡き灯の中より歌の聲もれて暗きトンネルの天井に反響して周囲の空気をゆるがし流れを波立たす。トンネルを出ると眩ゆい光線に小波はプラチナのように光り輝いて其の美しさはたとえ様もない夏の事とて海水浴をする人や釣をする人が多い。疎水を下り終ってインクラインを見てから知恩院に向かう。左甚五郎の荒れ傘や鶯張廊下を見る3百間もある長い廊下である。ここより清水寺に行き方広寺、三十三間堂に詣ず。恩賜の京都博物館を眺め黄昏の町を電車で宿に帰り又10時に宿を出発して岡崎公園に至り、平安神宮に詣で桓武天皇当時の昔を忍ぶ、公会堂の前を通り西本願寺に行って電車で駅に向かう。

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1971年 雑誌『青い海』12月号 崎原恒新「文学作品にみる沖縄(2)屋良朝陳『巴旗乃曙』ー琉球の独立をめざした人びと」
 

写真左から、崎原恒新氏、新城栄徳、宮里一美さん(本部)、平良幸子さん(謝名城)、平良次子さんー南風原文化センター/崎原綾乃さん、崎原恒新氏、新城栄徳、崎原浩子さん


2015年9月25日 沖縄文化の杜ー崎原恒新氏(右)


那覇市歴史博物館所蔵「巴旗」/左ー新城栄徳

1946年3月 屋良朝陳『巴旗乃旗』文化琉球人会(奈良市)/1971年9月 『石の声』№8

龍脈/屋良朝陳「文化琉球人会」奈良市
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文化琉球人会の刊行物
文化琉球人会(那覇聾話学校疎開・屋良学園内ー奈良市南城戸町29番地)
1946年3月 屋良朝陳『琉球秘史劇・巴旗の曙』(活版)
1946年6月22日 月刊雑誌『大琉球』6月号□樋川虔淵「國是として文化日本の建設」、「組踊・手水の縁」(朗読用)、屋良朝陳「巴党の動向」
1946年6月 屋良幾久枝『琉球史劇・長虹堤異聞』
1946年9月22日 月刊雑誌『大琉球』第三号□屋良朝陳「琉球民俗史」、樋川虔淵「日本國是として『美・仁・柔』を掲げよ」、平敷屋朝敏「若草物語」
1946年10月 月刊雑誌『大琉球』第四号□「組踊・護佐丸」
1947年7月22日 屋良朝陳・松村克彦『琉球夜話』
1947年7月29日 屋良朝陳・松村克彦『琉球年中儀令』
1947年7月22日 月刊雑誌『大琉球』第五号「組踊・國吉のひや」
1947年8月 月刊雑誌『大琉球』第一号「組踊・手水の縁」『琉球王代記・巻之一』

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題字揮毫・東大寺清水公俊師
清水公照(第207世、第208世東大寺別当、華厳宗管長)1927年:東大寺塔頭宝厳院に入寺。清水公俊の下僧名公照となる。1945年:終戦を出征先の中国廬山で迎える。師父清水公俊大僧正死去。→ウィキ


○売笑の起源と遊女の変遷 娼婦の元祖は巫女である
○芸妓の揺籃とその成長 三味線伝来を画期として独立すー(略)茲に正親町院の文禄年間、琉球から蛇皮線が伝来し、それが堺の琵琶法師の工夫で本手、破手などの組歌が出来、次第にはやり出して小唄、地唄、長唄などが盛んに流行するようになると、従来ただ色だけを売っていた遊女の間にもこれを唄うものを生じ、又私娼の間にも堪能なるものが出来て、遂に三味線という芸だけで独立する女が出来ました。
○公娼制度の濫觴と遊廓の発達 豊太閤は遊廓開基の大恩人ーそれが一の営業として公認された形になったのは、鎌倉時代の『遊裙別當』(足利時代には『傾城局』)といふのが其の濫觴であり、更に一歩前進して公娼を保護し、且つこれを取締まるために遊廓を公許するようになったのは豊公の英断に出でたのであります。豊臣秀吉が天下を平定してから、京都に初めて柳町遊廓(後の島原遊廓)が新設されました。以後ー奈良・木辻、駿河府中、大阪瓢箪町(後の新町廓)などが出来た。・・・江戸吉原遊廓、大阪松島遊廓、大阪飛田遊廓、兵庫の遊廓
○遊里と社寺ー祭礼と遊女ー(略)琉球辻の遊廓の開祖は浦添王子の妃であると伝えられ、その命日である旧正月廿日には『廿日正月』又は『尾類馬ずりうま』と言って廓内の名妓が総出になり、花魁道中のような行列絵巻が繰りひろげられます。
平良盛吉(1890年8月28日~1977年6月28日)
羽地村に生まれる。沖縄県立一中を中退し沖縄毎日新聞記者。記者の傍ら、琉球史、琉球古典音楽を研究。羽衣、羽生、平氏、野の人というペンネームで論文、随筆を新聞、雑誌に発表。

