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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


2008年5月 那覇市民ギャラリー「福沢一郎 挿絵原画展」
1963年から月刊誌『太陽』平凡社に掲載された記事の挿絵として福沢一郎が描いた34点を展示

福沢一郎ふくざわいちろう
[生]1898.1.18. 群馬,富岡[没]1992.10.16. 東京
洋画家。 1918年に東京大学文学部に入学したが,彫刻に興味をいだき退学,朝倉文夫の弟子となった。 23年『酔漢』で帝展初入選。 24年フランスに渡りヨーロッパ各地の古典絵画を見て回るうちに絵画への転向を決意した。 →コトバンク


2010年11月 板橋区立美術館『福沢一郎絵画研究所ー進め!日本のシュルレアリスム』
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若狭のレストラン宝楽で、従兄の玉寄貞一郎が副会長になったのもあって粟国郷友会新年会に参加した。
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会場のレストラン宝楽


開会に先立ち、おくなわプロジェクト推進協議会・沖縄タイムス主催「ふるさと元気応援企画」の一環として、2月13日~15日タイムスビルで開かれる「沖縄の奥、島の奥 おくなわの観光。物産と芸能フェアー粟国。渡名喜・南大東・北大東・多良間」の宣伝で、挨拶する沖縄タイムス社経営企画室の銘苅達夫室長(右)、小林剛主任。




幕開け「かぎやで風」伊佐ミサ子、天久清子





「民謡ショー」照喜名徹










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1965年5月 沖縄興信所(代表・大宜味朝徳)『琉球紳士録』「本土在住琉球紳士録」

