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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

東京都のフリーカメラマン戸澤裕司さん(48)が、粟国島出身で2005年に亡くなった仲里チヨさんに20年近く寄り添った写真展「カジマヤー(風車祝い)~島人をめぐる断章~」を5日まで那覇市民ギャラリーで開いている=写真。チヨさんのカジマヤー(97歳のお祝い)から死、風葬、洗骨を経て夫と同じ厨子(ずし)甕(がめ)に入るまで撮影した54点を展示。「洗骨の儀式を撮影し、これが死との正しい向き合い方だと思った。失われつつある風習を感じてほしい」と話している。1980年代、雑誌の取材で来県した戸澤さんがチヨさんと同居する7男正雄さん(65)と知り合い、家を訪ねるほど親しくなった。作品は、那覇市内の狭小なバラック屋で2人を撮影した90年ごろの写真で始まり、カジマヤー祝い、粟国への40年ぶりの帰島、粟国での葬式、風葬、洗骨の儀式と時系列に並んでいる。正雄さんに信頼され、葬式、洗骨に招かれた戸澤さんだが「撮影するのは腰がひけたが、逆に島の人たちに、記録してほしいと背中を押された」という。撮影時は東日本大震災の取材直後で、精神的にもつらかったが「親族が生前と同じように骨をなでるのを見て救われた気がした。本来の人間の最期だ」と感じたという。
2013年5月1日『沖縄タイムス』
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2013年4月30日

写真左から大城弘明氏、国吉和夫氏、戸澤裕司氏

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1972年4月 沖縄の雑誌『青い海』5月号 一泉知永「燃ゆる眼・闇をつらぬく眼」

一泉知永(旧姓・嘉手納)明治大学教授・日本生活文化史学会副会長
1923年4月25日 那覇市に生まれる

1965年5月 沖縄興信所(代表・大宜味朝徳)『琉球紳士録』「本土在住琉球紳士録」

写真左から宮島肇、新崎盛敏、大浜信泉/石川正通、宮城栄昌、一泉知永/外間寛、安良城盛昭、島茂彦

 
1971年1月『サンデーおきなわ』「沖縄人国記ー明治大学教授 一泉知永」



2004年7月1日『琉球新報』一泉知永「言葉にみるー沖縄文化の原像」〇沖縄は古来「日本の中の沖縄」であったであろうか。これは、単に過去のことではなく、巨大軍事基地をかかえさせられている現代・現在の問題でもある。数年前のNHKのドラマ「琉球の風」が全く期待はずれでつまらなかったのも、沖縄の政治的危機にあたって中国派と日本派の対立は画(か)かれても、肝心の琉球王朝の主体的姿は全く影が薄かったからである。あれでは、琉球王朝は日中にはさまれたピエロである。

 明治大学名誉教授の一泉知永(いちいずみ・ちえい)さんが15日午後5時34分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。81歳。那覇市出身。自宅は東京都杉並区和泉2-27-8。通夜は19日午後6時から、告別式は20日午前11時から杉並区永福1-8-1の築地本願寺和田堀廟所で。喪主は妻知榮子(ちえこ)さん。一泉さんは1923年、那覇市泉崎の生まれ。41年に県立二中、49年に明治大学を卒業し、証券会社勤務を経て、53年に同大助手となり、研究者の道を歩んできた。専門は金融論と文化史で、著書に「証券市場論」「金融論」などがある。近年は沖縄方言や日本語の語源にも関心を広げていた。→2005年1月17日『琉球新報』

 2016-9『明治大学広報』第695号(1975年 商学部卒)一泉 知由ー私は、1975年に商学部を卒業し、東京海上火災保険(当時)に入社、33年3ヶ月勤務後、2008年7月に依願退職し、日本ゼネラルフードという給食事業の会社に転職しました。現在、1万人の従業員が、企業、病院、老人施設、学校などに毎日約35万食の食事を提供する会社の副社長をしています。 私を今の会社に強烈に誘ってくれた西脇司(にしわきつかさ)社長(明治大学校友会愛知県支部長)は、明治大学付属明治高等学校の同級生です。15歳から大学を卒業するまで、共に学び、遊んだ仲間と、卒業して33年後に、同じ会社で働くことになるとは、とても不思議な縁を感じています。(以下略)

