1975年2月 雑誌『青い海』40号 「沖縄の食べもの文化考/豚の泣く日」
1898年、那覇区泉崎の豊盛書林と、西の三笑書店には沖縄県尋常小学校読本も販売しているが、一般書も扱っている。世界年鑑、中等東洋史、中等日本歴史、算術新教科書、新撰算術、新式速記術、新撰日本外史、通俗世界歴史、世界文明史、詠歌自在、詠歌辞典などがある。
同時期の『琉球新報』には一般書や印刷物の広告が載っている。今でいう通信販売である。大阪の芳文館写真部「奇形嬌態裸体美人写真」、大阪の明文社の「画入男女たのしみ草紙」などである。学生向けの通信教育に東京学館の「自宅独習生徒募集」や帝国中学協会「諸学講義録」があるが、どちらも英学、国語学、心理学、論理学、教育学、算術、詩文学、幾何学、三角法、簿記学、代数学、化学、速記学などで内容は共通している。相前後して「ライオンはみがき」、「鳥井合名会社」の広告も目立つ。

1900年、村田弥三郎が、那覇警察署前で東京各新聞の取次ぎを始めている。博愛堂(小沢朝蔵)も新聞広告に近事画報社の「戦時画報臨時増刊号・日本海大海戦紀念帖」を載せ売り出しを図っている。近事画報社は1901年の『琉球新報』に広告「通俗小説文庫ー毎月1冊刊行」を載せている。並んで、東京日本橋の三越呉服店や「中将湯」の広告もある。
1902年の『琉球新報』の広告に京都の島津製作所の「博物地理歴史標本」がある。04年の広告には太田胃散、浅田飴、今治水なども出てくる。07年には十合呉服店(大阪・神戸・京都)、アサヒ、サッポロ、エビスビールの広告も目立つようになる。08年の広告に「実業之日本」、1911年の広告には博文館の常用日記や、「女学世界」、冨山房の「新日本」がある。那覇の円山勉強店の「キリンビール」売り出し広告もある。
1905年11月23日ー志賀重昴、粟国島来着→著1909年『大役小志』
1906年3月5日ー菊池幽芳、粟国島に来着/10月ー『地学雑誌』第18年第214号□脇水鉄五郎「沖縄視察談・粟国」
粟国に来島した志賀重昂
1905年11月23日ー午前3時、運輸丸、久米島発▼6時、珊瑚礁の激浪を琉球形小船にて乗り切り、渡名喜島上陸(略)10時半、粟国島著、上陸、粟国は渡名喜島を距る15浬、面積半方里、磽确たる一珊瑚島、而かも戸数8百余、人口5千余、食糧に欠乏するを以て蘇鉄を食ひ、婦女は那覇、首里に下女奉公をなし、男子は琉球本島及び布哇等に移住する者多く、鱶ノ鰭、烏賊、鰹を輸出す▼夕、那覇港着、上陸。→近代デジタルライブラリー - 大役小志
 志賀重昂(しが しげたか、文久3年11月15日(1863年12月25日) - 昭和2年(1927年)4月6日)は、日本の地理学者、評論家、教育者、衆議院議員。誕生日は9月15日(1863年10月27日)ともいう。矧川(しんせん)・矧川漁長を号した。明治38年(1905年)、東京地学協会主幹・大日本水産会幹事の資格で、樺太を視察した。また、海防艦「松江」で沖縄列島を巡回した。翌年、南樺太領有に関しアレクサンドロフスク・サハリンスキーで開かれた日露委員会に出席し、約半年、同島の測量・伐採・撮影をした。→ウィキペディア
 
 
志賀重昂関係資料
1905年11月13日『琉球新報』「志賀重昂氏と本県」
1905年11月15日『琉球新報』「尚家の晩餐会」「講演会」
1905年11月19日『琉球新報』「松江丸乗込員の歓迎会」
1905年11月25日『琉球新報』笑古(眞境名安興)「久米島通信ー志賀矧川氏の來島」 
1905年11月29日『琉球新報』「志賀・中川氏講演会」
1906年2月11日『琉球新報』「県外名士の沖縄観(大阪毎日新聞「大東島」転載)」
1908年9月15日『琉球新報』「志賀重昂氏の書簡」
1909年4月13日『琉球新報』「沖縄青年会二十年記念会ー志賀講演「琉球の発達」」
1911年2月28日『沖縄毎日新聞』志賀 川「琉球建築及史料保存の必要」