写真左から宮島肇、新崎盛敏、大浜信泉/石川正通、宮城栄昌、一泉知永/外間寛、安良城盛昭、島茂彦

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1980年11月24日ー豊中市立婦人会館で開かれた南島史学会第9回研究大会。右手前2人目が安良城盛昭氏と牧野清氏、左端が喜舎場一隆氏同日、受付の永峰眞名さんに安良城盛昭氏を確認してもらう。大会終了後、安良城氏を都島の沖縄関係資料室まで案内。色々と歓談する。資料室で自著を見つけた安良城氏が本代を払いそれに署名献本した。このとき以来、理論嫌いな私でも沖縄出身の理論家については、これ傾聴に努めることにした。
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 渡久地政司/沖縄雑文録
身内のことを誉めるのは、気がきけますが、死後、何十年も経って、父「安良城盛雄」の偉大さを感じます。それは、「パルメニデス断片」という書を通じて感ずるのです。1942-3年(昭和17-18年)ころ、閑古鳥幻聴一家は、大連湾を挟んで、その北側に位置する「甘井子」地区に居住していました。
甘井子地区は、「昭和製鋼所」・「満州化学」・「満州石油」・南満洲鉄道」など・・・大企業が立ち並ぶ一大コンピナート地区でした。
1945年8月22日・・・だったと想いますが、高台にある甘井子・満洲石油の社宅からは、ソ連軍の双発飛行艇「コンソリデーテッド」数十機が大連湾上空を旋回、次々と着水するのが、望見されれました。それが、ソ連軍大連進駐の第一波だったのです。大連市は、阿鼻叫喚の地となったようです。歩行者は、次々と、腕時計を強奪されました。一般住宅も、大々的な略奪の対象になりました。一部の地区では、女性に対する暴行も盛大に行われました。それが、社会主義を標榜する「ソビエト社会主義共和国連邦」のファシスト国家に対する勝利の姿となったのです。その中で、甘井子地区では、各社宅の周辺に「プリカザーニェ」と題する命令の高札が高々と掲げられました。各戦略拠点工場とその従業員を断固として護ろうとする占領軍当局の配慮が働いたようです。お蔭て、閑古鳥幻聴一家も、なんの被害を蒙ることもなく、工場を管理する・・・監督官「メーゼンツェフ」・事務官「アンドリェーイ」・運転手「ニコラーイ」一家とも、極めて友好的な関係を維持、戦後の生活を享受、無事帰国しました。その根源的理由は、決して人道的・友好的関係という観念的なものではありません。技術・設備を背景にした、日本人の物的・知的 potential だったと想われます。
当時、「パルメニデス断片」を熟読していた、父・安良城盛雄は、意識してか・意識せずににか、その哲学的思索を基に、結果的に、国際政治の中における「石油」の重要性に着目、満洲国官吏から満洲石油株式会社幹部への道を選択・転進したものと想われます。
 昨今、国際的視野にたって、「友好的関係」が叫ばれていますが、観念的な友好関係なるものは、全く信用できないというのが、閑古鳥幻聴の哲学です。日本の将来は、「視界ゼロ」などと週刊誌で論評されている昨今ですが、視界はゼロではありません。閑古鳥幻聴としては、世界の中で、科学技術の最先端を極めること、これが、わが国最善の防衛策と考えているのです。閑古鳥は、現在、Cayley-Dickson construction なる概念に撮り憑かれ、鋭意、ソフトウェアの開発に尽力しておりますか、それは、国際政治の中におけるわが国の将来への指針と関連するものだと信じています。以上、お粗末な意見表明となりましたが、じッくりと、検討してみてください。なんらかの成果が得られると確信します。では、皆さん・・・お元気で・・・・・
                   閑古鳥幻聴 拝
2013年3月21日 
2013年6月20日更新
■ 生涯純情・偉才の人 安良城盛雄 ■
生涯純情・偉才の人 安良城盛雄 
-作品年表と記録者メモ-
  安良城盛雄―1896年(明治29)10月25日沖縄県那覇市首里赤平町で生まれる。1977年(昭和52)4月9日豊橋市で逝去、81歳。墓所・犬山市大字犬山字北白山平5-68 瑞泉寺別院、富岡霊苑3号地11番。 あらぐすく・せいゆう 改名後 あらき・もりお 
安良城盛雄作品(印刷物)中心に、本人メモ・手紙・ハガキについては限定し、少しコメントを加え紹介する。資料収集は、名古屋では渡久地、沖縄では仲村顕氏が主におこない、メモ・手紙・ハガキなど個人的資料は、安良城勝也氏(在横浜)からご提供いただいた。収集された資料は、最終的には、「沖縄歴史教育研究会・会員仲村顕」で保存される。      (記録者・渡久地政司/2007-10-末) 安良城盛雄(新京時代)
(はじめに)
最初に安良城盛雄が人生の晩年(1974年(昭和49)10月・盛雄78歳)に、体力の衰えと闘いながら出筆・まとめたであろう作品について紹介したい。
『琉球の貢献』―貢献した主体は琉球・沖縄人であり、恩恵を享受した客体は、日本政府・国民。この作品については、後にもふれるが、この作品を書きながら盛雄は「苛立っていた」のではないか、とわたしは推理する。それは、復帰前、日本政府やマスコミの一部に「沖縄を甘やかすな」発言があった。これに盛雄は、12項目の貢献例を挙げて猛反発した。そして、同時に沖縄の若者に対して、このように貢献しているのだから卑屈にならず、堂々と振舞い、新しい世界平和に希望をいだけ!と題する”詩”を『琉球の貢献』誌の裏表紙に掲載した。
●『琉球の貢献』印刷にあたって 後輩の若人たちに与える

1. きたへみなみへと     北へ南へ
おおうみをこえて     大海を越えて
われらがせんぞの     我等が先祖の
たてたわざよ       建てた偉業よ

2. うけついだちしほ     受けついだ血潮
われらはうみのこ     我等は海の子
きぼうにかがやき     希望に輝き
きばれともよ       気張れ友よ

3. ゆくてはひらけて     行手は開けて
みあげるくもみね     見上げる雲峰
せかいをひとつに     世界を一つに
へいわたてよ       平和建てよ

