1990年11月 日本放送出版協会『NHKさわやかくらぶ』「沖縄の心を彫る●儀間比呂志」









1991年5月 斎藤公子編 絵・儀間比呂志 作詞・木村次郎 作曲・丸山亜季『わらしべ王子』

□2004年8月26日「蘇鉄庵」ー小泉自公政権の危機管理の無責任さはリストラありきの郵政民営化にも見られ資本の論理では離島も破滅だ。リストラ優先は安全の手抜きにつながりその結果、台風被害、福井県美浜原発死傷事故や、米軍ヘリ沖国大墜落事故も招いてしまった。国防とは国民の安全を守ることで「死の商人」(ブッシュ)に奉仕し海外に自衛隊を派遣し殺されることではない。自衛隊は自然災害に強い国土をつくる公共事業などに協力させることも重要な任務であるべきだ。福井県の若狭湾に突き出た常神半島の常神岬は蘇鉄自生の北限地とされ天然記念物の「大ソテツ」がある。沖縄に「米軍基地」が差別的に集中しているように、若狭湾周辺は「原発」が集中している。賢しらに言うことではないが、どちらも地域住民をなだめるために巨額の資金(税金)が動いている。

2004年8月26日 新城栄徳『蘇鉄庵』(題字・国吉真哲)「危機管理」

○我が琉文菴は近鉄奈良線の布施駅近く(上の赤丸・東大阪市)にある。奈良公園や、唐招提寺・薬師寺、大和文華館(山口宗季の花鳥図、座間味庸昌の人物画が所蔵されている)、近鉄資料室や大阪ミナミ(道頓堀)に出るのに便利である。奈良はシルクロードの終点と言われているが、1977年発行の辛島昇①編『インド入門』に「日本人のシルクロード好きは、毎秋奈良でひらかれる正倉院展にどっと人があつまる事情と軌を一にしたものである」とし「むかし大東亜共栄圏という日本を扇の要においたひろい意味での文化圏を捏造した国粋主義に通じる」とする。奈良は東大寺の大仏や興福寺の五重塔、阿修羅像でも知られ世界遺産でもある。
①辛島昇 からしま-のぼる
1933- 昭和後期-平成時代の南アジア史学者,インド史学者。
昭和8年4月24日生まれ。専門は南アジア史。昭和50年東大教授。のち大正大教授。平成15年「History and Society in South India:The Cholas to Vijiayanagar(南インドの歴史と社会─チョーラ朝からビジャヤナガル王国へ)」で学士院賞。19年文化功労者。東京出身。東大卒。著作に「インド入門」など。→コトバンク


奈良近鉄駅ビル3・4階に歴史・観光の展示館「なら奈良館」(旧・奈良歴史教室)/源平争乱によって焼失した東大寺を、重源はその資金を広く寄付にあおいで各地をまわる勧進上人となって、宋人陳和卿の協力を得て再建にあたりました。そのとき採用されたのが、大仏様の建築様式で、大陸的な雄大さ、豪放な力強さを特色するもので、この東大寺南大門が代表的遺構です。

国宝・銅造盧舎那仏坐像/重文・如意輪観音坐像/大仏殿にある広目天像  多聞天像 /小説家して有名な森鴎外は、大正6年に帝室博物館の総長に任命され、東京・京都・奈良の帝室博物館を統括する要職でした。大正7年から10年まで、秋になると鴎外は正倉院宝庫の開封に立ち合うため奈良を訪れている。
□2005年5月2日ー自宅で去年上六の天地で買った『沖縄アーカイブス写真』(生活情報センター)を見る。関連して、沖縄タイムス出版部が編集し琉球銀行が発行した『あんやたん-沖縄、写真が語る50年』(1995年9月)、『時の謡人の譜・街の紋-山田實写真50年』(2003年1月)を見る。平凡社の1963年3月の『月刊百科』は「『PR誌』-機能・沿革と現状」、1968年3月の『月刊百科』には勝連哲治「沖縄の経済」が載っている。1970年から日本メール・オーダー社から出はじめた『アルファ大世界百科』と、1972年版の平凡社『世界大百科事典』が手元にある。南方熊楠や末吉麦門冬を単に博覧強記の人として片付ける嫌いがあるが、今はネットの時代である。熊楠や麦門冬が大衆を喜ばせるために書いた情熱はネット空間でますます輝くであろう。