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濱川榮松副会長の開会、上原小一会長のあいさつで会が始まった。活動報告、決算報告。

懇親会

新城静喜村長の祝辞

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糸洲照雄・野村流伝統音楽協会師範の乾杯の音頭。


幕開けは古典音楽/玉城シズ子さん、嶺井政順氏、糸洲照雄氏、新城清弘氏、糸洲一雄氏


かぎやで風


伊良皆賢哲・粟国村教育長「あいさつ」




太田勝子「むんじゅるー」



新城清弘「独唱」



護の会「寿、恋ぬ花」



護の会「谷茶前」

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護の会「うりずん」


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糸洲照雄氏と新城静喜・村長

最後の方で、郷友の仲里正雄氏により戸澤裕司氏の写真展の案内があった。null
 
上原小一・郷友会長と戸澤裕司氏


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糸数信一・32代郷友会長と戸澤裕司氏


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5月11日莫夢生「青すだれー清明上河図と日章旗(4)」



▲問題は日章旗に移って行くが、仇英の清明上河図の原本は宋の張択端のそれである。然らば支那の日章旗を初めて用ひたのは、明時代でなくて宋時代であると云ふことも、明瞭になったのである。更に私は張択端のことを調べる為めに画論画史を猟って見たら、明の董玄宰の画禅室随筆に端なくもそれを見出した。  張択端が清明上河図、皆南宋時、 京の景物を追慕せしも にして、西方美人の思あり、筆法の繊細なる、亦季昭 に近きか、惜むらくは骨力乏しきのみ
張択端に就いてはこの外に書いたものは見ないが、清明上河図は南宋 京の景物を追慕せしものだと云ふことがわかり、日章旗もその時のものであると云ことだけは明瞭になった。而して桜田氏は日章旗に就いては、前に西村天囚氏にが書いたものに、島津斉彬公が船印に用ひられたのが抑も初めであると記してあったのを、憶えていると云ひ、若し斉彬公が用ひられた事実がありとすれば、我帝国の日章旗は、この明時代の日章旗と没交渉のものではあるまいと云った。
▲清明上河図の日章旗は南宋のものであって、明時代のものではない。或は明時代にもあったかは知らないが、島津斉彬が日章旗を船印に用ひたのは、私は琉球から行ったものではないかと疑ふのである。琉球の船に日章旗を用ひたことはこれまた船舶の図がそれを証する。那覇市役所にある首里那覇の図及び浦添朝顕氏の蔵する同じ図等にも日章旗がある。


國立故宮博物院

5月14日『沖縄タイムス』莫夢生「青すだれー東西刺客観」

1923年5月 『沖縄タイムス』莫夢生「青すだれー東西刺客観」
○在独逸の高田義一郎氏が日本及日本人に感想を寄せられたのを見ると、「日本の刺客は皆申し合わせたように斬姦状を懐にして理由を明らかにし名を名乗って先ず自分の身体を投げ出してかかっている。」「西洋の刺客は辻斬り強盗のそれと同じ・・・」

1922年10月 『沖縄タイムス』莫夢生「雨絲風片ー琉儒と道教」
○李鼎元の使琉球記を読んでー沖縄には道教の寺はない。即ち支那にあるような道観、道士こそなけれ、道家の思想は早くからあったのである。○唐御竈、他に天妃、関帝王、文昌帝君、土地君などは道教の神様。久米の学者先生達は支那伝来の天妃廟を敬すること孔子廟同様である。○道教思想のあらわれとして、現世的因果応報の最も面白い例は、私は組踊の孝行巻に於いてこれを発見する。