  (注) 七、五調としないで琉歌の八、八、八、六調とした。
     気張れとは琉球の威勢のよい語である
。      若人よ、この乱世にあって世界平和の希望をもて。
78歳とは思えない若々しい純情な詩だ。わたし(記録者)は、今年(2007年)70歳だが、とてもこのような清清しい詩、言葉を生み出すことができない。盛雄は『琉球の貢献』の12.沖縄戦による犠牲 を記述している。 …赤松船舶特攻隊長大尉は、…慶良間の住民に対し、食糧の半分を部隊に提供せしめ、家畜の屠殺を禁じ住民に手榴弾を与えたがこれは集団自決(赤松は自決を否定しているが)を強いるものではないか。伊江島から米艦によって2千名が慶良間諸島の渡嘉敷島へ送られて来たが、農作物は食いつくされた。そのうち女5人男1人が米軍に選ばれて赤松隊に降伏勧告に来たが敵に内通したものとして処刑された。赤松隊は沖縄戦終結後1カ月、八月十五日の終戦前の七月十九日に無条件降伏し、前記住民六名は即決で殺されたのに、赤松隊は隊長はじめ命拾いした。…

30余年前のこの記述は、「高校歴史教科書から沖縄戦・集団自決事件の削除問題」の核心に触れている。
前口上が長くなった。本論に入ろう。何を行った人なのか、を次ぎに列挙する。
1 何を行った人か
  ・ 上海・東亜同文書院に沖縄県費留学 
  ・ 愛知県下の産業調査・紹介、貿易指導、広報
  ・ 満州国官僚、調査と広報
  ・ 満州石油(株) 激動の国際石油市場に関わる
  ・ 敗戦後引揚  名古屋通産局
  ・ 民間会社 貿易担当
  ・ 沖縄・琉球の歴史研究
2 安良城家と盛雄の高等小学卒まで ~1916年(大正5)
   ● 『戦争前の安良城家屋敷絵図』(安良城勝也氏継承) 末尾に掲載。
● 『安良城家系図』(仲村 顕氏作成) 非公開。
● 『おばあさんの思い出』 盛雄直筆メモ。
●  参考資料『安良城盛昭先生追悼論集』P
219~221
● 『安良城勝也氏・メール』 2007-08-01 ● 『潯陽頭に於て』 1920年(大正9)「沖縄県立師範小学校40周年記念誌」 (再版の手書きコピー)。
 晩年、盛雄も先祖のことが気になった。そして、兄・安良城盛英や縁戚の岸秋正にも問い合わせた。そのハガキや手紙が残っている。 本人自身がメモ書きにした『おばあさんの思い出』を次に掲載する。
 『おばあさんの思い出』(「盛雄ファイル」)
  …お祖母さんは弘化元年(120代仁孝天皇1844)お祖父さんより一つ下であった。親泊家から嫁いで来た。名はゴゼ(グシー)(ゴゼに種々の意味があるが一番よい意味は貴婦人の尊敬語)、明治41年65歳でなくなった。僕の13歳の時である。家族の死にはじめて会った。悲しみを味わった。おばあさんはやせ形で(「文展」時老婦人像に似ていた)、裁縫が上手で、紀州ネルでシャツを作って貰ったことやそのネルの生地は大和の匂いがしたことを覚えている。