平良盛吉・著作目録
1905年
3月ー『少年世界』第11巻第4号□平良盛吉「明けがた」/7月、平盛吉「朝顔」。
1906年
2月ー『少年世界』第12巻第2号□平良蘭月「梅花一枝」。□→斎木喜美子『近代沖縄における児童文化・児童文学の研究』風間書房。
1910年
2月4日ー『沖縄毎日新聞』平良盛吉(羽衣生)「小品・三味線」
3月14日~29日ー『琉球新報』平良盛吉「村の先生」□→1991年1月『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)平良盛吉「村の先生」。

2019年7月21日ーRBCiラジオ「ふるさとの古典」(上原直彦/島袋光尋)で平光雄氏が紹介されていた。私が平光雄という名を聞いたのは、東大阪市永和に居られた平良盛吉翁からで1974年であった。


1967年8月 平良盛吉『琉球音楽の研究』沖縄文化協会(大阪市住吉区粉浜中之町2-13)山内盛彬「序文」


琉球古典音楽CD 「湛水流曲集」:平光雄 沖縄県指定無形文化財「湛水流」保持者認定記念 /→吾天為(あてに)「三線な日々」

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近鉄○2015年(平成27年)4月1日に、これまでの(旧)近畿日本鉄道を近鉄グループホールディングスに社名変更した上で、会社分割により鉄軌道事業を近畿日本鉄道分割準備(2014年4月20日設立)に、不動産事業を近鉄不動産に、ホテル・旅館事業を近鉄ホテルシステムズ、流通事業を近鉄リテールサービスにそれぞれ継承させ、持株会社制に移行した。鉄軌道事業を継承した近畿日本鉄道分割準備は(新)近畿日本鉄道に社名変更し、近鉄グループホールディングス傘下の事業会社となった。


1991年12月 季刊『食・№42』桑原守也「近畿文化会と近鉄資料室」

近鉄資料室

1994年7月『沖縄都ホテル20年史ー万国津梁に夢はせて』桑原守也「はるけき思い出のいくつか」、早野充・加藤忠雄・親川幸男「”味”の魅力を語る」



1972年11月 沖青友の会機関誌『石の声』10号〇上原良三「初秋の京都北山へーそもそも諸準備の為、京都に勤める新城君の職場(某食事処食堂)で米や、スープンの調達のついで、コーラやコーヒーを御馳走になったのも一原因かも知れない。」


1974年
京都駅八条口近鉄名店街/紅屋

寮は南区/近鉄京都駅の近鉄名店街京風喫茶「紅屋」が職場 寮近くの通り、正面に見えるのが新幹線京都駅
  
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1973年、上の沖縄タイムスの記事をみて、京都駅近鉄名店街の「紅屋」に石川氏が訪ねてきた。後日、一燈園に石川氏を訪ねて歓談した。


左が石川洋氏、新城榮徳

○1993年9月、新宮市を訪ね、徐福の墓、神倉神社、熊野速玉大社を参拝。新宮図書館で熊野特集『熊野誌』37号を入手、中瀬さんは「南方熊楠・母すみの日記」を書かれていた。旧知の元沖縄都ホテル社長で熊野人の桑原守也さんが「私の熊野ショックー古道・熊楠・沖縄」と題し「南西諸島の島々に熊野分社が十社もあるのは潮流による文化の交流によるためであろうが、那智からの渡海上人といわれた日秀上人は琉球王朝の帰依をうけ又、京都三条駅前の法林寺の住職となった袋中上人は、有名な琉球神道記を残している。浄土宗の流布がこの地に熊野信仰を広めたものであろう」と書かれている。桑原さんとは私の息子の自宅から二駅先の駅がご自宅なので、大阪に行くと、いつも近鉄資料室、袋中上人のゆかりの地、京都の古書展などに同行している。