○蔡温はまた蓑翁片言の中にも弁妄を試みている。○東汀随筆を仔細に見ると翁は矢張り道教的思想が深く頭脳にこびりついて離れなかった人・・・○これは蔡温が程順則への書簡、これに依ると流石の順則も積もる身の不幸に対し、哀悼尤怒の意なき能わなかったようである。

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「アメリカ軍基地と沖縄経済―歴史のなかで考える―」
基地がなくなると、沖縄経済は困るのか。それとも、かえって気になるのか。基地がなくなると困るからという理由で基地の返還に消極的になり、基地がなくなると経済がよくなるからという理由で基地の返還に賛成するという、そういうことでいいのだろうか。また、沖縄経済は「基地経済」だといわれてきたが、今もそうなのか。沖縄経済とアメリカ軍基地との関係を、戦前・アメリカ軍占領下・日本復帰後と変遷してきた歴史をたどりながら、じっくり考えます。そして、沖縄経済の「自立」とは何か。いつまでも「自立」できないのは、政策・政治が悪いからなのか。それとも、沖縄経済の体質の問題なのか。




写真左から新城栄徳、武石和実氏、来間泰男講師


「スタジオジブリ・レイアウト展」関連催事ーエントランスコンサート
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偶清人觀奕道人筆記消夏録を読みたるに載する所幾多の怪亊異聞、消夏の読物として、一寸面白ければ、茲に其内より選び抜きて譯載することとしつ、読者幸に一読を賜へ・・・・・


■中国怪奇小説集 閲微草堂筆記(清) 岡本綺堂 「わたくしは最後に『閲微草堂筆記』を受持つことになりましたが、これは前の『子不語』にまさる大物で、作者は観奕道人と署名してありますが、(略)号を暁嵐といい、乾隆時代の進士で、協弁大学士に進み、官選の四庫全書を作る時には編集総裁に挙げられ、学者として、詩人として知られて居ります。死して文達公と諡されましたので、普通に紀文達とも申します。 この著作は一度に脱稿したものではなく、最初に『  鎖夏録』六巻を編み、次に『如是我聞』四巻、次に『槐西雑誌』四巻、次に『姑妄聴之』四巻、『 陽続録』六巻を編み、あわせて二十四巻に及んだものを集成して、『閲微草堂筆記』の名を冠らせたのでありまして、実に一千二百八十二種の奇事異聞を蒐録してあるのですから、とても一朝一夕に説き尽くされるわけのものではありません。
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1913年8月 『沖縄毎日新聞』襄哉(末吉安恭)譯「怪亊異聞消夏録」偶清人觀奕道人筆記消夏録を読みたるに載する所幾多の怪亊異聞、消夏の読物として、一寸面白ければ、茲に其内より選び抜きて譯載することとしつ、読者幸に一読を賜へ・・・・・
■中国怪奇小説集 閲微草堂筆記(清) 岡本綺堂 「わたくしは最後に『閲微草堂筆記』を受持つことになりましたが、これは前の『子不語』にまさる大物で、作者は観奕道人と署名してありますが、(略)号を暁嵐といい、乾隆時代の進士で、協弁大学士に進み、官選の四庫全書を作る時には編集総裁に挙げられ、学者として、詩人として知られて居ります。死して文達公と諡されましたので、普通に紀文達とも申します。
 この著作は一度に脱稿したものではなく、最初に『鎖夏録』六巻を編み、次に『如是我聞』四巻、次に『槐西雑誌』四巻、次に『姑妄聴之』四巻、『陽続録』六巻を編み、あわせて二十四巻に及んだものを集成して、『閲微草堂筆記』の名を冠らせたのでありまして、実に一千二百八十二種の奇事異聞を蒐録してあるのですから、とても一朝一夕に説き尽くされるわけのものではありません
■15世紀に書かれた漢文小説の短編集「金鰲新話」の中の「李生窺墻傳」のヒロインも、パンソリで有名な「春香傳」のヒロインも、具体的な現実との対決を躊躇しない、どんな困難にもめげないすばらしく強い女性として描かれている。→「朝鮮の古い物語に描かれた女性像(上)/朴※(※=王偏に旬)愛」

