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彼岸明けで紙銭<ウチカビ>を焼く(先祖供養)ー古銭収集家の翁長良明さんによれば、ウチカビは鳩目銭50枚で寛永通宝1枚になるという。


2019年4月7日


2013-8-8自宅屋上

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さやか、金城安太郎さん/12月27日ー新城喜一さん、ひより

金城 安太郎(きんじょう やすたろう)は、昭和初期から沖縄で活動した日本画家で、特に米国統治下、琉球政府時代の沖縄における新聞連載小説や雑誌などの挿絵によって知られ、「沖縄最初の挿絵画家」と評された。→ウィキ

新城喜一氏は「世界館」(1950年開館)で看板絵師となり、後に1955年「国映館」として新装開店した時も引き続き看板絵師として腕を振るった。その後、国立劇場おきなわの風景画を作成したり、舞台芸術作成者として活躍した。→那覇まちま~い


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新城喜一 那覇市松尾2-23-19 電話098-863-9564

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世持橋

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東苑から弁ヶ岳を望む

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崇元寺橋
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軽便鉄道の与那原駅

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村のクムイ

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安里川を渡る嘉手納線

5月8日、パレットのギャラリーで新城喜一氏に出会う。野津氏の画集の話をすると、早速リブロで新城氏は画集を購入していた。



□2012年3月 『野津唯市画集ー懐かしい未来 沖縄』球陽出版



1930年代の泊高橋・円覚寺


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12/01: 新生美術

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1984年8月 『新生美術』<特集・玉那覇正吉>
1987年5月 『新生美術』6号□新城栄徳「『浦崎永錫画伯』美術史を語る」
1988年5月 『新生美術』7号<特集・大嶺政寛 追悼アルバム>
1990年5月 『新生美術』8/9合併号<特集・山里永吉・豊平良顕・宮城孝也
1992年6月 『新生美術』10号<追慕・山元恵一・山田昌弘・浦崎永錫>
 
        □新城栄徳「浦崎永錫ー美を追求する人」
1996年3月 『新生美術』11号<特集・安次嶺金正の画業を偲ぶ>
2001年3月 『新生美術』12号<特集・追悼 思い出 アルバムー具志堅聖児・金城安太郎・大嶺政敏・大嶺信一・宮良信成>
         □新城栄徳「金城安太郎さん」
2004年9月 『新生美術』13号<特集・比嘉景常・島田寛平・南風原朝光・名渡山愛順・大城皓也・宮城健盛・安谷屋正義・新川唯盛・仲嶺康輝・山之端一博>





知念亀千代(1899年4月19日~1991年2月9日)
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島袋和幸『沖縄の軌跡』84号□東京都葛飾区四つ木4-18-10 電話03-3695-9276

知念亀千代「履歴書」
1988年12月 知念亀千代『生命の行先』(沖縄県立図書館所蔵)
1991年2月11日『琉球新報』
知念亀千代(ちねん・かめちよ=洋画家)9日午前零時10分、胃かいようのため埼玉県川口市の川口市民病院で死去、91歳。南風原町出身。自宅は川口市元郷1-18-3.告別式は12日午後零時半から東京都板橋区舟渡4-15-1、戸田葬祭場で。喪主は妻二三子(ふみこ)さん。二科会所属。日展7回、二科会23回各入選。

2012年7月10日『沖縄の軌跡』86号「画家・浦崎永錫
」 島袋和幸 〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952



星雅彦氏と新城栄徳/2014年2月5日 星雅彦氏



1981年4月 福井県立美術館「堀田清治 大回顧展」
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昭和53年6月『美の沖縄』琉球新報社

□1941年11月来沖ー堀田清治(日展参与・新槐樹社代表)
堀田清治 ほった-せいじ
1898-1984 大正-昭和時代の洋画家。
明治31年12月6日生まれ。東京で高間惣七にまなび,大正11年故郷福井の北荘画会の創立にくわわる。15年帝展初入選。昭和8年「炭坑夫」で特選。33年新槐樹社を創立。はじめははたらく人々を,のちに「磨崖不動」など仏像をおおくかいた。昭和59年2月17日死去。85歳。福井中学卒。(→コトバンク)

沖縄県立図書館に堀田清治画伯の「磨崖威徳明王」F150号が展示されている。画伯は戦前1941年の沖縄取材をもとに守礼門などを戦後に描いている。


1980年4月 沖縄の雑誌『青い海』92号「青い海ギャラリー/大浜佳津子ーパビョン・ドゥ・アゼール・リドゥ」
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1996年3月 大浜佳津子『水辺の春ーフランスの古い橋やムーランなど』築地書館

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2017年8月10日 ひより首里城見物/左の「中山世土」は清朝第4代皇帝康熙帝の扁額(復元)。「中山は代々、琉球国王の国である」と書かれている。


2017年8月8日 沖縄県立博物館・美術館『水族館でも出会えない!海のビックリ生物展』入場者1万人達成

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2016年8月15日 美栄橋駅 右上にジュンク堂書店の看板が見える

