1991年1月 伊佐眞一 編著『アール・ブール : 人と時代』伊佐牧子


写真・ブール師(the Rev. Earl Rankin Bull,1876~1974)/ブール文庫









伊佐眞一[アール・ブールと伊波普猷]
伊波普猷は,アール・R・プール宛て1926年1月30日付の手紙で, その末尾を次の言葉で閉じている。 「琉球は昨今非常な窮境に陥って国家の手で救済されなければ ならないやうになってゐますが何だかもう助からないやうな気がします。 この不幸なる民族の為に尚一層御奮闘下さることをお願ひします。」 この書翰は,その年,大正15年5月に, プールが中心になって準備をすすめていた ベッテルハイム渡琉80周年記念事業にちなむ2つのモニュメント, つまり石材記念碑の建立と一対をなす, ブールのベッテルハイム伝への序文を求められたことに対する返信であった。 「一月十一日附の御手紙は,方々まわりまわって, 今朝やっと手許に届きました」というのは,たぶんにブールが, 前年の伊波の上京を知らないで, 沖縄の住所に向けて出したためであろう。 かくて30日の朝になってやっと手紙を読んだ伊波は, その日のうちにペンをとったのであるが,この最後の一節には, 当時の沖縄経済の疲弊状態と, かくなるまでに至った真因についての伊波の認識が 端的にあらわれていると同時に, ブールを媒介にしたキリスト教とのかかわり, さらには沖縄「救済」についての思考のパターンが, くっきりと浮き出ているように思える。 ・・・


2016年2月26日 沖縄かりゆしアーバンリゾート・ナハ「第33回 東恩納寛惇賞 贈呈式」祝賀会写真右から嵩元政秀氏(第32回東恩納寛惇賞)、新城栄徳、①照屋善彦氏(第24回東恩納寛惇賞)

①照屋善彦[資料収集の鬼:ブール師]
ブール師(the Rev. Earl Rankin Bull,1876~1974)は, 米国のメソジスト監督教会から,1911年, 九州・沖縄地区へ派遣され延べ15年間日本で伝道をした宣教師である。 師は沖縄での本務であるキリスト教の布教のほかに, 中学校での英語を教え, また幕末に来琉した英宣教医ベッテルハイムの記念碑を建立 (大正15年)したりして,大正時代の沖縄で顕著な活動をした。 また師は戦後, 琉球大学附属図書館に「ブール文庫」を寄贈した人としても知られている。 当文庫が設置された1958年頃の琉球大学附属図書館には 蔵書数が著しく少なく, 大学の使命である教育と研究にも支障をきたす状態であった。 特に,洋書の蔵書に至っては寥々たるものであったので, ブール文庫が琉球大学に寄贈された意義は大きい。 筆者や同僚で沖縄の対外関係史を研究していた者にとって, 当文庫はまさに干天に慈雨の如く有り難い贈り物であった。

ブール師は,沖縄への派遣が決定した1911年以後, 終生異常なほどの情熱と執念をもって, 「沖縄」と沖縄における プロテスタント宣教の開拓者ベッテルハイム研究に打ち込んだ。 19世紀中葉,ベッテルハイムが派遣(1846 ~54)された沖縄こそ, 日本キリスト教史における最初のプロテスタント伝道が 開始された場所であったからであろう。 アヘン戦争(1840 ~42) 後のアジアにおける国際情勢の大変化をうけて, カトリック・プロテスタントの中国をはじめ東アジアでの伝道活動が活発になった。 幕末の激動する琉球で, ベッテルハイムが フランスのカトリック宣教師と伝道活動を展開した史的意義は大きい。

