2012年7月ー本日の地元紙を見ると、粟国村長選挙で新城静喜氏が309票で再選されている。対抗馬の與那城弘明氏は275票。34票差で健闘していた。『サンデー毎日』7.22号にヤガン折目を取材した「沖縄県 粟国島 女が守る島の祭」(写真・文 裵昭)が載っている。同誌には写真家・山田實氏の姪・山田美保子も「ワイドショーの恋人」を連載。また佐野眞一「新 忘れられた日本人ー村岡伊平治」も連載されている。


2016年7月9日 那覇市の一角で右が裵昭さん、新城栄徳


2004年11月 梁石日『魂の流れゆく果て』(写真/裵昭)光文社/2005年9月 裵昭『不滅の「役人天国」』光文社
裵昭ペ・ソ
1956年福岡県生まれ。父が1世、母が2世。フォトジャーナリストとして「朝日新聞」「東京人」「週刊文春」「週刊新潮」などに、ラジオやテレビのドキュメンタリーにも参画している。日本の国際化をテーマとした作品を発表。『鎖国ニッポンが多民族国家になる日』で第28回平凡社準太陽賞を受賞。『段ボールハウスで見る夢』(中村智志 文)で第20回講談社ノンフィクション賞受賞。著書に『となりの神さま ニッポンにやってきた異国の神々の宗教現場』(扶桑社)など。福音館書店「母の友」で、職人と工房のシリーズを掲載。日本生まれ日本育ちの在日コリアン。『写真報告 関東大震災朝鮮人虐殺』(影書房)、共著に『魂の流れゆく果て』(文・梁石日、写真・ペ・ソ、光文社文庫)など多数。

2016年7月8日 那覇市の一角で

 「論座」2018-12-14 翁長雄治 那覇市議ー元ネトウヨ、故翁長知事の息子が語る沖縄の保守亡き父の後を追い政治家になった次男・雄治氏が発する沖縄保守から本土への異議/翁長 真実はネットにあり、マスコミにはないと信じてました。ところが、次第にネトウヨに疑問を抱くようになった。最大の転機は父がネットで叩(たた)かれたことです。
――いつごろですか?
翁長 2012年末に民主党政権から自民党の安倍晋三政権に代わった後、那覇市長だった父が東京で「普天間基地の県外移設、オスプレイ配備反対」の行動をしたのを境に、ネット上に「翁長の長女は中国の外交官と結婚」「次女は北京大学に入学」なんてデマがあふれました。あまりにアホっぽい作り話に、姉たちと笑っていましたけど。


『週刊新社会』
 三上 智恵2019-10-9 加害性に向き合わずそこはスルーして 被害者という特別枠に収まって何か声高に言っても それは人に届く力を持たないこのことをずっとずっと考えています 辛淑玉さんのようにパサリ、と蜘蛛の巣を切り落とすような優れた文章が書けるようになりたい


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 佐野眞一氏の本に出会ったのは沖縄出身の与座弘晴を紹介した『業界紙諸君!』(1987年)が最初である。この本には佐野氏自身のタウン紙「新宿れぽ-と」(旬刊)の記者時代に触れ「オーナーはこの街を根城にする本職のヤーさんだった」と書く。「新宿れぽーと」は1982年の時点で240号を出している。発行人は伊藤晃三郎である。伊藤は沖縄の宜保俊夫と共に東亜友愛事業組合の大幹部,『月刊友愛』も発行、1981年9月号は「沖縄本土復帰十周年記念」であった。


 『中央公論』2008年5月 佐野眞一「時評2008/満映人脈が照らす歴史の残酷さ」〇(前略)学生時代によく観た東映ヤクザ映画がきっかけだった。東映の三角マーク映画から伝わってくる異様な感触には、ほかの映画会社にはないデモーニッシュな衝動と官能があった。『飢餓海峡』の内田吐夢も『緋牡丹博徒』シリーズの加藤泰も満映出身者である。管理部門では、『きけ、わだつみの声』を制作した元東映専務の坪井與氏も、赤川次郎の父親で日本初の長編アニメ『白蛇伝』を制作した赤川孝一氏も満映にいた。(略)

 2013年12月18日『沖縄タイムス』記事に「知事、『辺野古』承認へ事実上の条件」、権力に通じている御用新聞(御用が悪いと言ってない)の産経新聞は辺野古移設を断定的に報道していた。官僚と安倍の戦術が旨く行っているということだろう。19日知事は安倍首相と二人きりで7分会談している。この時に「秘密文書」で交換条件を出したであろう。この密約も60年間公開はされないだろう。沖縄県民もそういうことは織り込み済みであろうし、そのために「安保容認」知事を選んだということだ。この知事は佐野眞一『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』の「沖縄知事選コンフィデンシャル」の中でボロクソに書かれている、一例「官僚退職、副知事退職、沖縄電力退職、沖縄で最高額の退職金を3回も手にした人」と選挙ビラを引いて紹介している。沖縄県民は官僚や安倍に騙されたはもう通用しない。本気で次の知事や名護市長は「安保ノ-」の候補者を選択しないといけないだろう。革新側も理屈っぽい学者やタレントではなく現実と未来を見据えた経済政策(安保・原発・消費税・思いやり予算などを廃止)でもった政党を中心に、心ある政治家(利権世襲の政治屋ではない)の結集を望みたい。

 沖縄知事選のクライマックスは、私が那覇入りする四日前の11月1日の午後3時から、那覇市にある沖縄セルラースタジアムで開かれた翁長支援の1万人集会だった。(略)仲井眞側の応援弁士の小泉進次郎の応援は凡庸で聴衆もせいぜい300人程度だった。進次郎のオバちゃん人気の神通力が通じるのも本土だけかもしれない。官房長官の菅が、「もし仲井眞さんが当選したら、沖縄にユニバーサルスタジオをプレゼントする」と約束したのも笑止千万だった。これは沖縄のカジノ計画に賛成している仲井眞への援護射撃のつもりだったのだろうが、どうみても逆効果だった。菅は秋田県の雪深い村から集団就職で上京し、働きながら大学の夜間部に通った苦労人だが、権力の座に長くいたせいか、最近とみに傲慢になったような気がする。そもそも私は、通産官僚から沖縄総合事務局、沖縄電力理事、沖縄県副知事、沖縄電力社長、そして沖縄県知事と天下りして、その都度庶民にはおよそ手の届かない巨額の退職金を手にした仲井眞という男を最初から信用していなかった。

 佐野眞一をウィキペディアで見ると、乾物屋を商った東北出身の父は婿養子。3人兄弟の長男。初孫だったために粋人の祖父に溺愛され、小学生のころから浅草で酒の味や映画、演芸の享楽を仕込まれた。早稲田大学第一文学部在学中は映画監督を志し、「稲門シナリオ研究会」に入った。大学卒業後、主に子供向けソノシート制作などを手がけていた音楽出版社・勁文社に入社。1971年12月、自ら編集を手がけ発行した「原色怪獣怪人大百科」がこの当時の第二次怪獣ブームを受け、53万部を完売するという当時としては画期的なベストセラーになったが、労組を結成したため1年半で解雇された。