1922年2月11日ー新城三郎、那覇市三重城近くの借家で生まれる。父・蒲は山原船の船頭。従兄弟の安里蒲の商売(薪)も手伝っていた。出生時は奄美近海に流されていた。母カマと姉(ウト)が世話をした。
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写真ー新城三郎の父・蒲と母カマ(抱いているのは新城栄徳、二人にとって初孫である。)

〇向宣恭・伊是名朝信(朝宜三男、生没年不詳)は明治大正時代に郵便局に勤務し、糸満郵便局で定年退職し、那覇上之屋に居を構え、その夫人が作る首里仕込みの豆腐餻が近くの辻町で評判となり、この豆腐餻作りで晩年の生計が助けられた。朝信の一人息子の向得遠・伊是名朝義がロシア革命の影響を受けて沖縄の左翼活動の嚆矢となった為、勘当されて壷屋地区に移り住み政治活動を行った。 →ウイキ

1924年3月-伊佐三郎、粟国尋常高等小学校訓導
1925年4月14日『琉球新報』「志賀重昂氏宅に『中山門』の扁額」
1926年5月20日『沖縄朝日新聞』「除幕式を終えて」
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1926年5月2日ーベッテルハイム記念碑(ベッテルハイム師が歴訪した10カ国の石をちりばめた記念碑)除幕式。右端上が島袋源一郎□ベッテルハイム記念碑除幕式は午後3時より波上護国寺境内に於いて挙行。来賓は亀井知事、佐伯裁判所長、志賀重昴、羽田内務部長、岸本那覇市長、知花朝章、里見学務部長、金城那覇市会議長ら。司会者は伊東平次、聖書朗読は佐久原好伝、祈祷が芹澤浩、除幕が知花朝章、建碑之辞、決算報告がイー・アール・ブル、讃美歌は合唱隊、祝祷が神山本淳。記念写真は久志写真館。
1927年4月-新城三郎、粟国尋常高等小学校入学/5月ー伊佐三郎、白金小学校(牧口常三郎校長)に新里朝彦の斡旋で同校訓導
1929年4月ー仲里誠順「万人屋」開業

1934年1月ー新城三郎、那覇市辻町(御願の坂)國吉料理店で板場修行。同年の粟国出身の調理士は、四つ竹の新里。みはらしの玉寄松。玉川の仲間、一味亭の新城、仲里、山城、新城。京ヤの又吉。國吉料理店は与那  風月ロの糸洲、仲里、新里。三杉ロの福本。幸楽の安里、新川幸栄。美崎の玉寄米吉、赤嶺、玉寄三郎。花咲の上原保一、新里次郎、上原健夫。木村屋の安里善徳。ならはら館の上原。宝来館の新城。山本は浦崎。川津館の新城。モリタ館の与那城。
業者ー万人ヤの仲里。朝日ヤの神里。三角ヤの吉元。みかさヤの与儀。井筒ヤの新里。一味ヤの新城。福力ヤの神里。公園入口の金城。朝日橋前の新城。松田橋前の新城。安里松竹の糸洲。
1935年8月『関西沖縄興信名鑑』ー東淀川区之部 安里善盛(大戦前に那覇に引き揚げ食堂経営、戦争で一家全滅)、仁祥、善太郎(のち安村書店主)、勇祥(のちレストランアサヒ経営)
1936年10月2日ー沖縄県知事正五位勲四等・蔵重久「粟国村字東9490番地の新城蒲(50)、8月1日午後9時に那覇市北明治橋右海岸に於いて那覇市垣花町1の88平良カメ(31)が溺死せんとするを救助したるは殊勝なりよって金1封を贈りこれを賞す」
1939年4月5日ー安里幸一郎、粟国村字東で生まれる。父・宗幸、母チヨ(イザニサ大ヤー)

1946年から47年まで戦地や他府県からシマンチュが引き揚げてきて粟国島の我が家の周囲は賑やかになった。しかし生活は貧しく心を癒すものを求めた。その一つが村芝居であった。やがて我が家の隣に茅葺のクラブが建てられ伊江島ハンドーグァーや大新城親方などの芝居が旧正月に演じられた。伯父・玉寄貞夫は初期のころからの中心的に芝居活動をやってきた。1956年、玉寄貞夫の従兄弟・安村善太郎、勇祥兄弟の多額の寄付でクラブを鉄筋コンクリート建てにする(写真・左)。
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1948年ーガーブ橋前に「大洋食堂」(勢理客(町田)定正)

