2017年9月9日 とまりん地下「島尾敏雄 生誕100年 シンポジウム<ヤポネシア論>を問う」


新川明「主催者あいさつ」写真左から司会の岡本由希子さん、パネリストの仲程昌徳氏、西蔵盛史子さん、仲里効氏、川満信一氏


2009年6月 川満信一 個人誌『カオスの貌』<特集・追悼>六号

目次 学恩逸脱の徒ーさようなら仲宗根政善先生/世紀末/島尾ミホさん追悼/逝く友/岡本恵徳についての断片的記憶/大きな跡ー岡本恵徳追悼/別れの窓辺ー嶺井政和君へ/また一人ーいれい・たかしへ/戦後・沖縄思想の鋭鋒ーいれい・たかし/秋の日暮れ/弔辞ー早世の洲鎌朝夫へ/放浪(ユラリ)節/先取りの思想ー追悼金城朝夫/路傍ー玉城秀治への弔詞/遺恨的発条ー台湾白色テロ犠牲者墳墓にて/墓碑銘を前にー勝連敏男追悼/秘め事ー水納あきらの記憶

島尾敏雄略年譜⇒ウィキペディア
1950年(昭和25年) 33歳
2月 - 「出孤島記」により月曜書房主宰の第1回戦後文学賞受賞。
4月 - 長女・マヤが誕生。
5月 - 「ちっぽけなアヴァンチュール」を『新日本文学』に発表。この作品の評価を巡って、日本共産党内部の対立を背景にした論争が起きる。
9月 - 神戸市外国語大学の助教授となる。
12月 - 河出書房より書き下ろし長編『贋学生』を刊行。
1951年(昭和26年) 34歳
12月 - 「いながぶり」を『近代文学』に発表。
1952年(昭和27年) 35歳
3月 - 神戸市外国語大学を辞し、妻子とともに上京。東京都江戸川区小岩町に居を構える。東京都立向丘高等学校定時制の非常勤講師となる。
7月 - 「兆」を『新日本文学』に発表。この年、安部公房、真鍋呉夫らの「現在の会」に参加。庄野潤三、吉行淳之介、安岡章太郎、小島信夫、奥野健男らの「一二会」を結成。この頃、庄野の紹介で大阪ABC放送のラジオ番組用に「硝子障子のシルエット」などの短篇(のちに「葉篇小説」と称される)を書く。
1953年(昭和28年) 36歳
10月 - 「子之吉の舌」を『文學界』に発表。「一二会」解散後、庄野潤三、吉行淳之介、安岡章太郎らと「構想の会」を結成。家庭をかえりみず家に帰らないことが多くなる。
1954年(昭和29年) 37歳
6月 - 奥野健男、吉本隆明らと雑誌『現代評論』を創刊。
4月 - 「帰巣者の憂鬱」を『文學界』に発表。
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1954年10月 『おきなわ』№40 島尾敏雄(江戸川区小岩4ノ1819)「『沖縄』の意味するもの」
10月 - 島尾の浮気による激しい嫉妬が原因で妻・ミホが心因性反応を発病。

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1972年3月 『青い海』11号 「琉球弧が歩みだすために 島尾敏雄」
 ◇1975年4月 『新沖縄文学』28号 島尾敏雄、大城立裕、牧港篤三「鼎談・沖縄で何を書くかー『新沖縄文学賞』設定にあたって」

1972年1月『現代の眼』赤瀬川原平・制作「現代読書考
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1972年1月『現代の眼』赤瀬川原平・制作「現代読書考」◇中央下に『毛主席語録』が見える。その隣に『周恩来語録』がある。一番上の方に富村順一も見え、『反国家の教室』と題し新川明、川満信一の著者名がある。『思想の科学』をもじって『地層の科学』は遊びがすぎる。岡本太郎の太陽の塔、『現代の眼』がゴミ缶に入っているのは愛嬌である。ほかに稲垣足穂や澁澤龍彦、金子光晴、花田清輝、島尾敏雄などの名前がある。
 

1971年5月 檸檬社『黒の手帖』創刊5月号 赤瀬川原平「櫻画報」