1969年8月、大阪府で『沖縄ジャーナル』創刊(編集発行・元長栄)□新里実俊「謝花昇を語る」、比嘉正子「私の歩んだ道」、「安里太次」□→2009年5月『うるまネシア』第10号/新城栄徳「失われた時を求めてー今年の1月25日、近鉄奈良線東花園駅近くにお住まいの元長栄氏を息子と訪ねた。元長氏は宮古の人。今年84歳だが毎土曜日は駅近くのスナックのカラオケで沖縄の歌を歌って人生を楽しんでおられた。元長氏の沖縄での教員時代、教え子に『青い海』出版社長であった山城賢孝氏がいる」
元長栄 履歴
1925年1月10日、宮古郡伊良部島に生まれる
1946年~1947年   伊良部小学校、伊良部役場・宮古支庁、文教学校、開洋高校、水産高校
1950年3月   沖縄文教学校研究科卒業
1952年7月   関西大学経商学部教務課
1956年5月   関西大学学長秘書
1958年3月   京都外国語大学短期大学部英米文学科卒業   
1958年9月   関西大学経商学部事務長兼商学部事務長
1964年5月   関西大学法学部事務長
1972年4月   阪南大学教務課長
1984年4月   学校法人山口学園評議員
1985年4月   阪南大学事務部次長
1989年4月   学校法人山口学園理事
1990年3月   阪南大学を定年退職
1990年4月   藍野学院短期大学設立準備室長
1991年4月   藍野医療技術専門学校医療秘書病院管理学科学科長
1991年5月   医療秘書教育全国協議会理事
2000年3月   藍野学院企画室長依願退職 



沖縄戦ー2002年10月 田本流助『防衛隊の記録』編集・装丁 元長栄②

〇今の平和の世ではシビリアンコントロール等と大騒ぎの国防問題も、一度戦時下になると文官の権力など問題にならないことを戦場の一隅で見た。
〇沖縄人をスパイだと白眼視した一部の将兵もいたのは事実・・・彼我の戦力の大差を知りつつも、敢て敗戦の原因を他に求める日本人の精神構造をどのように解釈すれば良いのだろうか。

〇岩陰も松もソテツも為ならず/弾にくだけて/我身も共に
〇道求め/道を究める/身なれど/この世の名残り/如何に断つべき。琉歌ー根(もと)や枯り果てて/枝葉(ゆだは)散りなてん/みどりさし出(んじ)て/花よ咲かす


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元長栄(学校法人山口学園(ECC)国際外語専門学校、コンピュータ専門学校、アーティスト専門学校顧問)氏と息子。

1931年5月 下地寛令『融和問題の社会心理学的研究』(財)中央融和事業協会

1993年11月 中上健次『紀州 木の国・根の国物語』朝日文庫/1931年5月 下地寛令『融和問題の社会心理学的研究』(財)中央融和事業協会

□井上(下地)寛令(1898年3月27日~1938年8月7日)
砂川間切下里村(宮古島市)に生まれる。1917年、沖縄県立第一中学校卒業。1924年、東京帝国大学文学部(社会学専攻)卒業。内務省警察講習所講師、浅草高等女学校教諭、東京府立高等学校教授等をつとめた後、母校の大学院に進み専門の社会学の研鑽に努める。卒業後、法政大学教授となる。1937年、文部省留学生として、イタリア、フランス、ドイツへ2年間留学する。当時、社会学は新しい学問で井上も文部省や学者らから注目され、また宮古の師弟たちの励みとして期待されたが、帰国後病を得て早世した。享年40。


□中上健次「紀伊半島で私が視たのは、差別、被差別の豊かさだった。言ってみれば『美しい日本』の奥に入り込み、その日本の意味を考え、美しいという意味を考える事でもあった。ここにたとえば、『美しい朝鮮』という命題を入れてみよう。差異とは、朝鮮と日本の間にある。この夏、車で走り廻りながらカーステレオで私はカリブの音楽を聞き、朝鮮語のカセットテープを思いつくままかけていた。言葉は私には理解不能だった。意味のわからぬ言葉を耳にしながら、私はその走っている風景が朝鮮の風景だと思い込もうとし、歩く人らが半島なのかを知ろうと思ったのだった。つまり言葉を変えてみれば、紀伊半島を汎アジアの眼でとらえてみるということである。土地土地を経巡る私に、紀伊半島がまぎれもなく日本の紀伊半島であるのは、<熊野の荒らぶる神>のような被差別部落があるからだ、と映った。ここは輝くほど明るい闇の国家である。」