1949年
安里大通りに「丸屋食堂」そば・すし・めし(久場景善)。7月ーホテル新風荘(崎原マサ)民政府構内に開業。8月ー料亭「喜仙」(仲本盛智)。9月ー料亭「幸楽」、安里に「丸久食堂」(久高将金)。11月ー真和志に食堂「ゆたかや」(西銘政弘)、那覇市場前に「木村屋食堂」

1950年
国際劇場前に「みなと屋」(豊見山義康)、2月ー元国際食堂跡に「井筒屋」、7月ー那覇料理屋組合が毎月第二日曜を公休とする、「一富士」みつ豆・冷し西瓜(当真嗣正)、9月ー那覇区に井筒屋新装開店、神里原に大衆食堂「三角屋」そば・すし(渡口トミ)

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写真・沖縄調理師会ー前列右から安里信祐(現・伊勢海老料理「味の店三郎」店主)、新城三郎、左端に玉寄米吉
1950年ー沖縄と奄美出身者で調理師会「沖美会」結成。中村喜代治、新城三郎、玉寄博昭、福永平四郎、赤崎一成、又吉太郎らが参加□奄美が日本復帰する1953年に「沖縄調理師会」と改称。

1951年
1月ー那覇料理組合・花咲、喜仙、花園、南海、清風荘、清風、松屋、美園、那覇、香那恵、皆美亭、若梅、幸楽、田鶴、三原、新栄亭、新風荘、オール倶楽部、ほがらか亭、やよい、よつ竹、若杉、玉家、八千代、有楽、松竹、だるま亭、よかろう、左馬、若藤、春芳、一心亭、一廣、ときわ、松の家、美杉、一楽、やすらか、栄亭、よし乃、新月亭、大楽。糸満町にみなとや飲食店(新城野枝)。安村勇祥(新城三郎従兄弟)、平和通りで「かき氷屋」開店。□→「レストランアサヒ」/1986年2月ー安村勇祥『想いでの記』。
7月ー那覇市10区に琉球料理「玉川屋」うなぎ蒲焼。10月ー料亭那覇がうなぎ料理、12月ー神里原に食堂「美松」手打そば。
1951年             『球陽新報』「沖縄そばの味自慢ー宮里政栄(大阪西成区鶴見橋)」

1952年
5月ー神里原に「龍凰閣」「台北楼」、「レストランアサヒ」

1955年5月ー安里幸一郎、オジ玉寄松のいる料亭松乃下に見習いとして住み込む。

1956年2月ー粟国島で「親子ラジオ」譲渡式/4月ー末吉保朝(粟国中学校教諭)、文部省派遣で大阪市文の里中学校へ/1959年2月ー『オキナワグラフ』「発足した沖縄唯一の事務機のデーパト合資会社・沖縄事務機社(新里有四郎社長)」/5月ー宜野湾市大山で雑貨商「ジミーグロセリー」開業□→2006年8月『Jimmy’s 50th Anniversary 1956~2006』株式会社ジミー/6月8日ー『琉球新報』「粟国村のソテツは村の守り神」。



1957年3月 与那国善三『新沖縄案内』沖縄観光協会/印刷・おきなわ社
○広告「沖縄唯一の百貨店 観光お土産にもっとも喜ばれる品々」「サービスのオアシス 料亭小川荘(小橋川和子)」「沖縄観光協会指定旅館 鶴よし」「ホテル琉球」「沖縄観光協会指定 沖縄ホテル」「コザホテル(国吉鶴子)」「大津旅館(津波幸盛)」「ホテル森乃(名嘉真キヨ)」「沖縄観光協会指定旅館 初音館」「沖縄観光協会指定 観光ホテル厚養館(岸本金光)」「料亭・山手(長峯春良)」「料亭・登美の家(金城利江)」「料亭・新鶴(我那覇文子/佐久本嗣子)」「料亭・那覇/東京支店・琉球亭なは(上江洲文子)」「レストラン松屋(前田義善)」

