アメリカ属国化、ここに極まれり
 日本テレビ『行列のできる法律相談所』で弁護士の橋下徹と共に出演し人気をとったものに、やはり弁護士の丸山和也が居る。丸山和也・自由民主党参議院政策審議会副会長は2016年2月17日、参議院の憲法審査会において、以下の発言を行った。「憲法上の問題でもありますけれど、ややユートピア的かもわかりませんけれども、例えば、日本がですよ、アメリカの第51番目の州になるということについてですね、憲法上どのような問題があるのか、ないのか。例えばですね、そうするとですね、集団的自衛権、安保条約はまったく問題になりません。例えば、いまは拉致問題というのがありますけれど、拉致問題すらおそらく起こっていないでしょう。それから、いわゆる国の借金問題についてとかですね、こういう行政監視のきかないような、ずたずたの状態には絶対なっていないと思うんですよ。これはですね、日本がなくなることではなくて、例えば、アメリカの制度になれば(略)日本州の出身が米国の大統領になるって可能性が出てくるようなんですよ。(以下略)」 〇丸山 和也(まるやま かずや、1946年1月23日 - )は、日本の政治家、元法務官僚、タレント、歌手。自由民主党所属の参議院議員(2期)、自由民主党参議院政策審議会副会長。自民党法務部会長 弁護士(登録番号:13673、第一東京弁護士会)、丸山国際法律・特許事務所代表。丸山総合法律事務所代表。→ウィキ

 橋下徹大阪市長による文楽への補助金見直し問題で、『上方芸能』は2012年6月号で「文楽を守れ!―132氏からの熱いメッセージ」と題した特集を組み、ドナルド・キーンや竹下景子がメッセージを寄せた。キーンは、文楽が「生を受け」た大阪での橋下の伝統軽視の姿勢を、「真にひどい話」と呆れ、日本における古典教育の希薄さを指摘しながら、「もし(文楽が)死に絶えるのなら、大阪の政治家の蛮行を世界は決して許さず、また忘れることもないでしょう」と批判した。
〇ドナルド・キーン(1922年6月18日 - )は、アメリカ合衆国出身の日本文学者・日本学者。日本文学と日本文化研究の第一人者であり、文芸評論家としても多くの著作がある。日本国籍取得後、本名を出生名の「Donald Lawrence Keene」から、カタカナ表記の「キーン ドナルド」へと改めた。通称(雅号)として漢字で鬼怒鳴門(きーん どなるど)を使う。→ウィキ
〇『琉球新報』2012年12月18日  <金口木舌>ドナルド・キーンさんの記憶
戦争とは悲惨なものだ。67年前に苛烈な地上戦を経験した沖縄では、その教訓を伝えようと継承を続けている
▼このほど来県した日本文学者のドナルド・キーンさんは、米軍の通訳として沖縄戦を体験した。平和主義者のキーンさんは「無意味に大勢の人が死んだ。生涯忘れられない」と、戦争のむごさを語っている
▼しかし、キーンさんの心には、当時感じた沖縄の人の温かさも残っているようだ。戦争のさなか、部下だった県系2世の比嘉武二郎さんに、おばの家に昼食に招待され歓待を受けたという。「敵を見たら憎いと思うはずだが、『ようこそ』と丁寧に言われ、とても温かい雰囲気だった」と振り返る
▼「沖縄戦 米兵は何を見たか」(吉田健正著)でも、このエピソードが紹介されている。昼食をもてなされたキーンさんは、片言のウチナーグチで「クヮッチーサビタン(ごちそうさま)」と感謝した。キーンさんが唯一知っているウチナーグチだったという
▼国や文化が違っていても、人々はつながり合い、心を通わせることができることを教えてくれる。「人間は交渉ができる」とキーンさんが言うように、各地で起こる紛争を平和的に解決し、二度と愚かな戦争を繰り返してはならない
▼67年前の記憶を今も語り続けているキーンさん。私たちも、多くの犠牲によって学んだ教訓を必ず次の世代につなげられるはずだ。

折口信夫「日本文学系図」

1976年12月発行の中公文庫『折口信夫全集』第31巻の「日本文学系図」は、昭和の初年の頃から著者が考案し、大きな紙に図式化し、時に触れて幾度か紙を継ぎはぎ、補訂したもので、原図はすこぶる錯雑していて、未だ定稿とは謂えないと思われるが、著者の日本文学史の体系を知るに簡便であるので、あえて巻末に収録した」とある。全集31巻には、折口の書簡が紹介されている。ネット上には上記の図の鮮明なものがあり、折口の「日本文学の発生」も読める。大正10年8月に大阪朝日新聞編集所に宛てた絵葉書には表の琉球美人は「尾類ズリ(遊女)といふもの」と書かれている。