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1983年8月『琉球新報』新城栄徳「落ち穂ーオキナワの少年」
東京時代の座右の書

 左の本の表紙の「さざれ石」写真を見て京都のさざれ石を見た。→日本国歌にうたわれている「さざれ石」とは、ちいさな石という意味です。さざれ石は年とともに大きく成長し、岩になると信じられている神霊の宿る石です。 国歌の原典は「古今和歌集」にも詠まれた生き石伝説「さざれ石」です。下鴨神社の「鴨の七不思議」の中に、「泉川の浮き石」や「御手洗の神石」伝承が残っており、石に宿る神聖な力をを現しています

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 1974年8月『山口組時報』「田岡家(本家)令息満氏 華麗なる華燭の典」
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□約700名の来賓、一部を紹介してみたい。政財界ー石井一、中山正暉、五島昇、松村正直、佐々木慎太郎、中井一夫、松尾国三。
会社関係ー岡田茂(東映社長)、川辺正夫(松竹副社長)、徳間康快その他。
作家・タレントー川内康範、飯干晃一、小池一雄、俊藤浩滋(東映プロデューサー)、鶴田浩二、高倉健、勝新太郎、中村玉緒、寺島純子、梅宮辰夫、ビクトリア、待田京介、伴淳三郎、清川虹子、五木ひろし、渚ゆうこ、天中軒雲月、大村崑、西郷輝彦、山口洋子、吉村道明、沢村忠。なお、元首相、岸信介氏他各界知名士多数より祝電があり、司会者より披露されたことを、最後に付記しておきます。(小田秀臣・山口組時報編集責任者・記)
 私は東大阪の布施駅ちかくに住んでいた。通り道の鶴橋駅を7時ごろ散策のおり小田秀総業の2階でボヤ騒ぎがあり、パトカーが無線で「親分(小田秀)と、子分8人がいる」と喋っていた。その小田秀組長は怒号し子分をどやし続けていた。すぐ目の前だったが火はすぐ収まった。小田秀組長は『山口組時報』の編集責任であった。かつて佐野真一氏も『山口組時報』の編集に誘われていた、と本人が書いている。
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大阪・小田秀組総本部、1980年ー八興建設(瀬川清社長)が2億4、000万円で請け負う
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1975年1月『山口組時報』
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左・大正区平尾にあった山口組内嘉陽組事務所。後に難波に移る・右
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山本健一を中心とした3代目山口組組織図□田岡組長の写真は粟国出身者が多い大阪天六の市場にあった金田組事務所に飾っていたもの、この組事務所は窓が空きっぱなしで組員がいつも不在であった。

山本健一初代山健組組長(バックの扁額は頭山満の書)
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初代山健組組織図
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写真ー1977年6月ー徳島・勝浦会2代目襲名、左から諏訪健治、勝浦隆司、松浦一雄、図越利一、山本健一
 通勤電車の近鉄線から山本健一組長の入院している大阪市生野区の今里胃腸病院の看板がよく見えた。山本組長は1982年2月4日に肝硬変に腎不全を併発して死去。関西の夕刊紙ではいつも病状を伝えていたので病院の看板が見える毎に思い出していた。

神戸大嶋組の四天王の一人と言われた本多が、1938年豪雨にみまわれた神戸の河川工事を行い本多組を立て1940年に大嶋組から独立、本多組を結成。本多組は倉庫業、湾岸荷役業をシノギとしており「ミナトの六人衆」と呼ばれるようになる。ダイエーの中内功会長も闇市で活動していた当時を回顧し、「本多さんは大親分だったですよ」と証言している。 二代目本多会の時代まで所属していた最後の若衆であった四国の竹形の逝去とで本多会を支えていた者達はほぼ生存しなくなった。本多の関わったものは今や、倉庫会社、建設会社など、いわゆる堅気の企業としてしか残っていない。 →ウィキ
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1983年9月『スコラ』「兵庫県下主要暴力団」
 大行社ー大正13年(1924年)6月11日 清水行之助が後藤新平のほか、有力諸賢の後援を得て設立。戦後永らく休眠状態にあったが、1981年に岸悦郎が旧知の仲である清水から要請があり、暫定的に会長代行となった。結成式には稲川会初代会長の稲川角二や住吉連合代表の堀政夫が列席した。岸は公式には堅気でありながら任侠右翼であることを認めていた。→ウィキ