1959年2月ー新城三郎、[食堂]経営。
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1960年              川崎お大師様の近所で伊礼松子が「沖縄ソバ」「三月菓子」を自家製造販売
1960年1月8日『琉球新報』島袋盛敏「仲宗根章山翁の思い出ー首里城懐古」(写真/)仲宗根真吉、摩文仁憲和、新垣良光、島袋盛敏。明治42,3年)
1960年1月10日『琉球新報』「新春インタビュー石野記者/朝倉文夫×浜田庄司」

1960年1月17日『琉球新報』坂口総一郎「順応する生活態度ー40年前クリ舟で体験した人生観」

1960年10月8日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと①島本豊氏(日航沖縄支店長)独自の風土活かせ」
1960年10月9日『琉球新報』「座談会/本土経済人の見た沖縄ー観光地として有望」今里広記/湯浅佑一/五島昇/鹿内信隆
            「観光沖縄にひとこと②松川久仁男氏ー海の特色売り物に
1960年10月10日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと③太田守徳氏(国際中央通りほしい立派な歩道」
1960年10月11日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと④儀間光裕氏ーきたないガーブ川」
1960年10月12日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑤東盛良恒氏ー”南国沖縄„打ち出せ」
1960年10月13日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⓺島袋清氏(ハワイ球陽観光団長)全住民も関心持て」
1960年10月14日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑦宮里辰彦(リウボウ専務)政府、住民も協力を」/糸満盛信「沖縄の古武術」①
1960年10月15日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑧荻堂盛進氏ー島ぐるみで協力を」/「あれから15年ー本土の沖縄開拓村を行く 千葉県三里塚の沖縄農場」
1960年10月16日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑨宮里定三氏ーホテル施設の充実」→2016年6月ー那覇空港見学者デッキに「沖縄観光の父・宮里定三」(ブロンズ像)設置
1960年10月17日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑩宮城仁四郎氏ー花いっぱい運動を」
1960年10月18日『琉球新報』「あれから15年ー本土の沖縄開拓村を行く 東京新生会」                


1972年10月 『米の味』グラフ社


1975年5月 江原恵『まな板文化論』河出書房新社

1976年7月 『月刊食堂別冊「天ぷら」柴田書店〇天丼の店(中西吉太郎)は大阪ミナミにある小さな店で、、私もかれこれ10回は食べている。熱々で美味しい。


1991年7月 周達生『東アジアの食文化探検』三省堂〇沖縄の「肉」/沖縄の特徴/イトウリ・ニガゴイー沖縄では、中国南方諸省の人びとが好むヘチマを「ナーベーラー」といい、苦瓜を「ゴーヤー」といい、種々の野菜料理を作っている。


1991年12月 イヴ・コア/宮崎信之『クジラの世界』創元社


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字東の我が家(ニーブーヤー)の周辺、左上がブートゥー大ヤー/粟国島

我が家(ニーブーヤー)の通り
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ブートゥー大ヤー/私(新城栄徳)は4、5歳の頃、この家によく出入りし主人の安里蒲翁から蓄音機で意味不明な琉球古典音楽を聞かされたり、床の間の中国の「福神」の軸絵を描いている現場に居合わせた。また、祝い事で御馳走の「三枚肉」を腹いっぱい食べたら脂に酔ってしまった。それ以来、三枚肉は脂をのけて食べるようになった。

1961年5月29日ー第二回粟国郷友会総会(レストランアサヒ)
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1963年
6月6日ー粟国郷友会4代目会長に屋宜宗一

『御膳本草』右は1963年8月発行の當間清弘編、左は前出の麦門冬家の旧蔵(コピー)

南方熊楠宛の大正7年9月書簡に、末吉安恭が「『御膳本草』(著者は国王の侍医たりし渡嘉敷と申す人)には羊とせるも、山羊のことに候。・・・」/左が麦門冬家旧蔵の『御膳本草』(コピー)、右が中城御殿の旧蔵(コピー)
11月ー安里幸一郎、大阪南の割烹関西で調理修行。

1965年
5月 源武雄『琉球歴史夜話』月刊沖縄社/印刷・緑地印刷事業股份有限公司
○廃藩置県直前の辻遊郭/黒糖文化史/イモの文化史/パインの歴史/泡盛と歴史/琉球料理の話/豪華な御冠船行事
5月23日ー粟国郷友会5代目会長に安村善太郎