師は,ベッテルハイムの研究に着手するや, 精力的に関係資料の大部分を収集し, その研究の成果を英文や邦文で次々と雑誌や新聞紙上で発表した。 特にベッテルハイムの日記・書簡や,彼を派遣した琉球海軍伝道会 (Loo Choo Naval Mission,本部はロンドン在)の報告書等の マイクロフィルム・コピーを師が自費で取り寄せたことは, ベッテルハイム研究史上での最大の功績である。 永い歴史があり公共機関でもない宗教団体から外国人や部外者が, 個人の研究に必要な関係資料を入手することが 如何に至難の技であるかということを, 筆者自身イギリスやフランスで身をもって体験したからである。 恐らくブール師は,欲しい資料に対する鋭い臭覚と 持ち前の粘り強さを発揮して入手したに違いない。 このような彼の精力的な資料収集活動については, 伊佐眞一氏の好著『アール・ブール - 人と時代』 (1991年)で詳しく述べられている。

ベッテルハイム研究は,琉球が置かれた当時の複雑な国際情勢の下で, 基本資料も多彩である。 (1)ベッテルハイムの日記・書簡と琉球海軍伝道会の報告書等, (2)ベッテルハイムが滞在中に接触した欧米人関係の関連資料。 例えばイギリス政府関係(本国・香港政庁・英国東洋艦隊等), 米国のペリー提督の合衆国艦隊,フランスの宣教師や同国艦隊, 欧米の民間船,ロシアのプチャーチン提督の関係資料等である。 さらに, (3)伝道地である琉球の王府(評定所文書等)と薩摩藩や幕府の関連資料, (4)琉球王国の宗主国である清国に関連した資料などがある。 これらの多岐にわたる膨大な資料群の中で, ブール師は(1)と(2)の関係資料の大半を収集している。 その他に琉球海軍伝道会の創立者のクリフォードは, 1816年に沖縄島を訪れたバジル・ホール一行に随行したので, バジル・ホールやマクラウドの航海記も参考にする必要がある。 その他ホールの前後に多数沖縄に来航した英国船関係の資料や, 当時の琉球を中心にした東アジア関係の欧文資料も研究に必要だが, ブール師はこれらの関係資料を戦前・戦後とも精力的に収集している。 年々充実していく本附属図書館で, ブール文庫は依然として貴重な資料の宝庫である.
(琉球大学人文学科教授)

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2021-11-24 『琉球新報』伊佐眞一「主体性を問うー首里城復興基金と大龍柱」



バジル・ホール著「ジャワ,中国,大琉球航海記」: 付録「セント・ヘレナ島に幽閉中のナポレオンとの会見記」 第3版 1840
英文書名: Narrative of a Voyage to Java, China and the Great Loo-Choo Island... and of an Interview with Napoleon Buonaparte, at St. Helena by Captain Basil Hall...
1816(文化13)年9月16日, 琉球を訪問した2隻の英艦ライフ号(艦長はバジル・ホール中佐)は 約40日泊港に滞留し,10月27日出帆した。 ライフ号は広東, マニラ等を経て幽閉中のナポレオンのいるセント・ヘレナに到着した。 バジル・ホールとナポレオンとの琉球に関する問答は 第1版(1818:初版ロンドン版,フィラデルフィア版), 第2版(1820)には収められていない。 1826年に出版された第3版に初めて登場する。 会見記の中でナポレオンは 東洋の事情について常に特別な関心をもっているように見えたが, 琉球の名は知らなっかたようである。 琉球人に関する質問で琉球に武器がないと言うホールの報告に 大変驚いたこと(注1),貨幣を持たないこと, 中国や琉球の宗教に関心を寄せていたことが述べられている。 (仲原善忠:季刊南と北 第24号より抜粋)

ブール文庫ではないが当館所蔵の第一版ロンドン版には 本文以外に地図2枚,巻末付録,クリフォードの琉球語彙, 王国時代の王族,士族や民具等の美しいイラストが数点挿入されており, 当時の社会風俗が垣間見ることができ, フィラデルフィア版はロンドン版の本文及び地図2枚のみでサイズも違う 
(分類:290.99/HA) 

注.1:慶長の役(1609)で琉球は薩摩支配下になり, 日本本土より武器の輸入ができなかったことによる (嘉手納宗徳著「琉球史の再考察」より p.243)。

なお,後に「琉球語文典及び語彙」, 「琉球-その島と人々」(1895)を著したバジル・ホール・チェンバレン (言語学者,1850-1935)はこのバジル・ホールの孫である。