おばあさんは煙草がすきで当時専売になってからは煙草に福寿草、あやめ、さつき、萩などがあったがさつきをよく吸っていた。煙草入れを宝蔵といって美しい端裂で木綿や絹の裏をつけて鎌手形に遂上げて正月に親戚や使用人に与えていた。きせるにヤニがたまると僕が掃除してあげた。細い竹で中をつついた後で、火箸できせるをはさんで直立させて吸い口から薬缶の湯を注いだ。おばあさんはめったに外出をしなかったが富川家、親泊家へ行く時は籠で行き、僕がきせると宝蔵をもってお供した。籠は竹のすだれがあって直径20センチ丸、 長さ3メートルくらいの棒で下男や出入りの人がかついだ。
 ゴゼ祖母の夫が安良城盛振(1843―?)、その子が盛雄の父・安良城盛能。長男は病死、その次男・安良城盛英(盛昭の父)が長男を継ぎ、次男が盛雄。三男・盛起。妹・恵美。ツル(嘉数家に嫁し、那覇市の市議に?)。みつ子。
盛能の妻(名前不詳)も親泊家から嫁入り。この老女について、安良城盛昭が詳しく話している(『安良城盛昭先生追悼論集』P219~221)。また、この老女は、盛雄の長男・勝也氏を2~5歳 (昭和4~7年) まで赤平町で育てた。
● 勝也氏からのメール(2007年8月1日)
…『新しい琉球史像』の中の祖母の姿…幼いころ見た毅然としたそのイメージがまざまざと想いだされます。小生は2~5歳の頃、首里赤平の屋敷でこの祖母に育てられたのです。祖母は、親泊家からきた人だそうで、盛昭の姉「真喜屋京子」は、「親泊の家系は、美人が多いのよ」といっていましたが、それもある程度は、納得できるところがありました。「やまとぅは、どっち?」という幼稚な問いに対して、背筋をすッと伸ばし、ゆっくりと腕を挙げ、黙って指し示す毅然とした面影は今でも鮮やかに蘇ります。藁か糸か、梁から下がった紐に、厳しい表情で結び目を付け加える姿をよく見かけました。文字が読めなかったのだということは、戴いた盛昭君の『新しい琉球史像』複写で初めて知り、結び目の意味がやっと分かりました。
 赤平の屋敷の裏は石畳が敷き詰められておりました。その石と石の隙間の草とりをよく見かけました。時には、薬缶の熱湯で除草することもありま した。忙しかったのでしょう。ご先祖のお墓参りにゆき、大勢の親類と弁当を食べた記憶もあります。きッちりと、日々の仕事をこなし、家を護ることができたら文字が読めないことなど大したことではないようにも思います。最も印象的だったのは、鶏の解体です。先ほどまで、走り回っていた「コケコッコ」が解体されて、部品ごとに整然と、庭先で天日干しされているのです。…
   明治36年、沖縄県立師範小学校に入学、「8か年の思い出」(高等小学校卒)を台湾、九江・潯陽頭から寄稿している。
 抜書きすると、  「…入学は区役所前…女学校と一緒…単級…正午には圓覚寺の鐘…2年生の時首里城に移転…あの瓢箪池は私達の時にできた…外間先生が受持ち…8年間の中頃、巡視当番…教生がヴァイオリンを弾いて聞かせてくれた…」
3 沖縄県立第一中学卒まで 1916年(大正5)