 「メンズサイゾー」2011-9-22 〇9月21日発売の「週刊文春」(文藝春秋)でビートたけしが「暴力団との関係」を赤裸々に語り、大きな話題となっている。暴力団との交際が原因で島田紳助が引退したことにより、芸能界と暴力団の関係がクローズアップされ、どのタレントもヤクザとの関わりが明らかになることにおびえるようになった昨今、なぜあえて暴力団との関係を自ら語ったのか。
 記事では、フライデー襲撃事件後に復帰した際に「復帰が早すぎる」として右翼団体に街宣をかけられたことがあると明かしている。紳助が暴力団と関係を持ったきっかけは、同じく右翼団体に街宣をかけられ、その解決を渡辺二郎を通じて暴力団に頼んだことだった。しかし、たけしは右翼団体の関係先である住吉連合会の堀政夫会長をひとりで訪ね、土下座して謝って解決したという。この点が紳助とは違うとして、「タレントとして、そういうのを上手くやって逃げるのも本人の芸」「紳助は逃げる芸がなかった」と語っている。また、10年ほど前に、ある芸人(※文春は中田カウスだと断言)の策略によって山口組の渡辺芳則5代目組長と無理やり面会をさせられたこともあるという。さらに、稲川会からのプレッシャーにより初代会長・稲川聖城氏との面会を断れなくなり、月刊誌「新潮45」(新潮社)で対談したこともあった。(略)

『四国新聞』2002年6月3日ー右翼団体「大行社」(東京都港区)の元会長で総帥の右翼団体「大行社」(東京都港区)の元会長で総帥の岸悦郎氏(76)が台湾で死去していたことが3日、警視庁の調べで分かった。警視庁などによると、岸氏は5月から、がんの治療のため台湾に滞在していたが、今月2日深夜、台北市郊外の別荘で死亡したという。大行社は日本で最大規模の右翼団体。
沖縄の右翼・総会屋

1997年ー『民族』日本民族思想普及会(儀武晋一)/1989年ー『社会時報』桜魂社護国塾(松田昌雄)

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平成4年度 日傷・日妻の会全国合同沖縄大会、沖縄コンベンションセンター、笹川会長と沖縄国際武道空手連盟の皆さん

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04/13: 甘藷

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写真右・佐渡山安勇


写真・佐渡山安正
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1970年12月ー佐渡山安正『古陶器文様の美』東文堂

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○今日、岐阜県土岐市下石というところに行ってきました。
愛知の沖縄調査の仕事です。で、ついでに、この町を流れる川に架かる橋のたもとに据えられているシーサーを見てきました。しっかり橋と町を守っているようですね。これは、琉球王国時代の絵師佐渡山安健を先祖に持つ、故佐渡山安正の作品です。
町を守りながら、遠く故郷を望んでいるように見えました。写真ではわかりづらいですが、町を囲む山々の紅葉も見頃で、その紅葉をバックに、シーサーもとても見栄えがしました。→2007年12月01日「干瀬のまれびとの座ーまれびとの見る沖縄を語る」

横山葩生、余彌子夫妻来沖
□1936年4月ー台中丸で、帝展画家の横山葩生、余彌子夫妻来沖。「横山画伯夫妻けふ沖縄訪問ー氏の義姉は故末吉麦門冬氏の妹にあたり、古くから憧れていた南島沖縄訪問がやっとこの日実現されたものである。なお氏の来遊に就いて名古屋在住の佐渡山安勇氏より島袋全発図書館長へ世話方を依頼して来ている。」/「」10月ー『塔影』「青樹社第三回展ー名古屋伊藤銀行中支店楼上に開催。同社は横山葩生君を中心とする団体、葩生君の『南国風景』」

