1924年
6月13日ー土方与志、小山内薫「築地小劇場」開設

7月『マヴォ』第1号(表紙・山里永吉作品)
<1925年
秋ー仲泊良夫(白金三光町の明治学院文科の寄宿舎)、伊波文雄(小石川の伊波普猷宅に寄宿)に連れられて中野の山里永吉下宿を訪ねる。仲泊の同級生に仲村渠、渡辺修三、平川泰三、矢島などがいた。またダダイストの辻潤、詩人サトウハチロー、後藤寿夫(林房雄)らと交遊していた。

□1930年9月ー『フォトタイムス』宮城昇「ベストカメラ禮讃ー屋外人物に就いてー」、10月『フォトタイムス』「写檀人ニックネーム一覧表 ????宮城昇(東京)インチョウ」、12月『フォトタイムス』伊達良雄「東京写真学士会第1回展覧会に就いてー宮城氏の作品六点は何れも旧作であるが、一貫した感覚が漂って居り、殊に少女や少年を撮ったものには深い愛が感じられた。」、1931年1月『フォトタイムス』宮城昇「ベストカメラ禮讃ー屋外人物に就いてー」「或る写真価値」、2月ー宮城昇「ベストカメラ禮讃(5)ースケッチに就いて」、3月ー宮城昇「ベストカメラ禮讃(6)」、4月ー宮城昇「ベストカメラ禮讃(7)ー風景に就いて」、5月ー????宮城昇「肖像写真価値の一つ」、9月ー宮城昇「ベストカメラ禮讃(9)ー静物に就いて」


写真上ー1933年1月ー嵐山事件とオイル事件の闘士たち(国吉宅で)、右から宮城清一、大城永繁、上地一史(戦後・沖縄タイムス社長)、平良良松(戦後・那覇市長)ー国吉真哲撮影/写真下ー国吉真哲、マリ子夫妻(自宅で)、写真は何れもバックに築地小劇場のポスターが写っている。

1937年5月ー仲吉朝興『観光沖縄案内』向春商会印刷部□太田潮東郷土協会長「序」
1939年4月ー柳宗悦ら民芸一行(????宮城昇が写真撮影で参加)



写真ー1939年4月17日、久米島にて後列左から柳悦孝、河井寛次郎、柳宗悦、芹沢銈介、喜久山添采、喜久里教宣(具志川村村長)、濱田庄司
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嘉数能愛


????宮城昇は南島美術協会展に出品する作品を撮ったりして若い美術家たちを応援した。

1939年10月『工藝』百号「琉球の風物ー追記・撮影に努力された????宮城昇氏にも厚く御禮を述べたく思います。」

1940年1月1日『琉球新報』国威宣揚之新春ー皇紀二千六百年広告「昇スタヂオー上ノ蔵大通り 電話395番」

2011年2月ー◇東京の奥間政作氏から????宮城昇の文章が掲載されている『フォトタイムス』が送られてきた。1929年9月号ー宮城昇「時代は移る」、田村榮「新らしく進む路(6)」には親友の宮城昇君が出てくる。11月号ー宮城昇「人物とバックの関係」には昇の作品(花柳はるみ、松本旭一光)も掲載されている。12月号ー「人物とバック」の2回目、昇作品(支那服を着た花柳はるみ、寛子さん)、1930年6月号ー「ベストカメラ禮讃」これにも花柳はるみがモデルの昇作品が載っている。1931年1月号ー宮城昇「ベストカメラ禮讃(4)」「或る写真価値」が載っている。1931年5月号ー宮城昇「肖像写真価値の一つ」、10月号ー田村榮「近況を語る」に昇が故郷で写真館を開業のため上京されていると、紹介されている。また1936年6月発行の『東京写真専門学校一覧』も送られた。

2011年4月12日『琉球新報』□東京空襲で亡くなった那覇市出身の写真家、????宮城(ぐしみやぎ)昇氏(1906~45年)の作品が、没後から66年、新たに3点見つかった。那覇市に住む男性から琉球新報に持ち込まれた写真を那覇市歴史博物館に照会したところ、写真に????宮城氏の写真館「昇スタヂオ」の刻印があることなどから、同氏の撮影した写真であることが分かった。写真には、1939年に沖縄を訪れた日本民芸協会一行の調査などが収められている。同博物館は「????宮城が日本民芸協会の調査を撮影したことを再確認できるいい資料だ」と評価している。????宮城氏は東京写真専門学校(現東京工芸大学)を卒業し、31年に那覇市上之蔵に昇スタヂオを開業した。肖像写真を中心に撮影しながら、戦前に行われた那覇大綱挽など県内の歴史的な行事をフィルムに収めてきた。2010年夏ごろに建築物の廃材の中から同写真を発見した解体業の知人から託された浦崎直恒さん(58)=那覇市=が「昔の沖縄を写した貴重な写真かもしれない」と写真15点を琉球新報に持ち込んだ。


1921年1月5日ー柳田国男来沖、楢原館に泊まる。伊波普猷と会う。
1月16日ー柳田国男、糸満に行く。
1月20日ー柳田国男、宮古島行の船上で比嘉春潮と出会う。
1月21日ー柳田国男、宮古島漲水着、平良町を一巡。
1月24日ー柳田国男、石垣島着、岩崎卓爾に会う。石垣島で八重山の芸能を紹介され、田辺尚雄の訪島を約束。
2月2日ー柳田国男、島袋源一郎と斎場御嶽に行く。
2月5日ー柳田国男、那覇の松山小学校で「世界苦と弧島苦」と題し講演。
2月6日ー柳田国男、首里の尚順男爵を訪問。歴史地理談話会で「神話のナショナル・インタープレテーション」と題し講演。
2月7日ー柳田国男、那覇出帆、名瀬に着く。

□宮古の仲宗根将二さんから『宮古研究』第11号が贈られた。

1921年
5月3日ー『沖縄タイムス』「市制施行期日 5月20日と決定し県の答申は10日迄に」
5月20日ー『沖縄タイムス』「祝 那覇首里市制」
5月21日ー『沖縄タイムス』「那覇首里市政紀念号」
5月29日ー『沖縄タイムス』「市制運動の先覚者は仲本政春氏」