● 『夏』 1912年(大正元)「球陽」21号所載 
    …永ひらしく降った梅雨が、サラリと晴れて夏となった春の花があちこちに名残を止めて、草木が漸く新緑を装ふた、空がコバルトに彩られて白い白い大きな線の様な雲が湧き出て芭蕉や野椰子が午後の暑い風に、ザワザワすると夏の感が一層深く頭に滲む。…以下省略
● 『別れ』 1913年(大正2)「球陽」22号所載か? 未発見
ロマンチック青春小説「別れ」について  2007-10-2 勝也氏メール
盛雄の純情性は、この小説に端的に顕れていると感じています。この小説を、小生はある機会から、関東州甘井子時代、終戦後に始めて読んでいます。その最後の場面…友の乗る船が遠ざかるのを、波止場で、小雨の中、見送る筆者…その手にしっかりと握られるのは、友人から贈られた「ダンテの像」…その白い塑像もまた、雨に濡れて…この辺で、小説は大変な盛り上がりを見せ、小生はすっかり感心して、照れることもなく、激賞したのです。それまで、けなすことはあっても、親父を褒めることなど全くなかったのです。親父は、わが意を得たりの感じで、みるみる、顔面が紅潮、少年のような笑みが広がりました。 この小説については、まだまだ、書くことが多いのですが、一点だけ述べますと、この小説には、主人公のモデルがいたであろうということです。そのモデルの人物は、恐らく、県立首里第一中学校の盛雄の同級生…学籍簿があれば、同定できそうです。その友人は、親が事業に失敗、転校の原因となり、途中で転校した友人。転校ではなくて、退学かも知れません。この過程は、当時の琉球士族の相次ぐ事業失敗を裏書することから、現実性があります。想像を逞しくするならば、大変な美少年であったろうともいえます。一種の「やおい小説」のはしり…といえるかも知れません。安良城盛雄たちの青春讃歌が歌い上げられています。その絶唱は、兄の盛英もある程度共感、一緒に掲載誌を探したりしています。また、何年も経って、友人の「石川悌次郎さん」から、激賞されている点からも、この小説の背後には、あるグループに共有された青春体験があるものと推測されます。
この観点から、小生は、サント・ヴィクトワールを巡るセザンヌ・ゾラの愛憎・確執を想起します。セザンヌとゾラは、サント・ヴィクトワールにおいて、なんらかの青春体験を共有している…と睨んでいるのです。そうでなければ、あのセザンヌの執拗なサント・ヴィクトワール連作は理解できません。セザンヌが、世評に反し、大変な激情家であったことは、研究者の知るところです。
● 『水』  1915年(大正4)「学友会雑誌」24号所載
● 『御位御大典に対する感想』1916年(大正5)「学友会雑誌」25号所載
● 『卒業証書』 1916年(大正5)3月17日 第1018号
● 卒業後に投稿 『滬上鴻信』 1918年(大正7)(「養秀」27号所載)
後輩たちに、やや気張って、候文で…。
  拝啓 春尚浅く暗香匂ふ侯と相成候諸君は卒業試験前に控へ卒業後の方針を定むべく或は若き心を悩まされ候はずや我か過去を思ひ出て同情致し候実に考ふべきは我が将来に候故に小生はいささか本学書院の近況を述べて一部諸君の方針にヒントを与えんと存侯。…
4 上海東亜同文書院大学・第17期(1917~1920年)
安良城盛雄が沖縄県費留学生として上海の東亜同文書院大学で学んだ時期1917~1920年はどのような時代であったか。
5・4運動の渦中にいた。 ● 『5・4運動(1919年)の波紋』 1982年刊行(「東亜同文書院大学史」―創立80年周年記念誌・安良城盛雄没後に刊行された)
   熊野正平・安良城盛雄両人署名記事に次のものがある。 …二年生になった大正七年の十一月、上海では第一次欧州大戦の休戦祝賀のお祭り騒ぎがあり、書院の学生もデモ行進に参加した。 P456~7
しかし、ここには5・4運動に関係する記述はない。別人の署名記事P457には、…大正八年(1919)夏、…排日が激しくて(卒業大旅行)出発を見合わせ、翌九年(1920)の春まで延期…。
第1次大戦が終結(1917年)、ロシア革命(1917年)、5・4運動(1919年)を背景に国際都市・上海で多感な少年時代を過ごした。
  ● 『田島先生』(上・下)  1919年(大正8)11月22日・23日(「沖縄時事新報」)
…放浪山人の号を思ひ問合せて見ようかと思って発行所を見たら意外にも編集発行人として田島利三郎としてあったので僕は急に宝を見出した様に喜んだ。…漢口発行の「鶴涙」は週刊新聞で…「琉球に関する記憶」(1~19)…。
『おもろそうし』発掘の最大の功労者・田島利三郎の中国での消息を伝える。田島は1929年(昭和4)9月豊橋市で逝去、墓・豊橋市龍捻寺。安良城盛雄は1977年(昭和52)豊橋市で逝去。偶然にも同じ豊橋市が終焉の地であった。
● 『琉球の歴史は本土のそれより古い』 1972年(昭和47)同文書院17期卒業50周年記念誌・文集「春秋」所載。
戦後だが、同文書院関係としてここに掲載。