 2006年5月13日ー午後、近鉄丹波橋で降りて、御香宮神社に行く。名水「御香水」が境内にある。この神社には京都市天然記念物のソテツがあり、その実は「延命厄除そてつ守」になっている。鳥せい本店側では名水「白菊水」、月桂冠大倉記念館では名水「さかみづ」を飲んだ。同時に昼間からきき酒で顔が赤くなった。

御香宮神社ー近鉄奈良駅西口を出て地下道を通って近鉄高天ビルに出て歩道を西の方に歩くと直ぐ通称「山の寺」という看板が見える。奧まったところに「葵」の紋を打った山門が建っているところが浄土宗降魔山「念仏寺」である。門をくぐると降魔山と記された燈篭がある。その傍らに蘇鉄。1614年(慶長19年)11月15日徳川家康が大阪冬の陣の折、木津の戦いで真田幸村の軍勢に敗れ、奈良へ逃げ延び、この地の小字山の寺に至って、桶屋の棺桶の中に隠れ、九死に一生を得た。その後に、家康が豊臣方を破って、天下が治まった、1622年(元和8年)徳川家康の末弟で当時伏見城代を務めていた松平隠岐守定勝が、ここ油坂・漢国町を買い受け、袋中上人を開山として諸堂を建立したのが、山の寺「念仏寺」の始めである。/浄土宗降魔山「念仏寺」

〇御香宮神社は徳川家と深い関わりがある。徳川家康が豊臣秀吉のあとをうけ伏見城で天下の政事をとったおり、尾張、紀伊、水戸の御三家の藩祖と、秀忠の娘千姫はこの伏見で誕生している。御香宮を産土神として特別な崇敬を払っている。御香宮の神門は1622年に水戸中納言頼房(水戸光圀の父)が伏見城大手門を寄進したものと言われている。
□御香宮神社は江戸末期の慶応4年(1868)正月に勃発した「伏見・鳥羽の戦」では、吉井孝助率ら官軍(薩摩藩など)の屯所となった。片や幕府軍は大手筋通りを隔てた南側200mほど離れた伏見奉行所に陣(伝習隊、会津藩、桑名藩、新撰組などが)を構えた。大砲・鉄砲などの弾が激しく飛び交ったが、御香宮は幸いにして戦火には免れている。官軍の屯所となった境内には「明治維新伏見の戦跡」の石碑がある。□→1983年9月ー山本眞嗣著・水野克比古撮影『京都伏見歴史紀行』山川出版社