1966年6月 添田知道『日本春歌考 庶民のうたえる性の悦び』光文社
〇添田知道そえだともみち(1902―1980) 文筆家。筆名添田さつき。放浪の演歌師として著名な添田唖蝉坊(あぜんぼう)の長男。東京・浅草に生まれ、日本大学中学中退後、堺利彦(さかいとしひこ)の売文社で働く。父親に倣って演歌の作詞・作曲などを手伝い、また大衆小説も書く。戦争下の1942年(昭和17)、自分が卒業した貧民街の万年小学校長坂本龍之輔をモデルに、書き下ろし長編小説『教育者』で第6回新潮社文芸賞を受ける。全四巻、2400枚のこの大長編は、未完のまま終わった。63年(昭和38)『演歌の明治大正史』で第18回毎日出版文化賞を受賞。ほかに『日本春歌考』(1966)などがある『『添田唖蝉坊・知道著作集』五巻・別巻一(1982・刀水書房)』 。→コトバンク


1972年7月ー竹中労(装幀・挿絵 竹中英太郎)『琉球共和国ー汝、花を武器とせよ!』三一書房
1975年8月ー竹中労(装幀・挿絵 竹中英太郎)『琉歌幻視行ー島うたの世界』田畑書店


1974年8月 内山惣十郎『浪曲家の生活』雄山閣
〇内山 惣十郎(うちやま そうじゅうろう、1897年12月19日 - 1973年2月6日)は、日本の演出家、劇作家、脚本家、作詞家、俳優である。浅草オペラの時代(1917年 - 1923年)に、その草創期から関わった。榎本健一『カフェー・ナンセンス』の作詞家としても知られる。→ウィキ





大修館書店『カラーワイド新国語要覧』2000年4月「古事記(史書)奈良時代成立」/東京書籍『新総合
図説国語」2005年2月「古典文学地図 大和・奈良」〇右の図説国語には「インターネットで広がる国語の世界」が補充資料として付く〇大修館書店ー漢文や言語学関係に強く、月刊『言語』は、言語学に関する専門誌として、また月刊『しにか』は、東アジア文化圏の歴史、習俗、文化を考える雑誌として多くの論文を掲載していた。(『しにか』は2004年3月号より休刊。『言語』は2010年1月号より休刊)。辞典分野では諸橋轍次編著の『大漢和辞典』で古くから知られ、『英語動詞句活用辞典』『前置詞中心英語表現辞典』など実用性を目指した英文法、語法関係の辞典を刊行している。→ウィキ。→「大修館書店:漢字文化資料館」
〇東京書籍ー日本における教科書出版の最大手として有名だが、ほかにも学習参考書やそれ以外の一般書籍(主に教育関係書、人文書、文芸書)も多く出版するなど、事業領域は幅広い。凸版印刷グループの連結決算対象企業。2009年に設立100周年を迎えた。→ウィキ

<契沖の万葉注釈書『万葉代匠記』
 布施の自宅から歩いても行けるが、地下鉄「今里」(→グーグル/ヤフー画像「地下鉄今里駅」)から直ぐのところに妙法寺がある。妙法寺は聖徳太子の創建と伝えられる。宝歴の頃(1751~64年)の妙法寺は一時衰退していたが、泊中法典和尚が住職し大黒天信仰を鼓吹してより時運隆盛になり「南にては今宮のゑびす、東にては今里の大黒」と喧伝され、庶民の群参で賑わった。と大黒天が祀られているお堂の前の解説板にある。境内の一角には契沖の墓(右端)と、その左側には師の丯定(かいじょう)、母、兄の墓が並んでいる。境内の左右にソテツがある。□→画像「 妙法寺 契沖」

契沖の出家した妙法寺(今里)

契沖は、本姓下川氏。尼崎藩士元全の子として1640年(寛永17年)尼崎で生まれる。11歳で大阪今里の「妙法寺」に入り、13歳の時に剃髪、高野山で10年間仏教を学んだ後、23歳で大阪生玉の「曼陀羅院」の住職となる。しかし、数年を経ずに「曼陀羅院」を去り、諸国修行の旅に出、30歳の頃に和泉の国に移り住む。最初の5年間は久井村の辻森家に滞在、仏典や漢籍に親しみ、その後南池田村万町の伏屋長左衛門(重賢)方に移り、その邸内に養寿庵という小庵を建ててもらいそこで、和漢書の研究に精励した。40歳のとき、再び今里の「妙法寺」に戻り、住職となった。この「妙法寺」時代に、徳川光圀の知遇を得、画期的な万葉注釈書『万葉代匠記』を執筆、その後の国学万葉研究に大きな影響を与えた。

元禄3年(1690)51歳のころ、妙法寺を弟子の如海に譲り、自分は大阪高津の円珠庵に退いた。円珠庵(→グーグル画像「円珠庵」」)時代の契沖は、俗務に煩わされることなく、ひたすら著作と研究に没頭した。また、弟子の今井似閑や海北若冲ら門人の求めに応じて『万葉集』の講義も行っている。そして数多くの著作を残し元禄14年(1701)1月25日、円珠庵で62歳の生涯を閉じた。明治中期以後、契沖研究が盛んになり、円珠庵と契沖遺書の保存運動がおこる。 円珠庵と墓は、大正11年3月史跡保存物に指定され、また契沖遺書は散逸を防ぎ保存の万全を期するために、同年6月大阪府立中之島図書館へ寄託された。。(大阪府立中之島図書館HP)□→HP「契沖研究会」(会長・吉原栄徳・園田学園女子大学名誉教授)