小見出しは次のとおり。
   はしがき、宝貝、うこん、明刀銭、隋書の流求国の言語に就いて、
五銖銭、開元通宝、安国山樹華木記、結語、
―余白埋め草―倭について、邪馬臺、中国観、マスコム。
  本文より抜粋
    ・ 結語―…琉球の歴史は、本土のそれより1千年以上も古い。
    ・ …三国時代に呉の孫権(AD252没)が討伐を計画した亶洲は琉球だと思う。流求の地名の初見は隋代…亶には、暑い、肌ぬぐの意味がある。
   『春秋』誌は、比嘉春潮にも署名入りで贈呈されていた。
● 『貿易地理学』 1962年(昭和37)4月7日 『滬友』所載。 戦後だが、同文書院関係として掲載。
  5 台湾銀行 1920年(大正9) ~1927年(台北、九江、嘉義) 7年
● 『潯陽頭に於て』 1920年(大正9)「沖縄県立師範小学校40周年記念誌」(再版)より。 ・ 明治36年師範学校付属小学校に入学し、8か年の思い出を台湾、九江・潯陽頭で書いた。台湾時代に書いた唯一の資料。
● 久志ツル(芙沙子)と結婚1922年(大正11)、長男・繁誕生1923年(大正12)、繁は2歳になるかならないうちに夭逝。
台湾銀行は、安良城盛雄が退職してまもなく深刻化した世界金融恐慌(1929年~)では、日本で最初に倒産した。
  6 名古屋市立貿易学校、中国語教師 1928年(昭和3年) 1年
同校は、昭和4年3月に廃校。先行きの見通しなく苦難の時期。
7 愛知県商品陳列所、1929年(昭和4)~1935年(昭和10)6年
 愛知県商品陳列所は、現在の「貿易センター」的機能の組織。建物
はモダンなビルで昭和天皇・皇后が視察した。
● 『愛知商工』(隔月誌) 誌編集
安良城盛雄署名の論文が毎回2~3本掲載されている。
「愛知県の対支貿易品」(5回)、「愛知県の陶磁器」(10回)、「愛知県の金属産業・印刷機械」、「愛知県の金属産業・機械器具」、「愛知県の金属産業・時計」、「愛知県の金属産業・航空機」、「愛知県の金属産業・織機」、「愛知県の金属産業・自転車」、「愛知県の実用商品学」(3回)、「愛知県の玩具製造業」(2回)、「商工業者と情報機関」、「満州に於ける商業機関」などを調査し紹介。 『愛知商工』の編集後記及び掲載文の空白に囲み記事、その多くが「安良城生」の署名が入っている。雑誌「中央公論」や「周樹人」などの引用もあり、「芸術としての書道」、「工芸教育について」、「Javaの訳字」、「愛知青年海外へ雄飛せよ」「日本精神」「織物博の開催を望む」、「鉄砲・日本刀・陶丸」、「支那における米」、「素質と努力の方法」 など多岐にわたって展開。100余点が確認されている。
どのくらい多忙であったか。
●『筆者(安良城)曰く』 1933年(昭和8)7月の囲み
本編(「愛知県の陶磁器」)も第5回迄書いて来ました。何しろ書きつつ編纂し、この「愛知商工」の外に「貿易通報」が月2回、之又書きつつ編纂し、外に英支文の翻訳、新商品の意匠、解説書の助言、作製、特許に対する助言、信用照会の斡旋、貿易実務の助成、展覧会等の事務で目の廻る様な多忙ですから、とても悠長に研究なんて出来ることではありません、定めし誤謬も多いことと思いますが他日訂正して、「愛知県の陶磁器」については何とか平易な解説を書き上げたいと思います。
● 『日本精神』1933年(昭和8)7月「愛知商工・かこみP13」
古い時代の日本精神は茶道を生んだ。そして現代の日本精神は1萬屯級巡洋艦『加古』を生んで世界一の海軍国家英国の出鼻をくじき 、又鉄道の能率化を実行してソヴートロシアに日本式を教えた。すべての大組織の下に行はれた日本精神の発露は成功している。日本が世界的にならうとするには先ずその方法、組織で研究しなければならぬ。(安良城生)
● 『芸術としての書道』1934年(昭和9年)「愛知商工」11月号・目次の裏側 全面記事 美的感情の表現が美術であるならば、書道又美術ではないか。西洋のペンマンシップが美術に加へられないからといって、我が書道が美術でないと断ずる訳には行くまい。 漢字系民族には特殊の書道美術壇を持って居る。刀剣が帝展に出品されていると同様に書も亦それに加へられなければならないぬ。 それは所謂「非常時」が與へた善き教訓の1つに算へてよいとおもふ。(安良城生)
● 『愛知商工』165号~169号、170号欠ける、171号~172号、173号~184号まで欠ける、185号~195号まで「愛知県公文書館所蔵」。176号~184号まで「富山大学図書館所蔵」。
また、開局まもないラジオ放送にも出演している。
●『家庭と陶磁器』 NHK-CK 1933年(昭和8)7月4日。(『愛知商工』188 号掲載)
安良城勝也氏は、満州国時代、放送局の一室で、大きなマイクロフォーンを前に、デスクに向かっている盛雄の写真が存在した、と語っている。
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Posted by: ryubun02