沖縄都ホテルで新城栄徳と桑原守也氏

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 私は17歳は東京一の繁華街、新宿歌舞伎町の大衆居酒屋で働いた事もあるが、その頃は若くてパワーもあった。20年ほど前、浅草寺初詣に行ったとき参拝者の列に入ったら全く身動きが取れなく離脱したこともある。とにかく過密都市でのオリンピック開催は気が知れない。いずれにせよ静かな都市に憧れて京都に住み着いたのが1969年であった。復帰前、沖縄関係資料室主宰の西平守晴さん一家と同行、生駒聖天に初詣したのが生駒との出会いである。その後、私の家族は生駒に直通する近鉄奈良線の布施駅近くに住むことになる。


1985年10月 宗教社会学の会編『生駒の神々ー現代都市の民俗宗教』創元社〇朝鮮寺ー在日韓国・朝鮮人の巫俗と信仰ー


宝山寺と新城あけみ
宝山寺(ほうざんじ)は、奈良県生駒市門前町にある真言律宗大本山の寺院。生駒聖天(いこましょうてん)とも呼ばれる。山号は生駒山(いこまさん)。1678年に湛海律師によって開かれた。本尊は不動明王。鎮守神として歓喜天(聖天)を天堂(聖天堂)に祀っている。仏塔古寺十八尊第十五番。(→ウィキ)
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2006「トンビの目のパノラマ地図」
○我が家は近鉄奈良線の布施駅近く(上の赤丸・東大阪市)にある。奈良公園や、唐招提寺・薬師寺、大和文華館(山口宗季の花鳥図、座間味庸昌の人物画が所蔵されている)、近鉄資料室や大阪ミナミ(道頓堀)に出るのに便利である。奈良はシルクロードの終点と言われているが、1977年発行の辛島昇①編『インド入門』に「日本人のシルクロード好きは、毎秋奈良でひらかれる正倉院展にどっと人があつまる事情と軌を一にしたものである」とし「むかし大東亜共栄圏という日本を扇の要においたひろい意味での文化圏を捏造した国粋主義に通じる」とする。奈良は東大寺の大仏や興福寺の五重塔、阿修羅像でも知られ世界遺産でもある。
①辛島昇 からしま-のぼる
1933- 昭和後期-平成時代の南アジア史学者,インド史学者。
昭和8年4月24日生まれ。専門は南アジア史。昭和50年東大教授。のち大正大教授。平成15年「History and Society in South India:The Cholas to Vijiayanagar(南インドの歴史と社会─チョーラ朝からビジャヤナガル王国へ)」で学士院賞。19年文化功労者。東京出身。東大卒。著作に「インド入門」など。→コトバンク

東大寺大仏殿ー2017年1月


奈良近鉄駅ビル3・4階に歴史・観光の展示館「なら奈良館」(旧・奈良歴史教室)

源平争乱によって焼失した東大寺を、重源はその資金を広く寄付にあおいで各地をまわる勧進上人となって、宋人陳和卿の協力を得て再建にあたりました。そのとき採用されたのが、大仏様の建築様式で、大陸的な雄大さ、豪放な力強さを特色するもので、この東大寺南大門が代表的遺構です。

国宝・銅造盧舎那仏坐像/重文・如意輪観音坐像

大仏殿にある広目天像  多聞天像 

小説家して有名な森鴎外は、大正6年に帝室博物館の総長に任命され、東京・京都・奈良の帝室博物館を統括する要職でした。大正7年から10年まで、秋になると鴎外は正倉院宝庫の開封に立ち合うため奈良を訪れており、滞在中の宿舎はこの場所にありました。

 2006年5月13日ー午後は、近鉄丹波橋で降りて、御香宮神社に行く。名水「御香水」が境内にある。この神社には京都市天然記念物のソテツがあり、その実は「延命厄除そてつ守」になっている。鳥せい本店側では名水「白菊水」、月桂冠大倉記念館では名水「さかみづ」を飲んだ。同時に昼間からきき酒で顔が赤くなった。

御香宮神社
近鉄奈良駅西口を出て地下道を通って近鉄高天ビルに出て歩道を西の方に歩くと直ぐ通称「山の寺」という看板が見える。奧まったところに「葵」の紋を打った山門が建っているところが浄土宗降魔山「念仏寺」である。門をくぐると降魔山と記された燈篭がある。その傍らに蘇鉄。1614年(慶長19年)11月15日徳川家康が大阪冬の陣の折、木津の戦いで真田幸村の軍勢に敗れ、奈良へ逃げ延び、この地の小字山の寺に至って、桶屋の棺桶の中に隠れ、九死に一生を得た。その後に、家康が豊臣方を破って、天下が治まった、1622年(元和8年)徳川家康の末弟で当時伏見城代を務めていた松平隠岐守定勝が、ここ油坂・漢国町を買い受け、袋中上人を開山として諸堂を建立したのが、山の寺「念仏寺」の始めである。