2003年1月24日「関西沖縄』報⑤

1966年 田島清鄕『琉球料理』月刊沖縄社/1955年8月30日『琉球新報』田島清鄕「盆と切離せぬ琉球料理」

1957年1月29日『沖縄新聞』「田島清鄕ーその道を語る『三百種もある琉球料理』」/1958年2月19日『琉球新報』田島清鄕「御膳本草と琉球料理ー栄養本位に調理する」

1966年11月『月刊専門料理』の創刊

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安里蒲1986年2月ー安村勇祥『想い出の記』「父(安里蒲)は、若いころ那覇港のワタンジ前で燃料の薪を商っていた。商売も順調に行き、生活は粟国村では上の部に属していたといえよう。父が那覇で商売をしている関係で、村には長男の善盛兄の家族3名と祖母と私(勇祥)と妹のトシが残っていた。」



1967年2月『沖縄タイムス』「ふるさとの顔 粟国村」
                                                                               
1986年1月『オキナワグラフ』「現代の名工 安里幸一郎さん」  

1994年7月『沖縄都ホテル20年史ー万国津梁に夢はせて』桑原守也「はるけき思い出のいくつか」、早野充・加藤忠雄・親川幸男「”味”の魅力を語る」
 
1967年
1月 日本料理研究会『日本料理』19巻新年号□川島四郎①「酒一合と牛乳一合の比較論」/白井喬二②「味の始まり」/加藤藤吉③「江戸から東京へ97大正世相史」清水桂一④「料理品名考(18)清水鮓年表」

①1895-1986 昭和時代の栄養学者。
明治28年2月8日生まれ。陸軍で軍用食糧を研究し,携帯食糧などを考案。桜美林大教授,食糧産業研究所所長などをつとめた。栄養と食物についての執筆や講演で活躍した。昭和61年12月3日死去。91歳。京都出身。東京帝大卒。著作に「まちがい栄養学」など。→コトバンク
②[生]1889.9.1. 横浜 [没]1980.11.9. 茨城,龍ケ崎 小説家。本名,井上義道。 1913年日本大学政経科卒業。『忍術己来也 (じらいや) 』 (1922~23) ,『神変呉越草紙』 (22~24) の2つの長編忍法小説が芥川龍之介,菊池寛らの激賞を受け,『新小説』に執筆の機会を得て作家としての地位を固めた。→コトバンク
③手元に『全国花街連盟名簿』(加藤藤吉編、全国花街連盟発行、昭和31年)と題されたB六判の小冊子がある。そこには、北海道から鹿児島にいたるまで、都市部を中心に600を超す関係団体(料理業組合、芸妓組合、置屋組合など)とその所在地が掲載されている。『日本花街志』の著者紹介によると、加藤は明治27(1894)年に東京に生まれ、浅草の花街に家業の料亭を継ぐ。その後、全国の花街の研究を志し、昭和4(1929)年には『柳橋沿革誌』(柳橋開橋祝賀会事務所)を編集した。→転点notes
④清水 桂一 (1907-1980)