2015年1月7日~3月18日 那覇市歴史博物館「年の始めの錦絵展 Part2 ~琉球でみる江戸文化の華~」


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1988-2-19『週刊レキオ』/新城栄徳と沖縄タイムス出版部の共編による『沖縄近代文芸作品集』
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「アルバム 麦門冬と正忠ー近代沖縄文壇の二大山脈ー」5
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□この本で唯一写真が無かった摩文仁朝信が2013年、野々村孝男氏によって発掘された。


『沖縄近代文芸作品集』の書評ー松本三益/岡本恵徳


1994年3月 松本三益『自叙』(非売品)
○山城正忠さんと第一回普選 忘れがたい人びとー沖縄近代文芸作品集を読んでー沖縄近代文芸作品集が「新沖縄文学91別冊」として沖縄タイムス社から発行された。私たちの目にふれない作品がたくさん掲載されている。巻頭にはめずらしい写真が収録され、先輩、親しかった方々、面識のある知人が20人近いのでなつかしい思いで読んでいる。とくに目を引くのは第一次世界大戦後の大正デモクラシーの影響を受けたと思われる社会主義者、進歩的な人々がこんな作品を書いていたのかと意外の感を深くしている。当時は、共産主義と無政府主義の同居時代で、共産主義者も無政府主義者の大杉栄も世間では「社会主義者」と呼んでいた。これらの人々のなかには変節して反動反共になったり、脱落した人もいるが、敗戦後は共産党員として活動している人もすくなくない。とくに近代史研究家の新城栄徳氏が参加して発掘し、紹介している「略年表」は貴重な資料だと思う。これらの人びとの中で忘れがたいエピソードを紹介したい。

1928年、最初の普通選挙に沖縄から無産者新聞記者の井之口正雄氏が立候補した。立候補の供託金は2千円だった。みんなが努力したが、立候補締め切り一週間近くなっても3百円不足した。しかたなく、山城正忠氏(書家・歌人)に頼んで夫人に内緒で3百円を借りた。票が足りなくて供託金を没収されると困るので、正忠さんは開票結果を知るため、選挙本部の大工組合事務所と琉球新聞社を深夜まで往復された。一週間の選挙運動であったが、那覇市では漢那憲和少将につぐ2位となり、供託金は没収されなかった。正忠氏の笑顔がいまも忘れられない。

そんな経験を教訓に、2回目の供託金は東京で調達することになり、八幡一郎氏にハワイへ募金運動にいって貰った。それを目当てにして「戦旗」に山田有幹氏の立候補を発表した。そのために山田さんは、選挙中検挙された。そこで獄中非合法候補となり、私は選挙オルグとして帰郷した。結果は六百四十四票獲得し、福岡県から立候補した徳田球一氏より上位だった。しかし、共産党の得票は途中、発表禁止になったので正確な数字はいまもわからない。


