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 古波蔵保好という名前を知ったのは、『青い海』1971年4月号の古波蔵氏の「非常識青春論ーハジの効果について」を読んでからである。それから古本屋などで古波蔵氏の本を見かけると買っていた。国吉真永『沖縄・ヤマト人物往来録』(同時代社1994年)に古波蔵氏は「在京沖縄県人のジャーナリストも少なくない。戦前派で現在も評論家として活躍しているのが古波蔵保好(76)=港区六本木=である。東京外語大2年のとき左翼劇団に入って逮捕され、それが原因で退学させられた。帰郷して、1931年に沖縄日日新聞記者になる。1938年、全国紙の毎日新聞に転じ、名文記者で鳴らした。在職中から、文春など月刊誌や週刊誌、日刊紙に社会評論を寄稿していた。同新聞社を定年退職後も評論家として文筆活動を続け、著書も多い。1982年『沖縄物語』で日本エッセイストクラブ賞を受賞している。古波蔵には『料理沖縄物語』があり、来年は『芸能沖縄物語』の出版を予定している。『これで沖縄物語』三部作が完結するわけで、肩の荷も下ります』と笑顔で話した」と紹介されている。

1940年 東京日日新聞社川崎通信部に勤務。先輩記者の仲吉良光の娘・アサと結婚。


1963年4月ー古波蔵保好『非常識夫婦論』文芸春秋新社/古波蔵保好『私設名画館』(洋酒マメ天国第28巻1968年5月)


1939年5月23日ー『沖縄日報』


1971年5月29日『サンデーおきなわ』







写真上ー國吉眞哲翁仏間の古波蔵氏。/中ー新聞社仲間の比嘉美津子さんと。/國吉真哲さんを語る会会場で、左から伊波廣定氏、古波蔵さん、新城栄徳。


古波蔵夫人の鯨岡阿美子さん。

1971年4月の『青い海』創刊から古波蔵保好さんの「非常識青春論」が連載された。創刊号には「ハジの成果」、2号に「失恋バンザイ」が書かれている。大城立裕氏も創刊号に「復帰と沖縄」を書かれていた。大城氏は古波蔵さんが亡くなられたとき『沖縄タイムス』に追悼文を寄せられている。古波蔵さんは1957年12月の『沖縄タイムス』に「私と沖縄」を書き柳田国男、鳥居龍蔵、戸坂康二らとの出会いに触れている。





新城栄徳宛の古波蔵さん書簡
1990年、私は沖縄県立図書館で新聞を見ていた。1921年6月の『沖縄日日新聞』でそこに池味幸一という教師が「最後に綴方の自由選題に付いて白楊君に与ふ」を書き児童の成績として尋常6年の古波蔵氏の綴方が取り上げられていた。早速その新聞コピーを古波蔵氏におくった。氏の来信に「ご厚意のおかげで、小生が安里尋常高等小学校(当時は女子師範学校附属小学校)の尋常6年だったころの綴方に出会うことができて、なんとも懐かしい気持ちになっております」と記され末尾で「めったに手紙を書かず、不義理をしてしまうこともよくあるような小生が手紙としては比較的長い文章をさしあげるのは小学校6年だったころの自分に合わせて下さった貴殿への感謝と受取って下さると、幸せです」とある。古波蔵氏の手紙は、他に国吉真哲翁の遺族にあてた手紙のコピーもあるが、これは古波蔵氏の青春時代をよく表している。


1994年4月号『太陽』№394 古波蔵保好「『松山御殿』の琉球式珍味佳肴」