2016年8月15日(今日オキナワは旧盆ウンケー。ヤマトは敗戦忌。ヤマトの重大なエポックの日のはずだが休日ではない それにしても戦勝国アメリカ軍基地の今なお増殖活発のオキナワ アメリカ軍基地維持費は何故かヤマトの負担 辺野古新基地には大手ゼネコン) 美栄橋駅


2016-10-28 前島から中の橋方面を望む。手前で工事中

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2010年12月28日ーついでに、嘉手納まで散歩すると「知花たたみ店」(代表者・知花久明 〒904-0203 嘉手納町字嘉手納463-13-新町2号館106号 ☎098-956-2601 携帯090-1870-4104)があった。そこの名刺には漫画で似顔絵が描かれている。妻の末妹の夫の名刺「テシオ学習塾」(塾長・具志堅盛次 〒905-0401 今帰仁村仲宗根177 ☎0980-56-4186)にも漫画の似顔絵があった。

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2015年10月10日『琉球新報』「大綱挽に平和願いー渡口彦邦さん」










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本日の『沖縄タイムス』『琉球新報』は昨日の名護市辺野古での「新基地反対」の県民集会を報じていた。今まで、普天間から基地を「辺野古移設」と矮小化して表示したものが、はっきりと「新基地反対」と明記したのはいいが「反対」というのも矮小化である。日米両政府や仲井真県政は「賛成」で同列に扱っている。ここは自然破壊「地球破壊」に反対するものか、賛成かというふうに表現すべきであろう。


2012年9月 来間泰男『沖縄の米軍基地と軍用地料』(がじゅまるブックス4) 定価(本体900円+税)榕樹書林☏098-893-4076 FAX098-893-6708

□今日の沖縄の、最大の社会的経済的病根は、基地を維持し、米軍基地容認派を生成する為に、軍用地料を肥大化させてきたことに大きく起因する。ここから派生した社会的不平等の拡大は、今や沖縄特有の社会問題として様々な現象を生み出しているが、これまでこの問題は居酒屋談義で終わっていた。

著者は戦後日本における米軍基地建設から、米軍直接支配下の沖縄での基地建設、そして復帰後の日本政府による「思いやり予算」による米軍基地の維持政策とたどりながら、軍用地料の肥大化の変遷を見据え、それが社会にどの様な影響を与えてきたのかを、経済学的分析をもとに明らかにしていく。沖縄社会の内部から沖縄を変えていこうとする大きな挑戦の本である。


2014年12月 来間泰男『琉球王国の成立ー日本の中世後期と琉球中世前期』上・下 日本経済評論社
上巻
第1章 天皇権力の復活と内乱(14世紀)
第2章 「舜天王統」と「英祖王統」(12~14世紀)
第3章 倭寇の時代(14~15世紀)
第4章 三山の分立と抗争(14世紀)

下巻
第5章 琉球王国の成立(14世紀後半)
7 高良倉吉「画期的な琉球王国」論(1991年)
○高良は「古琉球期になると、王国形成という独自の主体的な息吹を反映して自前の記録を作成するようになり、同時にまた、海外諸国との外交・貿易活動の結果として外国側の文献にその姿が正確に記されるようになる」という。しかしながら、「自前の記録」のそれぞれの初出年代は、『おもろさうし』は1531年、『歴代宝案』は1424年、碑文は1427年、辞令書は1548年であり、これらに対して、「外国側の文献」である『明実録』『高麗史』『李朝実録』は「自前の記録」より先行している。平板に列挙することによって、前後関係を無視しているといえる。『おもろさうし』と辞令書は新しすぎるが、1420年代の、最古の碑文「安国山樹華木記碑」を建てたのは中国人の懐機であり、他方の『歴代宝案』も在沖中国人が記したものである。

○琉球王国なるものは、14世紀半ばに琉球に在住し、または琉球を一つの拠点として内外の交易に従事していた人びと(中国人、朝鮮人、日本人)が、したがってその中には倭寇的な人々も含むが、明の海禁政策に直面して、その対応策として立ち上げたものであった。その主体は、琉球人ではなく明国そのもの、ないしは中国人だと考えられる。そのために、初期の琉球王国の政治は中国人が主要な役割を果たしていたのである。それは、高良のいうような「主体的な息吹」とはほど遠いものであった。

来間泰男『稲作の起源・伝来と”海上の道”』日本経済評論社

本書で著者がいう「この本は、私の心意気としては、沖縄の歴史(通史)執筆の準備作業である」とし「私は、日本と沖縄、日本人と沖縄人という用語法を採用している。もちろん、沖縄は歴史のある時点から『日本国の一員』であり、今もそうであるが、そこに至る歴史はずいぶんと長い間、別々の道を歩んでいた。その一つとしての『沖縄史』を読み解こうというのであるから、沖縄/沖縄人となるのである」とする。

私は本書を観て1970年に出た新里恵二『沖縄史を考える』を思い出した。また1974年に大城立裕・新里恵二編集で出た雑誌『沖縄思潮』も思い出した。来間氏は同雑誌の編集委員でもあった。私も少ない知識を絞って本書を読み解きたいと思っている。


第6章 守護大名の成長(15世紀前半)
補章  沖縄の旧石器時代

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西表



石垣川平




石垣





竹富




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