高野山と比叡山
1975年10月26日ー親子で高野山参詣



写真ー高野山大門前のヨチヨチ歩きの息子

南方熊楠が土宜法竜高野山管長に再会するのも目的の一つで1920年8月23日に、粘菌研究家の小畔四郎、画家の川島草堂、坂口総一郎らと高野山に登った。熊楠と法竜との出会いは、1893年にさかのぼる。法竜が真言宗の代表としてシカゴの万国宗教大会に出席した。大会後、法竜はパリのギメー博物館の招きに応じ、同館の仏教資料調査にために渡仏の途中にロンドンで熊楠に会った。それ以来書簡の往復を重ねた。

南方熊楠が履歴書の中に法竜を「この法主は伊勢辺のよほどの貧人の子にて僧侶となりしのち、慶応義塾に入り、洋学をのぞき、僧中の改進派たりし。小生とロンドン正金銀行故中井芳楠氏の宅で初めて面会して、旧識のごとく一生文通を絶たざりし。弘法流の書をよくし、弘法以後の名筆といわれたり」と記した。熊楠の法竜宛の書簡でよく知られているのが次ぎの文言である。

南方熊楠「無尽無究の大宇宙のまだ大宇宙を包蔵する大宇宙を、たとえば顕微鏡一台買うてだに一生見て楽しむところ尽きず」「今日の科学、因果は分かるが(もしくは分かるべき見込みあるが)、縁が分からぬ。この縁を研究するがわれわれの任なり。しかして、縁は因果と因果の錯雑して生ずるものなれば、諸因果総体の一層上の因果を求むるがわれわれの任なり。ついでに申す。『傳子』という晋ごろの書に、宇は空間、宙は時間に恰当の解あり。わが邦の訳者、この二字を用いざりしは遺憾なり」


1977年1月ー親子で金城宏美の子守で銀閣寺前からバスで比叡山登山
池宮喜輝(73)は琉球音楽と仏教の声明(ショーミョウ。補助楽器を用いない声楽)念仏と琉球古典曲との関係を探求した。高野山大学で中山僧正に琉球古典曲「十七,八節」を歌三味線で紹介したら「これは比叡山の天台声明にちかい」との話で、さっそく同僧正の紹介状をもって比叡山に行き、比叡山音律研究所の教授・中川僧正に会い古典曲「十七、八節」を聞かせたら「この曲は、音律、節回しなど声明と密接な関係がある」といわれた。弘法大師時代にできた声明(浄土声明その他)が袋中上人の時代に琉球の風土に移植され、さらに湛水親方によって、古典曲としての面目があたえられたと、池宮は見ているのである。
null
1977年1月6日ー比叡山で初めての積雪にビックリした金城宏次の孫、娘ひろみ
null
1993年3月13日 比叡山で左から孫の新城、同じくヒデ、金城宏次