横山葩生 (よこやまはせい) 生年 / 没年 : 1899 / 1974
生地 / 没地 : 愛知県瀬戸市 / 愛知県名古屋市  第2回帝展(1920)  中京美術院 青樹社→愛知県美術館
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写真ー金城安太郎氏と石垣さん親子(末吉麦門冬娘)

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4月11日ー山田さん宅へ遊びに行く。寝屋川市の佐々木千賀子さんからのハガキがあった。佐々木さんは3回ほど山田さんのところに見えたそうである。下記の協会賞の話もあった。

□佐々木千賀子 
大阪府生。テレビ番組構成、コピーライターを経て、1998年小松左京、1993年立花隆、両氏の秘書につく。99年よりスタジオジブリにて宮崎駿監督の指導の下にアニメーション映画の企画、原作探しに携わる。2003年沖縄へ移住。現在、㈱沖縄映像センター勤務、プロデューサーとしてドキュメンタリー等の制作、執筆活動に取り組む。

2013年4月27日『沖縄タイムス』
公益社団法人日本写真協会(宗雪雅幸代表理事会長)が今年の日本写真協会賞をこのほど発表、県内から山田實さん(94)=那覇市=が功労賞を受賞した。功労賞は県内で山田さんが初めて。戦後沖縄の写真界の指導的存在として、日常生活を捉えた作品を制作。沖縄の本土復帰前から著名な日本人写真家の沖縄での制作を支えたことなども評価された。6月3日に東京都港区の笹川記念会館で表彰される。山田さんは「なかなか沖縄を認識してくれない本土に実情を知ってもらいたいと、日常生活を撮って発表してきた。(今回の受賞は)沖縄に目を配ってもらい、驚きと感激でいっぱい。本土と分断され、いろんな困難があったアメリカの統治時代などが思い出されて感慨深い」と喜んだ。同賞はこれまで1973年に石川文洋さん、93年に比嘉康雄さんが年度賞、95年にフォトシンポジウムin沖縄実行委員会が文化振興賞を受賞している。(城間有)


4月30日 山田さん古新聞をチエック

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1918年10月~1918年7月『沖縄毎日新報』真境名安興「酒前茶後」の随筆に麦門冬が関連した随筆を寄せている。

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1924年2月『沖縄タイムス』莫夢生「サボテンー本県の姓名について」/笑古生「姓名についてー莫夢氏の一考を促す」


□1993年4月20日 『琉球新報』新城栄徳「『真境名安興全集』刊行に寄せて」


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開拓団の自決語り継ぐ
○思うに、恭三君が撃った銃弾で(東京開拓団)団長は最期を遂げたのであろう。日頃気丈であった団長は、一番可愛がっていた末っ子の恭三君の手で最期を全うしようと決意していたに違いない。
○ソ連兵の大部隊が現れて、鉄砲を打ち込んで来たのです。(略)男子の殆ど、40名位が連行されてから間もなく、小銃の音がパンパンと連続で聞こえましたから、多分、銃殺されたのだろうと推察します。私の主人もその中に入っていました。74歳の私の義父は、婦女子の中に混じっていましたが、見つけ出されて私達の目の前で銃殺されました。婦女子の4,50名は農家の豚小屋に押し込められて、若い婦人達は次々に連れ出され暴行されたらしく、泣き泣き戻ってくるのです。
○あとがき
歴史の虚実・真偽の解明は、大変困難である。真相は隠され埋められ、真実は消されて闇に葬られることが多いからである。日本はなぜ勝算のない戦争に踏み込んでいったのか、なぜもっと早く戦争終結に持ち込めなかったのか。極端な精神至上主義と余りにも人命軽視。日本人は、これほど犠牲を出さなければそして結局アメリカの力によらなければ、皇国史観から目が醒めないほど劣った国民なのか・・・。

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