𤘩宮城昇
1906年7月14日ー𤘩宮城昇、父宗倫、母セツの4人兄弟の二男として生まれる。
1922年10月19日ー真境名安興「琉球史の使命と太平洋問題」
1923年10月28日『沖縄朝日新聞』東恩納寛惇「大震災後記」
1932年8月『フオトタイムス』宮城昇「低気圧ースタヂオを建ててしまった。未だ半年にしかならないのに、この猛烈な風に会い、写場の壁紙の北側は台無しになった。北風のすごい事は知っていたが、しかしスタヂオのスラントも北向きが良いとは皮肉だった。(略)少なくとも、写真に対する人心の覚醒をする為には、我々の低気圧を必要とする土地、那覇である。」/圓谷英二(後に特撮の神様といわれゴジラやウルトラマンをつくった)「ホリゾント法に拠るセツテングの研究(1)」

1938年1月8日『琉球新報』ベス・ブラツト「祖父と私と沖縄」/比嘉景常「猛虎之図(小橋川朝安)」



2011年3月4日ー4月20日「𤘩宮城昇の写した世界」那覇市歴史博物館

1909年ー『スバル』森鴎外「未来派宣言」

1920年12月ー柳田国男13日より沖縄の旅に出る


1919年9月ー『鹿児島新聞』で「古き薩琉親善の家門」として𤘩宮城家当主の宗倫が紹介され「宮城宗倫といって、長崎医専の出身で、今は薬種商を営み(略)訪古採訪の客を請じてその家譜や在番奉行請待の客室や、当時薩藩の名士よりもらい受けたる書簡、刀剣、茶器等を一切開放して閲覧せしむるー」と出て一般に家宝を公開していることがわかる。下の写真は𤘩宮城宗倫を中心に左に真境名安興、右に冨名腰義珍も見える。

1931年ー𤘩宮城昇、那覇に「昇スタヂオ」開業7

1932年ー昇スタヂオで豊平勝子(のちの山里永吉夫人)、グシ宮城昇、大山一雄

1932年8月『フオトタイムス』宮城昇「低気圧ースタヂオを建ててしまった。未だ半年にしかならないのに、この猛烈な風に会い、写場の壁紙の北側は台無しになった。北風のすごい事は知っていたが、しかしスタヂオのスラントも北向きが良いとは皮肉だった。(略)少なくとも、写真に対する人心の覚醒をする為には、我々の低気圧を必要とする土地、那覇である。」/圓谷英二(後に特撮の神様といわれゴジラやウルトラマンをつくった)「ホリゾント法に拠るセツテングの研究(1)」




映画「オヤケアカハチ」制作・東京発声映画製作所/配給・東宝映画/監督・重宗務、豊田四郎/脚本・八田尚之/原作・伊波南哲/撮影・小倉金弥/音楽・大村能章/美術・河野鷹思/録音・奥津武/出演・大日方伝、藤井貢、三井秀男、市川春代、山口勇
写真ー上右から八木明徳、3人目・山城正樹、13人目・山田有登、田代タカ子、玉城盛重、17人目・護得久朝章、19人目・上間朝久、渡口政興、22人目・國場世保、23人目・仲嶺盛竹。中列左端・山田有昴、3人目・奥津。前列左から4人目・藤井貢、監督、8人目・大日方伝、高江洲康享、上間郁子



1939年5月ー『月刊民藝』□日本民藝協会同人 琉球日記ー3月28日、夕刻5時織の仕事について親切な配慮をして下さる工藝(業)指導所長安谷至(屋)氏の来訪を受けて色々打合せをした。比嘉景常氏、山里氏、平野学務課長等の来訪もあって、琉球の家最初の夕食は、喜久山一家の手になる琉球風な料理である。食後再度街の方へいろんな買物に行く。蛙の鳴く夜を蚊帳をつって眠る。

1939年7月ー『月刊民藝』□日本民藝同人 琉球日記ー4月14日、朝8時県庁から廻された車で国頭に向う。運転は正月の柳の時と同じ、柳沢君(奄美大島で運転手をしていた)。一行は柳、河井、濱田、外村、写真の宮城昇君の5人である。

1939年8月ー『月刊民藝』□日本民藝同人 琉球日記ー4月17日、豫々待望の久米島行の日。外村、田中、岡村の3人は留守番と決定。朝10時那覇の港を出づ。安谷屋所長、久米島出身の濱川昌俊県会議員等の見送りをうく。宮古丸、同行者河井、濱田、芹沢、柳、悦孝の5名、それに吾等のよき友喜久山添采氏、写真師として宮城昇氏病をおして一行に加わる。久米紬同業組合長・比嘉文貞氏も幸い同船。 4月20日、宮城氏撮影に多忙なりー