1987年7月 早乙女勝元 編著『写真版 東京大空襲の記録』新潮文庫
早乙女勝元ー1970年に「東京空襲を記録する会」を結成。/2002年に東京都江東区にオープンした東京大空襲・戦災資料センター館長就任。東京大空襲・戦災資料センターとは、アメリカ軍B29爆撃機による東京大空襲の惨状を次世代に語り継ぎ、平和の研究と学習に役立つことを願って、4000名を超える方々の募金で設立された、民立・民営の資料センターです。2002年の3月9日、戦禍のもっとも大きかった江東区北砂の地に開館。さらに2007年3月には、いのちと平和のバトンを未来にきちんと受け渡すために、増築を実現しました。

「超空の要塞 B29」
一般市民8万人以上が焼死、100万人以上が被災した東京大空襲や、1万人が焼死したとされる大阪大空襲は、B-29の重要な「戦果」とされる。さらに日本各地の港湾・航路に空中投下機雷を散布して海上封鎖を行い、国内航路に大打撃を与えた(飢餓作戦)。

東京大空襲
「知恵蔵2015の解説」太平洋戦争末期の1945(昭和20)年3月10日未明、東京の下町を中心に行われたアメリカ軍による大規模な空襲。東京への空襲は、44年11月24日から、サイパン島などのマリアナ諸島を基地とするB29爆撃機によって100回以上繰り返されていたが、いずれも日中に1万メートル以上の上空から軍需工場を目標とするものだった。しかし3月10日の大空襲は、深夜午前0時8分から2時間半にわたって、B29約300機(基地を出撃したのは325機、東京まで来襲したのは279機)が高度2千メートルという低空から侵入し、町工場と住宅地がひしめく市街地に爆撃を敢行。アメリカ側の公式見解では、「日本の中心部に集中している工業的および戦略的な目標を破壊すること」が目的とあるが、一般民衆への無差別爆撃で戦意を喪失させる意図は明らかだった。B29は、長時間燃焼するナパーム弾を江東区・墨田区・台東区にまたがる40平方キロメートルの周囲に投下し、火の壁で住民の逃げ道をふさいでから、その内側に1665トンの焼夷(しょうい)弾を投下。市街地は完全に炎の海と化し、26万8358戸が焼失。100万8005名が罹災し、死者は8万3793名、負傷者4万918名とされるが(警視庁調査)、実際の死者は10万名を超えると言われている。3月18日に焼け跡を視察した昭和天皇は、「これでとうとう東京も焦土となったね」と感想をもらしたという(加瀬英明『天皇家の戦い』)。
太平洋戦争中における日本側の死者数が東京大空襲に匹敵するのは、沖縄戦(45年4月1日の米軍上陸から6月23日の戦闘終了まで)の軍・義勇軍の死者10万人、県民の死者15万人(総人口の3分の1)、広島の原爆投下による12万人、長崎の原爆投下による7万人だけである。非戦闘員の一般市民を標的に大量殺傷を行う行為は戦争法規違反であるが、空襲から19年後の64年、日本政府は、爆撃計画を立案・指揮したカーチス・E・ルメイ司令官に航空自衛隊育成の功で勲一等旭日大綬章を授与している。毎年3月10日には東京都主催の追悼行事が東京都慰霊堂で行われているが、東京大空襲の記録を残すための施設は、国立にも都立にもなく、民間の「東京大空襲・戦災資料センター」があるだけである。
(秋津あらた ライター / 2009年)

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1974年 『月刊ペン』<特集 ”狂乱”時代をどう生き抜くか>5月号
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①松浦総三「虚構の時代に乗ずる法」

松浦総三 まつうら-そうぞう
1914-2011 昭和後期-平成時代のジャーナリスト。
大正3年11月25日生まれ。改造社の編集者などをへて,昭和30年からフリー。45年早乙女勝元らと「東京空襲を記録する会」を組織し,事務局長。「東京大空襲・戦災誌」を刊行し,50年菊池寛賞。GHQによる言論弾圧史の研究,天皇制批判など,反権力の立場で社会批評を展開した。平成23年7月6日死去。96歳。山梨県出身。中央大中退。本名は総蔵。著作に「占領下の言論弾圧」など。→コトバンク