浄土宗降魔山「念仏寺」
〇御香宮神社は徳川家と深い関わりがある。徳川家康が豊臣秀吉のあとをうけ伏見城で天下の政事をとったおり、尾張、紀伊、水戸の御三家の藩祖と、秀忠の娘千姫はこの伏見で誕生している。御香宮を産土神として特別な崇敬を払っている。御香宮の神門は1622年に水戸中納言頼房(水戸光圀の父)が伏見城大手門を寄進したものと言われている。
□御香宮神社は江戸末期の慶応4年(1868)正月に勃発した「伏見・鳥羽の戦」では、吉井孝助率ら官軍(薩摩藩など)の屯所となった。片や幕府軍は大手筋通りを隔てた南側200mほど離れた伏見奉行所に陣(伝習隊、会津藩、桑名藩、新撰組などが)を構えた。大砲・鉄砲などの弾が激しく飛び交ったが、御香宮は幸いにして戦火には免れている。官軍の屯所となった境内には「明治維新伏見の戦跡」の石碑がある。□→1983年9月ー山本眞嗣著・水野克比古撮影『京都伏見歴史紀行』山川出版社

奈良・飛鳥の本

平良盛吉□→1991年1月『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)平良盛吉「村の先生」/平良盛吉(1890年8月28日~1977年6月28日)1912年、沖縄ではじめての総合文化誌『新沖縄』を創刊。琉球音楽研究家。『関西沖縄開発史』の著がある。□→2009年5月『うるまネシア』第10号/新城栄徳「失われた時を求めてー近鉄奈良線永和駅近くに平良盛吉氏が住んでおられた。息子が1歳のとき遊びに行ったら誕生祝をいただいた。袋は今もある」null
右の電報は青い海出版社から「息子誕生」の祝電である。

 大阪、奈良の双方から望める金剛生駒国定公園内の大阪生駒霊園に阿氏西平家の墓、近くには大阪沖縄県人会の共同墓地「かりゆしの郷」もある。

元祖阿姓南風原按磁司守忠七世西平親雲上守安四男守秀ー守朋ー守保ー守孝ー守紀ー守諄ー




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南方熊楠顕彰館 7月25日 ー南方熊楠顕彰会の前副会長(2011年4月~2015年3月)で、南方熊楠特別賞(第14回時)を受賞された飯倉照平先生が2019年7月24日に逝去されました。飯倉先生は、第1回南方熊楠特別賞受賞者の長谷川興蔵先生とともに、平凡社刊『南方熊楠全集』の刊行に携わられるとともに、『南方熊楠-森羅万象を見つめた少年』などの著書をもって、熊楠翁の業績や人となりを広く世に紹介されました。また、南方熊楠資料研究会の会長として、翁の残した膨大な資料の調査を通して「南方熊楠の基礎的研究」を進められ、『熊楠研究』の編集や『南方熊楠邸蔵書目録』『南方熊楠邸資料目録』の刊行等にもご尽力いただきました。ここに改めて、飯倉照平先生のご功績、並びに南方熊楠顕彰事業へのご尽力に対し敬意と感謝を申し上げますとともに、南方熊楠特別賞ご受賞時の選考報告、コメントとお写真を紹介し、ご冥福をお祈り申し上げます。


平成17年7月 俳句誌『貝寄風』』(編集発行・中瀬喜陽)新城栄徳「琉球の風②」
4月、南方熊楠顕彰会から『南方熊楠邸資料目録』が贈られてきた。巻末の人名索引に私の名前が有る。驚くと同時に記憶が甦った。1984年の夏、麦門冬・末吉安恭書の軸物「松山うれしく登りつめ海を見たり」を背に担ぎ熊本城を経て、田辺の熊楠邸を訪ねた。折よく文枝さんが居られたので麦門冬の写真を仏壇に供えてくださいと差上げたものであるが、大事に保存され且つ目録にまで記されるとは夢にも考えなかった。飯倉照平先生に電話で伺うと、研究会では熊楠没後の写真なので収録することに悩んだという。と書いた。そして麦門冬の親友・山城正忠を紹介した。正忠は那覇若狭の漆器業の家に生まれた。若狭は漆器業が多い。麦門冬の手ほどきで琉球美術史研究に入った鎌倉芳太郎(人間国宝)は「思うに(福井県)若狭はその地勢、畿内に接して摂津と表裏し(略)、古来日本海における外国貿易の起点となっていたが、十五世紀の初頭以来南蛮船も着船し、この地の代官も書をもって朝鮮国と通交しており、小浜から出て東シナ海に向かい、琉球に新しく出来た那覇港に、貿易物資(漆器)生産のための若狭の居留地が造成された」(『沖縄文化の遺宝』)と推定している。

