与謝蕪村[1716~1783]江戸中期の俳人・画家。摂津の人。本姓は谷口、のち与謝と改める。蕪村は俳号。別号、宰鳥・紫狐庵。画号、四明・長庚・謝寅など。江戸に出て俳人早野巴人(はやのはじん)(夜半亭宋阿)に入門。諸国放浪後、京都に定住、のち夜半亭2世を名のった。浪漫的、絵画的な俳風を示し、「春風馬堤曲」などの新体の詩も創作、中興俳諧の中心的役割を果たした。絵画では、池大雅(いけのたいが)とともに日本南画の大成者とされる。著「新花摘(しんはなつみ)」「夜半楽」「蕪村句集」など。→コトバンク

  1783年(天明三年)12月25日未明、永眠。享年68歳。「しら梅に 明(あく)る夜ばかりと なりにけり」の辞世句を残し、新春の白梅を心に抱きつつ死んでいった。蕪村の墓は、芭蕉庵のある京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)の境内にある。毛馬閘門近くの淀川堤防上に、蕪村の句碑と生誕地の碑がある。句碑には有名な「春風馬堤曲」の中の『春風や 堤長うして 家遠し』の句が、蕪村の自筆を拡大して刻まれている。かつてこの句を刻んだ小さな碑が近くに建てられていたが、淀川改修工事で一時的に取り除かざるを得なくなった。淀川改修百周年記念事業の一つとして、句碑の復活が取り上げられ、地元では有志による蕪村顕彰碑保存会が結成され、建設省(当時)・大阪府・大阪市に働きかけ、この四者の協力により昭和53年2月、現在の堂々とした立派な句碑が建立されたのである。初代の句碑は昭和28年にやはり地元の有志によって設置されていたもので、今は国土交通省毛馬出張所敷地内の桜の木の下にひっそりと置かれている。生誕地の碑は昭和54年3月大阪市が建てている。→都島区

1911(明治44)年1月1日  『沖縄毎日新聞』獏夢道人(末吉安恭)「古手帖(1)」
1月1日  『沖縄毎日新聞』獏夢道人(末吉安恭)「古手帖(1)」
○古手帖ー冬篭り独り凡に侍つかかつて渋茶に咽を濕し乍暮るる●の早きを惜しみフト垢擦れた古手帖の眼につくままに抽き出して彼処此処拾ひ読みをして見ると僕も随分物数奇であったと見えて能くもこんな色んな物を書き取ったもんだ。此等はいづれ雑書類を繙読してその当時は少なくとも興味を以てしたもんだから今から見ると余りドットしないけれど紙屑買に渡す気でこう原稿紙の四角い物に入れて見ようといふ気になる。右は蜀山人の仮名世説にある大平の逸民の状態はこんなものであった。この超波①は作家として左程●い物ではなかったろうが兎に角、蕪村七部集②にも出ている「五車反古」に載っているのは下の四句だ、早乙女や先づひいやりと庭の先/祇園会や胡瓜花さく所まで/我屋根をはつれてゆかし天川・・・

①清水超波 しみず-ちょうは
1702-1740 江戸時代中期の俳人。
元禄(げんろく)15年生まれ。江戸の人。味噌(みそ)商だったが,家業をきらい,桑岡貞佐(ていさ)の門人となる。のち点者となり,独歩庵超波を名のった。元文5年7月27日死去。39歳。通称は長兵衛。初号は長巴。編著に「紙蚕(かみかいこ)」「落葉合(おちばあわせ)」など。→コトバンク

②蕪村七部集
ぶそんしちぶしゅう

江戸時代後期の俳諧撰集。菊屋太兵衛らの編。文化5 (1808) 年刊。与謝蕪村関係の代表的俳書『其雪影』『明烏』『一夜四歌仙』『花鳥編』『続一夜四歌仙』『桃李 (ももすもも) 』『続明烏』『五車反古』の8部を収めたもの。