2月 日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本人の舌と鼻」/添田知道「調理界の長老 原勇蔵」/加藤藤吉「江戸から東京へ(98)大正世相史」/清水桂一「料理関係書一覧表」/知切光蔵「天狗の系譜」
3月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本人と菓子(その1)」/加藤藤吉「江戸から東京へ(99)大正世相史」/清水桂一「料理関係書一覧表」
4月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本人と菓子(その2)」/加藤藤吉「江戸から東京へ(100)大正世相史」/清水桂一「料理関係書一覧表」/内田春夢「春夢覚え書ー『日本は敗戦国ではないー負けたのではないのである・・・・地球上から人類を抹殺するが如き野蛮極まる戦争を、日本は、全世界の人類の幸福のために、率先、放棄しただけなのである』これは先年逝去された元陸軍大将荒木貞夫氏の”終戦の弁„である・・・」
5月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本人と菓子(その3)」/加藤藤吉「江戸から東京へ(101)大正世相史」/清水桂一「律令時代の鮓」/内田春夢「春夢覚え書きー酒とは愚痴なもの」
6月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「漢方薬と食物」/加藤藤吉「江戸から東京へ(102)大正世相史」/清水桂一「コンフリー料理」/内田春夢「春夢覚え書きー鰻串」
7月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本人とチーズ」/清水桂一「明治の料理」
8月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「食塩恐怖症」/加藤藤吉「江戸から東京へ(104)大正世相史」/清水桂一「明治の料理あつめ」/内田春夢「春夢覚え書きーうすれゆく」/佐藤伍一「アメリカ見てある記(14)」
9月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「はき違えの栄養知識 その1」/加藤藤吉「江戸から東京へ(105)大正世相史」/清水桂一「明治の料理屋」/内田春夢「春夢覚え書きー河岸揚 東京の魚市場は、築地、千住、大森の三か所である。このほかに私営の魚市場も数か所、あることはあるが、それはごく小規模のものである。・・・」/佐藤伍一「アメリカ見てある記(15)」
10月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「はき違えの栄養知識 その2」/加藤藤吉「江戸から東京へ(106)大正世相史」/清水桂一「明治の料理屋」/内田春夢「春夢覚え書きー立ん坊」/佐藤伍一「アメリカ見てある記(16)」
11月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「はき違えの栄養知識 その3」/加藤藤吉「江戸から東京へ(107)大正世相史」/清水桂一「明治の料理屋3」/内田春夢「春夢覚え書きーメガネの黒と白」/佐藤伍一「アメリカ見てある記(17)」
12月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「はき違えの栄養知識 その4」/加藤藤吉「江戸から東京へ(108)大正世相史」/清水桂一「明治の歳末ー明治26年ごろ沖縄那覇の歳暮」/内田春夢「春夢覚え書きー赤い米」/佐藤伍一「アメリカ見てある記(18)」
1978年
1月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「湖水の魚を主食にしているトルカナ族」
2月ー日本調理師協会(大阪市南区)『協調』「沖縄支部3周年記念」(写真)
4月ー沖縄調理師協会「25周年記念 春の料理大展示会」□宮里定三「近年、沖縄の観光産業は著しい発展を示し、沖縄経済を支える柱として各界の注目をあつめ、今後ますますその発展の可能性を秘めた産業であります。この様な時期に、沖縄調理師会の皆様が、沖縄観光のため縁の下の協力者として、料理の研究に努力されているのは、今後の沖縄観光産業の発展に大きく貢献するものと期待し、又感謝申し上げる次第であります。」/中村喜代治「思い出せば昭和27年の9月に沖美会として初めて調理師会が私達数名の人達が相寄り同時に日本料理研究会琉球支部も共に発足を見る事が出来ました。26年前の事です。後に沖美会が沖縄調理師協会となり研究会の琉球支部が沖縄支部と改名し、今日に至って居ります・・・」
4月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「軍用の乾燥野菜を宇治の製茶のヒントから」/清水桂一「室町時代料理外史ー室町時代の食生活など」/田中喜一「東京名所めぐりー向島編②」
5月ー渡口初美『琉球料理』国際料理学院
5月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「沙漠に生きる(その1)沙漠と砂漠というものー莫という漢字は『無し=なし』という意義で漠の字は『三水ヘン=サンズイヘン』に莫を配して『水の無いこと』を表している・・・」/清水桂一「室町時代料理外史ー室町時代の食生活など」
6月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「動物と植物とが共存共栄する輪廻」/清水桂一「室町時代料理外史ー室町時代の食生活など」
7月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「『航空糧食』の由来」」/清水桂一「室町時代料理外史ー室町時代の食生活など」
8月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「非常災害時の準備食糧ー過般の仙台の地震で、都会での生活の脆さをウンと思い知らされた筈である。水道、ガス、電気、みな一斉に止まってしまう。都会では井戸はみな潰してしまっている。薪や炭を売っている店は一軒もない。・・・」
9月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本に米が余り出した理由ー食べなくなったわけ」/清水桂一「室町時代料理外史ー室町時代の食生活など」
9月ー全琉球調理師協会『さんご』
10月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「飢餓に対する子供と成人の耐度の差」/清水桂一「室町時代料理外史ー室町期のお茶」
11月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「素晴らしい主食・米」/清水桂一「料理品名考(その1)」
12月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「アフリカ原住民生活の知恵」

