1971年4月 あすの沖縄をつくる若い広場『青い海』創刊
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写真の『青い海』は沖縄県立図書館所蔵/私のは合本しているので表紙は広げられない。


 1971年2月、大阪都島の「沖縄関係資料室」に行くと、来客があったようでテーブルに「沖縄をつくる若い広場 青い海趣意書」が置かれていた。夕方、仕事から帰宅したオヤジさん(西平守晴)から「同郷(八重山)で元琉球新報記者の津野創一君が沖縄の若い人向けの雑誌を出すというので、新城君もひとつ協力してくれ」という。翌日、大阪北区太融寺の阪急東ビルのオキナワ通信に居候の『青い海』編集室を訪ねた。津野編集長の早口で語るビジョンに意気投合した。大阪の編集員は儀間比呂志さんの紹介で万木恵美子さんがいた。津野編集長は「編集デスクがほしい」と漏らしていた。
 後日、西平のオヤジさんを紹介してほしいと、京都長岡天神でミニコミ紙「琉球弧」を出していた高良重一氏が沖縄から来た友人・小渡照生氏を同行してきた。大阪港区の池島保育園(西平夫人が園長)の管理人室でオヤジさんを交えて話を聞いた。小渡氏は、大阪で図書館関係の仕事をしたいということだった。私は早速、沖縄の雑誌『青い海』が編集者を募集しているが、それをしながら図書館の仕事を見つけたらどうかと提案した。いつの間にか小渡氏も『青い海』の編集デスクに納まり、高良氏も『青い海』に協力し、東京支社長もつとめた。私も病院調理師の合間に週に2回は『青い海』でゴロゴロするようになった。

『青い海』創刊号/儀間比呂志(行動会員)「表紙のことば」
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1974年7月31日『琉球新報』津野創一(月刊「青い海」編集人)「おち穂ー雑誌二題」
○ぼくの、風変わりな友人の一人である新城栄徳君が、例によってひょっこりやってきて「これ、あげます」と言って、一冊の雑誌を置いてひょう然と帰って行った。ザラ紙の、30ペ-ジほどの冊子「おきなわ」創刊号である。昭和25年4月の発行だから、24年ほども前の、紙の事情もまだわるいころのものだ。発行所が東京になっていて、広告が、当時の在京県人の経済活動を問わず語りに語る。
巻頭言には、講和前の沖縄の帰属問題を憂う在京県人の気持ちをうつして「その時が、来るまで、県人の心の立ち直りに資する」ために発行した、とはっこうの趣旨がうたってある。その時は、翌年9月にやってきて、対日平和条約は沖縄を日本から切り離すことを明文化して調印された。残念ながら、その時の周辺の「おきなわ」は手元にない。しかし、おそらくは在京県人を中心として、郷土沖縄をうれう声が全ページに盛られているだろう、と想像する。
数日後、再びひょっこりやってきた新城君は、「おきなわ」が30号ほど続いたこと、したがって「青い海」が沖縄の月刊誌としてやっとのことで最長不倒記録?をつくったことを伝えて、ひょう然と帰っていった。ぼくたちが、ささやかな月刊雑誌の発行を思いたったのが70年の暮れだった。以来、いくつかの危機と分裂と業務不振などの曲折を経て、いま沖縄の郷土月刊誌「青い海」は8月号で35号を数える。「その時」にそなえたものではなかったが、復帰というその時を境に、編集の方向も少しずつ変わっている。「こころの立ち直りに資する」ほどの自信はないけれども、沖縄をともに語らい続けようというのが、発行人の山城賢孝とぼくと、スタッフの心意気である。
「それにしても、24年前に『おきなわ』をつくった先輩たちを、何ほどものりこえてはいませんね」。ひょっこりやって来た新城君のひょう然と帰る前の捨てゼリフである。ナイーブなぼくは、著しく傷つき、そのことばの鉄ついにうちひしがれて、気恥ずかしさから、沖縄と東京と大阪をせわしく立ち回る”いちむどぅやー人生”に埋没する。新城君はぼくの友人である。新城君は「ぼくは『青い海』の友人」なのだ、という。
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雑誌『おきなわ』

1978年11月  那覇カルチュアクラブ『東西南北』津野創一「土着から普遍へ。『青い海』のモノローグ」

1979年3月 金城共同法律事務所『沖縄の現代と課題』津野創一「今なお模索の中でー『青い海』八年目の自戒」
1979年10月 「第一回青い海児童文学賞」
1981年2月 『青い海』「青い海バックナンバー №1~№99」
1981年9月 『第三文明』田村紀雄「十年目の『青い海』と山城賢孝」
1989年2月 津野創一『遺書を持つ女』双葉社
1989年12月 津野創一『碧の殺意』双葉社
1993年8月 『青い海の彼方へー津野創一の世界 遺稿&追悼文集』ニライ社(電話098-867-9111)


1997年8月ー『敍説』新城栄徳「雑誌『おきなわ』総目次」

1975年9月14日ーパーランクーの音が大阪大正区に鳴り響く
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1986年4月ー『小説推理』津野創一「響け!パーランクー」

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最近、沖縄の雑誌『青い海』を卒論のテーマにする大学生が増えてきたので、参考として掲載す。



1979年3月 「青い海媒体資料」


津野創一さん(東大寺)
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琉球新報記者・津野創一さん

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1963年 京都名所遊覧・知恩院ー左から3人目が津野創一さん□知恩院の国宝の山門(高さ24メートル、幅50メートル、木造の門としては日本最大)が見えるので立ち寄る。知恩院は、全国に7000余の寺院を擁する浄土宗の総本山。法然上人が晩年住まわれ、念仏の教えを説かれた寺という。江戸時代、元和7年(1621)、二代将軍徳川家忠が三門を建立、また寛永16年(1639)に徳川家光公が御影堂を建立するなどし、現在の寺が形づくられている。


写真左端が津野創一さん


津野創一さん(道頓堀)

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津野創一資料(動画)

1978年11月10日 那覇カルチャークラブ『東西南北』津野創一「LOVEの復活を!」
○・・・これは、今年の5月にNHKの仕事で宮崎県の詩人・南邦和氏と対談した時に感じたことだが、地方の中央志向、ないしは”リトル東京化〟は、ことの他すすんでいる。朝日新聞の天声人語を担当した、今は亡き深代惇郎氏は、そんな状況をLOVEの関係からLIKEへ、と書いた。つまり、LOVEは異質なものへの愛で、LIKEを同質なものへの愛とする。日本のそれぞれの地域が、異質であった時代の愛は影をひそめ、同質化されていくことへの寂寥と、深いきづながときほぐされることの不幸を指摘していた・・・



船越義彰氏、大城立裕氏らと/新島正子さんと