近松門左衛門
井原西鶴(浮世草子)、松尾芭蕉(俳諧)とともに元禄三大文豪として名高い浄瑠璃・歌舞伎作者の近松門左衛門の墓は尼崎の広済寺(→HP)と、地下鉄谷町線「谷町6丁目」下車、谷町筋を南へ 谷町7丁目交差点南へすぐ、ガソリンスタンド手前の狭い道の奥にある。墓は、当初近くの法妙寺境内にあったが、同寺は大東市へ移転し、墓だけは現在地におかれ、押し込まれたようにして残っていた。1980年に整備が図られ、国の指定史跡となった。【広済寺】尼崎市にある日蓮宗の寺(ソテツもある)。957年(天徳1)多田満仲が妙見菩薩を勧請して創建したと伝え、のち荒廃。1714年(正徳四)日昌が堂宇を建立。近松門左衛門の墓がある。俗称、近松寺。(広辞苑第四版)帰途、浄土真宗本願寺派西正寺のソテツを見る。□→「HP・近松のまち・あまがさき」
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2008年5月4日 午前9時半、あけみと散歩に出かける。司馬遼太郎記念館をのぞくと、竹富島などの映像が放映されていた。近鉄八戸ノ里駅から乗車し東花園駅で下車。12時半に元長栄氏宅に着く。前からお願いしておいた元長氏の「履歴書」をいただいた。氏は1969年8月、沖縄と本土を結ぶ月刊誌『沖縄ジャーナル』を大阪で創刊している。この雑誌は70年に『沖縄ポスト』と改題、10号で休刊。70年9月には元『沖縄ポスト』編集人の座喜味康夫が京都長岡町で『沖縄群像』を出している。偶然なことだが元長氏宅の近くには『青い海』編集デスクであった小渡照生①氏も住んでいる。ちなみに『青い海』社長の山城賢孝氏は元長氏の沖縄教員時代の教え子であった。
5月12日 3時ナンバの大阪府立上方演芸資料館に行く。この資料館も大阪のタレント知事のリストラの一つにあげられている。この知事は職員に「一緒に死んでくれ」と相変わらずのパフォーマンスで宮崎県の知事同様テレビにもよくとりあげられその経済効果は十分期待されている。それはさておきこの資料館で私の好きな浪曲「紺屋高尾」を篠田実、富士実、浮世亭雲心坊、東家燕左衛門の節で聞いた。芝居のビデオでは松竹新喜劇の藤山寛美の「紺屋と高尾」を見た。沖縄の歌劇の「染屋の恋唄」も紺屋高尾をアレンジしたものだ。私が沖縄近現代芸能史の源流というノンキなことを調べている最中に中国では大震災が起きていた。
5月14日 ナンバの日本工芸館に行く。沖縄の漆器展が開かれていた。数十年前になるが同館での沖縄展のおり、三宅忠一館長と儀間比呂志さんが会話しているのを間近で聞いたことがある。この時は、儀間さんとは面識はなかった。
5月15日 沖縄が密約復帰をした日で、戦前の1932年のこの日は犬養首相が海軍将校らによって射殺された国家改造クーデターテロ事件が起きている。同日、京都では葵祭がある。葵祭は何回か見ているから二千円札にちなんで宇治を散策。平等院に寄り「鳳翔館」ができていたので観覧、コンピューターグラフィックスによる彩色復元の平等院の映写はコンピュータ技術を駆使したものだ。また売店で絵ハガキを買い求めた際に、お釣りを二千円札でくれと注文したら二千円札は用意して無いとのことだった。鳳凰堂は何回も見ているので丁度修学旅行生とはちあわせしたので周辺(大書院、浄土院、羅漢堂、頼政の墓、不動堂)、宇治市源氏物語ミュージアムを見た。帰途、萬福寺を見学。
2012年5月 コルシカ島生まれのナポレオンは、新聞一紙は5千の兵に匹敵するとし新聞統制を計り活用した。駅逓頭・前島密が指導した『郵便報知新聞』が創刊された1872年、川崎正蔵は大蔵省の命で琉球物産調査に赴き「経済交流で琉球を日本に依存させよ」と主張して前島に認められて日本政府郵便蒸気船会社の副頭取に就任し、琉球との郵便航路を開設。73年には海軍大佐柳楢悦らが測量で来琉した。川崎は後に川崎造船所を興し神戸又新日報社、神戸新聞社にかかわる。郵便報知は後に報知新聞となり読売新聞と合併する。
□1918年9月 山本實彦『川崎正蔵』 
□1928年10月 『目録』(神戸 川崎男爵家蔵品入札目録)
□1936年2月 『神戸 川崎男爵家蔵品入札目録』
「支那宋、元古画の蒐儲に於いて、世界にその名を知られている川崎美術館は、神戸川崎男爵家の先々代・故川崎正蔵翁が明治23年神戸布引の邸内に建設されたもので、一に長春閣と呼ばれている。これは其当時翁と親交のあった伊藤博文公が命名されたのである。→当社(川崎重工業)の創立は1896(明治29)年10月のことですが、造船業の歴史としては、それより18年前から始まっています。創業者の川崎正蔵が1878(明治11)年に東京・築地に川崎築地造船所を開設したのが、当社の起源です。川崎正蔵は1837(天保8)年、鹿児島の呉服商人の子として生まれました。17歳(嘉永6年)で当時唯一の西洋文明への窓口であった長崎に出て貿易商の修行を積み、27歳(文久3年)のとき大阪に移って海運業を始めましたが、このときは、持船が暴風雨で遭難して積荷とともに海没したため失敗しました。その後1869(明治2)年に、薩摩藩士が設立した琉球糖を扱う会社に就職、1873(明治6)年には、大蔵省から委嘱されて琉球糖や琉球航路の調査を行いました。翌年には日本国郵便蒸汽船会社の副頭取に就任し、琉球航路を開設、砂糖の内地輸送を成功させました。この間に自分の運命を左右するような海難事故に何度も遭遇した正蔵は、自らの苦い体験を通して江戸時代の大和型船に比べて船内スペースが広く、速度も速く、安定性のある西洋型船への信頼を深めると同時に、近代的造船業に強い関心を抱くようになりました。1878(明治11)年、時の大蔵大輔(現在の次官)であり同郷の先輩でもあった松方正義などの援助があって、東京・築地南飯田町(現在の中央区築地7丁目)の隅田川沿いの官有地を借りて川崎築地造船所を開設、造船業への第一歩を踏み出しました。(→川崎重工業ウェブサイト)

