戦前の絵葉書を見ると中央に那覇市役所が見える。設計者は武田五一である。京都も空襲はあった。アメリカ軍によって太平洋戦争中の1945年(昭和20年)の1月16日から6月26日かけて5度にわたって行われた無差別爆撃がそれである。そして京都大学には1920年、武田五一が工学部建築学科を創設したので武田五一胸像がある。武田は1904年に金閣寺、鳳凰堂修理工事の監督。17年、那覇区役所及び議事堂設計に関わり、国会議事堂にトラバーチンを使用させたのも武田である。29年『建築と社会』に「沖縄の民家」を執筆。30年に法隆寺金堂壁画保存委員。戦後、武田の設計した京都府立図書館が解体されるとき、当時の知事が「文化財としての価値は少ない」と無知ぶりを発揮したが、外観を残して新築された。

沖縄タイムス 2016年10月14日 社説[那覇市民会館の行方]住民合意の形成丁寧に
 沖縄の歴史を刻み、建築文化としても評価が高い那覇市民会館が13日から無期限の休館に入った。城間幹子市長が会見して明らかにした。市民会館は復帰前の1970年に建設され、老朽化が著しい。国の安全基準に基づく耐震診断で、震度6以上の地震で倒壊や崩壊する危険性が高いとの結果が出たからである。市は総事業費約95億円をかけ「新市民会館」(新文化芸術発信拠点施設)を久茂地小跡に建設することを決め、2021年度の開館を目指している。その間、現市民会館を使用する予定だったが、コンクリートの剥離や落下が相次ぎ、休館を余儀なくされた。安全性を最優先するのは当然である。
 一方で建築は文化であると同時に、歴史の「生き証人」でもある。市民会館は故金城信吉氏らが設計した沖縄現代建築の原点ともいえるものだ。沖縄の原風景の赤瓦、軒を深くとった雨端(あまはじ)の空間、屋敷を囲う石垣など伝統的な建築様式を取り込み、建築界では国際的にも高い評価を受けている。文化施設が貧弱な当時の沖縄で「文化の殿堂」の役割を果たし、1972年の復帰記念式典の会場にもなった。(略)市が方向性を示した後では検討委員会が追認機関となる恐れはないのか。先に住民や有識者に情報開示して意見を聴く場を設け、合意形成を図るのが筋ではないのか。
(略)
 那覇市民会館に限らず、大型公共施設が一斉に建て替え時期を迎えている。那覇市内では、戦後から復帰前の沖縄を色濃く残していた市場が大きく変貌しようとしている。戦後、沖縄本島中南部の食生活を支えてきた市樋川の農連市場は今年4月から再開発事業が始まっている。気になるのは、市の住民合意の在り方が十分でないように見えることだ。市民会館移転先では決定後の住民説明会で交通渋滞などを心配する声が出る。牧志公設市場移転でも市はいったん「にぎわい広場」に決定しながら組合の反発を招き現在地となった。那覇市も遠からず少子高齢化に突入する。税収増を見込むのは困難な中で大規模事業は市の財政に影響を与える。市民と情報を共有しながら、政策決定過程の透明化を徹底し、住民合意に向けた丁寧な手続きが求められる。


2016年10月19日『沖縄タイムス』青山惠昭「論壇ー市民会館の存亡 再考を」/那覇市に多角的議論臨む」


那覇市民会館落成記念で配ったもの/1970年11月『那覇市民会館 落成記念』記念行事の企画を担当したのは最近亡くなられた中山良彦氏/平良良松那覇市長○メッセージー(略)よい都市とは、文化的芸術的香りの高いまちだとされています。ビルが建ちならび、車が洪水のように走っていても都市の態様が殺伐としていたり、人間に精神的安らぎを与える場所、すなわち公園とか図書館とか音楽堂といったものがなければよい都市とはいえません。その意味から那覇市は沖縄の県都としての面目を一新し、文化センターとしての機能と役割りをもつ都市として、輝かしい一歩をふみだしたことになります。ご承知のとおり、この市民会館は本土建築工学の権威者も称賛する郷土色豊かなユニークな建物とされ、規模、施設からみても本土の同種の建物に遜色がなく、戦前戦後をつうじて沖縄にはこのような建物はなかったのであります。(以下略)

今の翁長沖縄県知事の父、歌人・翁長助静は1925年、沖縄県立第一中学校を卒業しているが、一中在学中、高江洲朝和(石野径一郎)、平良良松らとガリ版の同人誌『はるがん』を発行している。つまり平良良松とは文学同人であった。蛇足で付け加えれば、平良那覇市長の秘書の真栄里泰山氏を通じて、私の個人誌『琉文手帖』1号に表紙題字「琉球風俗画六十年 日本画家 金城安太郎」と市長に毛筆で書いてもらった。

具志弘樹氏「作品」

下は10月17日に会館を一周した









佐久本敦「久茂地地区住民との合意のない久茂地、前島、両小学校の統廃合は即時中止せよ!」
1、那覇市は久茂地、前島、両小学校を統廃合して、久茂地小学校を廃校にし、前島小学校敷地に 校名を変えて統合校を設立するとして市議会で可決している。この統廃合問題は、実際は翁長市長の独断によるもので、市長所管の那覇市教育委員会と結託して進めているが、市長の本当の目的は、那覇市役所眞和志支所を新築することにあると言われている。

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久茂地小学校廃校反対の旗がたなびく一銀通り

翁長市長は旧眞和志市の出身であり、現在の那覇市役所眞和志支所に代わる豪華な那覇市役所眞和志支所の新築実現が父親の翁長助静(旧眞和志市長)の代からの夢であり、その実現こそが翁長市長の政治課題としており、万難を排してでも実現しようとしている。其の排除すべき万難とは、①那覇市役所眞和志支所の新築目的場所(現市民会館の所在地)の確保。②現那覇市民会館の移転先(現久茂地小学校の所在地)の場所確保。③文教地区に指定されている移転先の久茂地小学校付近一帯の文教地区指定解除。④移転先の久茂地小学校の校区住民との合意。

那覇市の学校統廃合実地による廃校は、大山鳴動して結局久茂地小学校のみとなり、最初から久茂地小学校をターゲットにした翁長那覇市長と那覇市教育委員会の計画的策謀だったことがわかる。開校100年余で宮良長包作曲の校歌をもつ歴史的にも貴重な久茂地小学校を廃校にしてまで、自己課題の達成のみに目を向ける那覇市長は政治家としては、資質ゼロである。温故知新の精神に欠けており、中身のない中核都市になるものと言わざるを得ない。

翁長市長はオスプレイ反対運動で県内代表に選ばれた際、我々政治家は子どもたちの将来を考えて行動する云々の事を言っていたが、久茂地小学校の通学距離や環境悪化などの問題などの問題で被害を受ける子どもたちの事は無視している。つまり、那覇市長は一貫性の無いご都合主義の政治家である。巷の噂によると、仲井真弘多知事の後継者として来年、県知事に立候補するとのことであるが前記のとおり、県知事の器ではない。今回の自己課題実現の為に、少年会館、久茂地小学校を撤去し、久茂地地区住民に多大な犠牲を与えるなど、自己中心的であり、久茂地地区住民との話し合いや要望には一切応ぜず非民主的な人物でもある。一方、本土大手建設業者との癒着が噂されている翁長市長はそのつながりを通じて久茂地小学校跡地を売却するという噂もあり久茂地地区住民は憤怒の念を持って注目する。