飯倉照平氏(南方熊楠顕彰館)/2013年10月 飯倉照平『南方熊楠の説話学』勉誠出版


 本書『南方熊楠の説話学』にも、「『南方熊楠全集』の校訂をおわって」と題して「平凡社の池田敏雄さんが、そのころまだ代々木駅の近くにあった中国の会の事務所へたずねて来てくれたのは、たしか1969年のはじめごろ{正しくは4月}であったと思う。乾元社版の『南方熊楠全集』に手を加えて出したいが、誤植も少なくないと思われるので目を通してほしいこと、さらに引用されている漢文を読み下し文に直し、全体の表記も読みやすくしたいので手伝ってもらえないか、というのが用件であった。戦争中に『民俗台湾』という雑誌の編集をしていた池田さんから、わたしは中国の昔話や民俗学の本を借りたことがある。また、わたしが以前によその出版社で校正の仕事をしていたことも、依頼されたきっかけの一つになっていたかもしれない。」と「『南方熊楠全集』の校訂に携わるきっかけを書かれておられる。

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 2012年10月『熊楠WORKS』№40に飯倉照平さんが「『漫画』好きの伊東忠太」を記され中に「筆者は、平凡社の『南方熊楠』全集の校訂にたずさわる前に、前後10年近く歴史の復習を旨とする雑誌『中国』の編集を手伝っていた時期がある。」と、かつて私も愛読していた『中国』との関わりについてもふれておられる。同号には考古学者・森浩一氏の第22回南方熊楠賞授賞式も載っていた。


 飯倉照平氏は千葉県山武郡大網白里町に住んでおられる。氏の著の書評を2回、沖縄の新聞に書いた。2006年11月25日『沖縄タイムス』新城栄徳(書評)飯倉照平『南方熊楠ー梟のごとく黙座しおる』ミネルヴァ書房ー本書で著者が意を用いたのは、伝説化された熊楠をできるだけ排除するということである。しかし私は本書で新たな熊楠伝説を作りたい。それは麦門冬・末吉安恭と熊楠との交流である。著者は1993年から南方熊楠邸保存顕彰会の南方邸資料調査に参加。まもなく『南方熊楠ー森羅万象を見つめた少年』(岩波ジュニア新書)を書く。昨年春、13年にわたる共同作業を終え、その成果として2冊の目録を刊行し、本書がミネルヴァ日本評伝選の1冊となった。
 さて、南方熊楠、幼少のみぎりはじめて父に買ってもらったのは中村惕斎が編集した『訓蒙図彙』で江戸期の動植物の絵入り百科事典だという。熊楠はくりかえし読みすべての項目の名前と読み方をおぼえた。中学に入学する前後はさらに絵入りの百科事典『和漢三才図会』を天象類、異国人物、外夷人物の項目名をすべて書き写し、『本草綱目』『大和本草』も書き写した。熊楠は1886年12月、横浜出航の船でアメリカ留学に向かう。アメリカでは回覧新聞を発行したり、植物採集に没頭。92年、ロンドン大英博物館では洋書、中国書の希覯書から旅行記、地誌、性愛などを抜き書きしたという。
 本書に熊楠の異色の文通相手として紹介されているのが麦門冬・末吉安恭である。『日本及日本人』誌上に熊楠が登場しているのを知り、麦門冬は1917年に「劫の虫より経水」という短文で熊楠の文章に言及した。熊楠はこれを読んで「月経に関する旧説(末吉君に答う)」を雑誌に書いたが、長文で掲載されなかった。これを機に2人の文通がはじまる。
文通そのものは短期間であった。だが1919年、『日本及日本人』誌上で、麦門冬が「版摺職工のストライキ」を書けば熊楠が次号で「ストライキ」を麦門冬が立証したと書く。20年には、熊楠の「大本という神号」、麦門冬の「薩人の虐殺」と文章が並んでいる。誌上での熱っぽい丁丁発止の交流は、麦門冬が亡くなるまで続いていた。11月25日は麦門冬の命日「莫夢忌」であり、没後82年を数える。


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