左から東風平汀鳥、麦門冬、國吉朝秀、末吉安慶、名護朝扶、不詳

清盛ー入道は襟かき合しかき合しなるやうにせよと清盛腹で云ひ
正行ー正行は其の時遺言思い出し怨敵の使者に正行禮を述べ
師直(四条畷)ー師直はたった一ど声名乗あげ
舜天王ー尊敦も外へ出づれば琉球語

道鏡ー三度まで目まぜをしたが感通寺


道鏡どうきょう[生]? [没]宝亀3(772).下野
奈良時代末期の法相宗の僧。義淵の弟子。その本貫は河内国志紀郡弓削 (ゆげ) 。そのためか弓削道鏡と呼ばれる。初め葛木山で修業,のち東大寺に入り,天平宝字5 (761) 年保良宮 (ほらのみや) で孝謙上皇の病気を癒やして以来信任され,少僧都となり,同8年恵美押勝 (藤原仲麻呂 ) 失脚後は仏教政治をしき,翌年太政大臣禅師,天平神護2 (766) 年法王となった。 →コトバンク

養老ー孝行な子が酔ざめの水を汲み一杯は息子も呑んで顔赤め
大公望ー文王が来るとあはてて釣る真似し
竹林七賢ー七賢のどの先生と薮医が来
白楽天ー門前の婆も到頭うるさがり


伯夷叔斉ー周の天下采邑の民二人ありしばらくと伯夷叔斉右左り冥途へば譲り合はぬで伴に行き

伯夷・叔斉はくい・しゅくせいBo Yi Shu Qi
中国,殷周交代期 (前 1100頃) に現れた賢人の兄弟。孤竹国 (河北省?) の公子。父が弟の叔斉を世継ぎにしたが,叔斉は兄の伯夷に譲ろうとし,ついに2人とも位を捨て去った。彼らは周の文王を慕って,その地に行ったところ,武王の伐殷の役にあい,これを不仁な行いとして武王に諫言した。 →コトバンク
浦島ー浦島は尻まくりしてヒヨイと乗り

李太白ー出来が悪い詩白ふでふと詠じ
○李白りはくLi Bo
[生]長安1(701) [没]宝応1(762).当塗
中国,盛唐の詩人。字,太白。号,青蓮居士。若い頃は任侠を好み,四川を振出しに,江南,山東,山西を遊歴。 42歳のとき長安に出て賀知章らに推挙されて翰林供奉 (ぐぶ) となったが,高力士に憎まれてまもなく追われ,また放浪生活に入り,その間,杜甫とともに旅をしたこともある。 →コトバンク

頼朝ー頼朝は生まれながらに大頭
俊寛ー泣きやん 俊寛砂に文字を書き
熊谷ー熊谷は涙片手に首抱へ
羽衣ー天人のモデル口では話されず
謙信ー謙信のピカピカやんで夕立し
信玄ー信玄は膏薬張って出陣し
牛若ー牛若は母の乳房に歯形入れ
寒山拾得ー拾得が掃けば寒山尻を据え
竹取の翁ー胞桶に翁は火吹竹を入れ人形が這入って居ると初手思ひ
桃太郎ー黍団子鬼も一つと頂戴し犬猿雉の人員検査三ですみ土産物配られるやうなものもなし




1913(大正2)『沖縄毎日新聞』獏族(末吉安恭)「川柳 車上偶吟」
○娼妓<ズリ>(遊客)
聲聞いて誰<ター>やみしへが入みそうれ
水兵は表甲板をほめてゐ
初めてでえべるは未必すしも初めならす
呼ばぬ客初めてでえべるを侮辱とし
妓勇奉公など扁額のあらまほし
田舎客ただかう往つてあア往つて
女房の悦ばぬこと酔に任せ
寒いのに波上などへ吹かれに出
仲前を出て左右を見廻し
凡そ天下に屏風の多い國はここ
墓の上に打出でて見れば鹿の子斑の顔
墓場で草摘むかと見ゆる蹲踞<しゃがみ>やう
屏風の後ろに肴やあらんややあって出
我が敵娼の部屋のたたずまひをほめて居
十一時から後はと三味線を断り
新聞に出ましたかなどと聞き
新聞は二つ取りますなどと云ひ
俳優は嫌ひなどと真赤な嘘を吐き
友あり遠方よりとすぐ連れて行き
ドレお前もなどと爪をしらべ
会社から今戻りましたと挨拶し
寝言にも耳のサゴのと云ひ
月の大小を算むやうな爪弾き
大和語は唯はいはいと受け流し
押入れをあけて小便するが如し
探幽應舉の書林世寶の書なりけり
イエイエ其處には誰もと立ち塞がり
拝啓などと此妓よく書き

1911年8月5日『沖縄毎日新聞』麦門冬「勘違物語」
○はしがきー此篇の作者は何人だか能くは分からないが一説には儀保の野村と云ふ人が作って同村の文豪喜納の加筆を経て物にしたとも云ふが又他説には矢張同村の文人仲程良(恩)氏他二三名の合作だとも云ふが兎に角当時花柳界にて激しい勢力があった儀保文士の戯作たることは疑いない。儀保は昔から通人、粋人の集まった所、従ってこういう花柳文学の生まれたのも偶然ではなかった。当時の儀保ッ子が花柳界に幅を利かして