 円山公園の蘇鉄/妙心寺退蔵院襖絵「山羊と蘇鉄」

1976年7月 沖縄の雑誌『青い海』通巻55号 榮喜久元「蛇身の美しい男と女の恋」

蘇鉄/榮喜久元『蘇鉄のすべて』
2004年1月31日『沖縄タイムス』新城栄徳(書評)ー榮喜久元『蘇鉄のすべて』南方新社/琉球学の巨人・東恩納寛惇の史料ノート(1926年)に蘇鉄極楽と題し「昔は『蘇鉄世』と云う語があった。金はあっても食いものがなかったのである」「蘇鉄地獄と云うのは食いものはあっても金のない事を意味する」と記されている。題からして寛惇は蘇鉄地獄の名称がお気に召さなかったようである。

『鹿児島大百科事典』で「蘇鉄(奄美)」を見ると榮喜久元氏が書いている。私は1970年前後に収集し今でも手元にある『与論島の民謡と生活』『奄美大島与論島の民俗』の著者として榮氏の名前は知っていた。

本書は『南海日日新聞』に連載したもので前記の著書でも蘇鉄については触れられている。榮氏は与論島で生まれている。そして「蘇鉄は島の生活のなかで大切なものです。いつしか(略)蘇鉄が地球上にあらわれた時代はいつであるか、ということも知りたいと思うようになりました」と本書を書き出している。国内の蘇鉄の巨木、蘇鉄の名前の語源、方言や、蘇鉄を素材にした文芸から民謡、蘇鉄の精虫、蘇鉄葉の輸出、「ソテツ地獄」などを面白く紹介している。

私の故郷・粟国島は「ソテツの島」とも言われている。『奄美郷土研究会会報』第34号の徳冨重成論文には蘇鉄が「与論島には粟国島から、多良間島には慶良間から移植されたという伝承がある」と紹介されている。那覇市久茂地で「居酒屋ひさみ」の経営かたわら「世界のソテツを守る会」を主宰する玉寄貞夫さんは粟国島の先輩でもある。その居酒屋で佐竹利子さんを紹介された。
佐竹さんは精米機・製粉機メーカー「サタケ」の代表者。父君の佐竹利彦は『植物研究雑誌』に「ソテツの変異株」などを発表するソテツ博士である。

那覇市資料館の川満洋子さんに「蘇鉄」を検索してもらうと「ソテツ」「そてつ」を合わせて1万5百件もある。本書はその大量の蘇鉄情報への案内書、または埋め立てなどの環境破壊の波が押し寄せている「琉球弧」への過去からの問いにもなっている。

1914年1月ー横山健堂『薩摩と琉球』中央書院