1月7日  『沖縄毎日新聞』安元碧海「沖縄の人物地理」 
1月10日 『沖縄毎日新聞』獏夢道人(末吉安恭)「古手帖ー緑雨の『おぼへ帳』に・・・」
   






1923年12月  『沖縄教育』末吉麦門冬「俳句ひかへ帳ー言葉の穿鑿」
○俳句に出づる故事、物名、人名や地名には随分読む人を困らすのがある。私もそれに困った一人なので、そういう句に出会す時は、必ず手ひかへに留めて置いた。而して読書の際偶その出所を発見したり、解釈を得たりする時は、又別のひかへ帳に立てて置いた。それが積もって漸く一つの物に纏ったので、我と同じからん人の為めにと本誌に投した次第である。・・・公達に狐化けたり宵の春  蕪村ー狐が化けると云うことは普通に誰も知っていることだが、これも支那から来た話ではなかろうか。西陽雑爼①に「野狐一名は紫夜、尾を撃って火を出す、将に怪を為さんとするや必ず髑髏を戴いて、堕せすんば則ち化して人となる」と。又、五雑爼②に「狐千歳にして始めて天と通ず、魅を為さす。其の人を魅する者は多く人の精気を取りて以て内丹を成せばなり。然らば則ち其の婦人を魅せざるは何ぞや。曰く狐は陰類也、陽を得れば乃ち成る故に牡狐と雖必ず之れを女に托して以て男子を惑はす也。然れども大害を為さす、故に北方の人は之れを習はす」と。

支那では男に化けぬことになっているが日本ではこの句にあるように美男に化けて女を惑はすやうなこともあると信じられているやうだ。蕪村には狐の句が多い。「春の夜や狐の誘ふ上童」「狐火やいづこ河内の麦畑」「狐火や五助畑の麦の雨」「石を打つ狐守る夜のきぬた哉」「小狐の何にむせけん小荻原」「蘭夕、狐のくれし奇楠を烓かむ」等がある。彼が狐に興味をもっていたことが其の句の多いので知られる。此の句は敦盛卿のやうな美しい公達に狐が化けたと云ふので、それがいかにも春の宵のあやしき心持に調和した美をなすのである。かうした美しい怪物のあらはれるのも春の宵でなければならぬやうな気がする。狐忠信の舞台も春であるからこそ榮えるのである。

①名の「酉陽」は、湖南省にある小酉山の麓に、書1,000巻を秘蔵した穴が存在するという伝承に則っている。内容は、神仙や仏菩薩、人鬼より、怪奇な事件や事物、風俗、さらには動植物に及ぶ諸事万般にわたって、異事を記しており、中国の小説あるいは随筆中においてその広範さは一、二を争う。魯迅の愛読書であり、南方熊楠が、プリニウスの『博物誌』と名を比した書としても知られる。→ウィキペディア

②中国,明の随筆。謝肇せい (しゃちょうせい) の著。 16巻。全体を天,地,人,物,事の5部に分け,広く自然現象,社会現象の全般にわたって,その見聞,意見を記したもの。その観点は合理的な傾向をもち,当時の社会の矛盾を鋭く描く部分もあり,貴重な資料となっている。テキストの伝世に関しては、不明な点が多く、後集10巻の中には、明代の遺文を蒐集した部分が少なからず含まれるとされる。→コトバンク




鎌倉芳太郎が1975年11月、八重山に遊び麦門冬の娘・初枝さんと感激の再会。翌年の元旦に詠んだものを書いて石垣市の初枝さんに贈ったもの。

左から折口信夫(複製)短冊ー麦門冬の娘・初枝さんに贈ったもの。/山城正忠/鎌倉芳太郎短冊ー麦門冬のことを聞いた新城栄徳に鎌倉氏が贈ったもの。娘の嫁ぐ日に詠んだ歌だが、その娘の名が恭子さんであるのは偶然なのか。