1979年
1月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「羊水をのむー羊年に因んで」」/清水桂一「料理品名考(その3)」
2月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「どうしても肉が食べたいのなら羊肉で(その1)ー羊年に因んで」/清水桂一「料理品名考(その4)」
3月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「どうしても肉が食べたいのなら羊肉で(その2)ー羊年に因んで」/清水桂一「料理品名考(その5)」
4月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「どうしても肉が食べたいのなら羊肉で(その3)ー羊年に因んで」/清水桂一「料理品名考(その6)」
5月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「どうしても肉が食べたいのなら羊肉で(その4)ー羊年に因んで」/清水桂一「たべもの語源(その7)」/谷村信行「美味求真」
6月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「どうしても肉が食べたいのなら羊肉で(その5)ー羊年に因んで」/三宅孤軒「茶事懐石一と通り(その1)」/清水桂一「たべもの語源(その8)」
7月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「どうしても肉が食べたいのなら羊肉で(その6)ー羊年に因んで」/三宅孤軒「茶事懐石一と通り(その2)」/清水桂一「たべもの語源(その9)」
8月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「どうしても肉が食べたいのなら羊肉で(その7)ー羊年に因んで」
9月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「エデンの楽園の木の実はリンゴではなくイチジクである(その1)」/清水桂一「たべもの語源(その10)」
10月ー沖縄県調理師協会『季刊・沖調』創刊号
10月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「エデンの楽園の木の実はリンゴではなくイチジクである(その2)」/清水桂一「たべもの語源(その11)」/金野新次「公害に強くなろう」
11月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「エデンの楽園の木の実はリンゴではなくイチジクである(その3)」」/三宅孤軒「茶事懐石一と通り(その3)」/清水桂一「たべもの語源(その12)」
12月ー日本調理師協会『協調』「沖縄支部5周年記念・秋の料理大講習会」(写真)
12月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「マダガスカル島縦走記ー日本の食糧危機の対処策を求めて(その1)」」/三宅孤軒「茶事懐石一と通り(その3)」/清水桂一「たべもの語源(その13)」

1969年
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写真左手前が安里幸一郎氏、左奥のほうが新城三郎で手前一人置いて中村喜代治氏
9月15日ー沖縄調理師協会(福永平四郎会長)30人、敬老の日で那覇市首里の沖縄厚生園(渡名喜聡園長)を訪れ、お年寄り180人に昼食の料理を提供。この時の一日園長は平良那覇市長夫人の信子さん、ウエイトレス姿でかいがいしく配膳に立ちまわった。

11月9日ー安里幸一郎「魚安」経営


1970年
10月ー沖縄調理師協会(四元実会長)『あだん』発刊号

1971年4月 新島正子『琉球料理』新島料理学園
1975年5月 江原恵『まな板文化論ー生活からみた料理』河出書房新社
1976年1月 日本料理研究会『日本料理』通巻39巻1号□川島四郎「外国の旗が樹つお正月料理」/「料理古書の栞・割烹講義録」/日本料理研究会沖縄支部長・徳田池信、支部師範・安里幸一郎

1976年4月ー琉球調理士会『珊瑚』№3

1976年6月 『青い海』54号 嶋袋浩「ヒーバチよ 卓にーわが地場産業論ー」
1976年7月ー『天ぷら◎その起源・技術・奥技』(月刊食堂別冊)柴田書店□「大阪千日前・天丼の店ー中西吉太郎」
1977年2月ー松本嘉代子『沖縄の行事料理』月刊沖縄社
1977年2月ー『日本料理●庖丁の世界とその伝承』(月刊専門料理10周年記念別冊)柴田書店
 

1990年2月 宮城信行『二足の草鞋ー中村喜代治の軌跡』中村佳代/1961年4月『オキナワグラフ』「琉球料理、日本料理研究会沖縄支部(中村喜代治会長)の肝いりで全日本料理展に初参加」

写真左から新城栄徳、中村佳代さん、安里長清氏(元 料亭左馬料理長)、仲里正雄氏/業務用食材「和楽路屋」前◎安里長清氏(元 料亭左馬料理長)ー沖縄の高級珍味「豆腐よう」あさと屋本舗ー沖縄県宜野湾市嘉数4-26-6 ☎FAX 098-897-7717/写真左から新城栄徳、翁長良明氏、安里長清氏(元 料亭左馬料理長)、仲里正雄氏


2004年11月 『ちゃんぷるー』<第二特集・沖縄の食にこだわる人々>ライフスタイル研究所スタジオ29


2008年『TERRE』№13 <特集・食をめぐる柔らかな革命>コスモ石油


早野充 2019年7月10日 ー19世紀のラ・ルース事典(フランス語版)に、日本のリューチューという所は胡椒が採れる、と私が沖縄に来る前の事、其れから探して・・・胡椒とは此のインドネシアナガコショウの事だったのです。