2003年5月 岡本恵徳・高橋敏夫 編『沖縄文学選ー日本文学のエッジからの問い』勉誠出版

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Posted by: ryubun02


雑誌『おきなわ』第2号に「ハガキ回答ー出郷の日」に宮城聡と共にレッドパージ①直前の松本三益の回答がある「1、大正10年4月頃/1、多分大球丸/1、出稼のため/1、とにかく勉強したい/失業少年」。

雑誌『おきなわ』第3号には松本の親族の真栄田勝朗「琉球芝居の思い出(中座の巻)」が載っている。私は註に「著に『琉球芝居物語』(青磁社、1981)。戦前、大阪で『大阪球陽新報』発行、伊波冬子は妹」と記した。

①レッドパージ(red purge)ー1950年5月3日、マッカーサーは日本共産党の非合法化を示唆し、5月30日には皇居前広場において日本共産党指揮下の大衆と占領軍が衝突(人民広場事件)、6月6日に徳田球一ほか日本共産党中央委員24人、及び機関紙「アカハタ」幹部といわれた人物を公職追放、アカハタを停刊処分にした。同年7月には9人の共産党幹部について団体等規正令に基づく政府の出頭命令を拒否したとして団体等規正令違反容疑で逮捕状が出た(逮捕状が出た9人の共産党幹部は地下潜行し、一部は中国に亡命した)。こうした流れのなかで、7月以降はGHQの勧告及び、9月の日本政府の閣議決定により、報道機関や官公庁や教育機関や大企業などでも共産系の追放(退職)が行われていった(なお、銀行業界では共産系の追放が最小限度に留まった例や、大学では共産系の追放が殆ど行われなかった例もあった)。

当時の日本共産党は1月のコミンフォルム批判(平和革命論を否定)により、徳田を中心とする「所感派」と宮本顕治を中心とする「国際派」に分裂した状態だったこともあり、組織的な抵抗もほとんどみられなかった。この間の6月25日には朝鮮戦争が勃発し、「共産主義の脅威」が公然と語られるようになった。→ウィキペディア

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1977年5月 雑誌『青い海』63号 上運天研成「サイパン島の最大の激戦地に眠る同胞へ」




2014年1月4日 沖縄県立博物館・美術館 上運天研成氏とおもちゃの会ピノキオ「トコトコ歩くひつじのおもちゃづくり」

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自宅(泊)屋上のソテツ


2014年月11月30日『新報小中学生新聞ーりゅうPON!』島袋百恵 絵「琉球の測量技術」


2014年月10月5日『新報小中学生新聞ーりゅうPON!』島袋百恵 絵「壺屋焼」

2014年7月 倉成多郎『壺屋焼入門』ボーダーインク


2014年6月14日ー写真左から岡本亜紀さん(浦添美術館)、粟国恭子さん(沖縄県立芸術大学附属研究所共同研究員)、倉成多郎氏(壺屋焼物博物館)、新城栄徳

諸見民芸館創立40周年記念 収蔵名品展ポスター

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沖縄県立博物館・美術館エントランスホール 沖縄県立芸術大学琉球芸能専攻学生有志「新春の舞」




 野球(山田有登と石垣長夫)
 写真家の山田實さんの所で『沖縄県高校野球五十年史』(沖縄県高校学校野球連盟1972年5月)を見た。沖縄に「野球が伝わったのは」のところに1894年に沖縄中学の学生たちが京都に就学旅行したおり、京都三高の学生から野球の遊び方の説明」を受け、野球用具も土産にもちかえった話がある。また山田有登氏(山田實さんの父)がアメリカの水兵たちと野球をしたこと、昭和3年の二中の山田有勝(山田實さんの兄)左翼、国場幸輝三塁の名前も出て来る。→1995年6月ー『沖縄野球100年』琉球新報社
□1964年、沖縄で山田有登追悼会(日本基督教会・比嘉盛仁牧師)の香奠返しを、沖縄タイムス運動部長・国場幸輝を通じて沖縄社会人野球会に毎年打撃優秀賞に5万円贈った。10年間続いた。香奠は愛楽園にも贈られた。

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