2017年11月1日~12月23日 立命館大学国際平和ミュージアム1階 中野記念ホール「儀間比呂志版画展ー沖縄への思いー」

立命館大学は西園寺公望を「学祖」としている。


2013年11月 金子豊・編『松山王子 尚順 全文集』榕樹書林
 1935年12月『琉球新報』ー「尚順男爵は貴族院時代、西園寺公望公の書を得たいと切望し公の甥高千穂男爵を介して公に申し出たが容易に望みを達しなかった。丁度其の頃大正4年、公が須磨に隠れて居られたことがあった。公は儒者の書が好きで京都の鳩居堂主人、熊谷氏が公の処に出入りしていたが、尚順男爵はこの鳩居堂と懇意であったので、或る時、尚順男爵は詩を鳩居堂に託し折があったら公へ御覧に入れるよう依頼しておいた。公は此の詩を御覧になりそれ程熱心かと云われて小幅を書いてくださった」。尚順と西園寺公との縁はこれで終わらない。尚順の次男尚誠の長女悦子(白光真宏会第二代会長、ワールドピースプレヤーソサエティ代表、公益財団法人五井平和財団会長)は1974年(昭和49年)10月18日、西園寺不二男次男の西園寺裕夫との結婚に伴い、西園寺昌美となる。

 関西での琉球関連の動きを見てみる。
1466年 琉球国王尚徳の使者芥隠承琥、足利義政に拝謁、方物を献ず。
       □7月28日ー琉球の使者一行が将軍・足利義政に謁見、方物も献上する。
        8月1日ー琉球正使・芥隠西堂から蔭涼軒(季瓊)真蘂に大軸(中国から琉球国王に贈られ        たもの)、南蛮酒を贈る。(義政時代6度目の琉球人参洛)。
    
1480年 足利幕府、応仁・文明の乱が終わったので琉球に朝貢船を送るよう島津忠昌に催促させる。
→足利将軍家の菩提寺「等持院」には歴代足利将軍の木像(肖像彫刻)がある。

「大沢文庫と沖縄<7>」□袋中上人は、当時伏見で掛川の城主松平隠岐守定勝の特別の帰依をうけて師権の契約を結んでいるが、その嫡子越中守定綱は後の松平定信であるが、将軍秀忠に随従して特別の信頼を受けて名声がたかかった。時の京都所司代板倉重宗を上人に紹介して特信者としたのもこの定綱である。京都所司代の権威は、当時京都御所ににらみをきかせて他に並ぶものがなかったのである。(略)夢にも考えていなかった上人との対面の機会を与えられて、尚寧王はこれが現実かとばかり感涙し歓喜したことであろう。→1966年12月10日『琉球新報』大島彦信(浄土宗名越大本山円通寺住職)「
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元沖縄都ホテル社長の桑原守也さん、京都西方寺の袋中上人(エイサーの祖)手植えの蘇鉄を前に(新城栄徳撮影) 1994年7月21日、桑原守也さんと連れ立って京都西方寺を訪ねる。住職の北村有信師としばし歓談。頂いた名刺には「うずまさ悟真寺、山城田辺・西方寺、自然幼稚園」とあった。


沖縄県立博物館・美術館 会場:企画展示室(3階)平成24年1月25日(水)~2月19日(日)
京都・檀王法林寺開創400年記念 琉球と袋中上人展―エイサーの起源をたどる―」
袋中上人(1552~1639)が京都に檀王法林寺を開創したのは、琉球から帰国後5年を経た慶長16年(1611)のことでした。本年で同寺は開創400年にあたります。袋中上人は仏教研究のため中国・明に渡ろうと試みましたが、豊臣秀吉の朝鮮侵略後間もない時期であったため、これを果たせませんでした。そこで、上人はルソンを経て琉球に上陸し、3年間の月日をこの琉球の地で過ごしました。その間、上人は琉球で浄土念仏の教化につとめ、尚寧王の帰依を受け、帰国後は『琉球神道記』『琉球往来』などを著しました。今日その著作は、古琉球の宗教世界や当時の風俗習慣などの文化を知る上で貴重になっています。本展覧会では、檀王法林寺開創400年を記念し、琉球に浄土念仏を広め、エイサーを伝えたといわれる袋中上人の事蹟を現存する文化財資料などを通して紹介します。

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2011年9月25日13時00分の京都教育文化センターで「琉球民謡伝統協会京都支部三周年芸能発表会」に新城あけみが舞踊で参加するというので、お供で同行する。7時前に自宅を出る。JR河内永和駅から京橋。京阪で三条駅に8時15分着。駅を出て直ぐの檀王法林寺の前で新城あけみを立たせて写真を撮る。この寺はエイサーの元祖といわれる袋中上人によって開かれた400年の歴史を誇る浄土宗の寺。

1634年 佐敷(王子)朝益、金武王子朝貞、玉城らを上洛させ、閏7月9日京都二条城で3代将軍徳川家光に謁見、代替りを祝賀させたのが始まり(次回から江戸参府)。→江戸上りは第1回目の1634年から最後の1850年まで、200年あまりの間に18回実施されている。琉球と江戸の往復には、およそ1年前後を要した。一行は琉球から薩摩を経て伏見までを船で、伏見からは美濃路(第7回までは鈴鹿路)・東海道を経由して江戸までを徒歩で移動した。季節風を考慮して初夏に琉球を出発、準備を整えて秋に薩摩を出て、江戸で冬を過ごしたのち、翌春にようやく琉球へ戻るという旅程であった。江戸上りの一行や琉球そのものを紹介するいろいろな出版物が広く世間に出回るようになり、行列の構成・服装等が描かれた墨摺りの瓦版や多色刷りの錦絵は、行列を見物する際のパンフレットの役割を果たした。また一方で、当時の知識人が琉球の地誌・風俗を詳しく記した書物も刊行された。→琉球大学

 1870年、回漕会社が東京-大阪間に定期航路を開設し、赤龍丸、貫効丸などが就航した。翌年の7月、廃藩置県が断行され琉球は鹿児島県の管轄となった。この年、のちの琉球処分官・松田道之は滋賀県令に就任。11月、松田道之と席貸大和屋小里の間にぎん(後の小三)が生まれる。
 コルシカ島生まれのナポレオンは、新聞一紙は5千の兵に匹敵するとし新聞統制を計り活用した。駅逓頭・前島密が指導した『郵便報知新聞』が創刊された。1872年、川崎正蔵は大蔵省の命で琉球物産調査に赴き「経済交流で琉球を日本に依存させよ」と主張して前島に認められて日本政府郵便蒸気船会社の副頭取に就任し、琉球との郵便航路を開設。73年には海軍大佐柳楢悦らが測量で来琉した。川崎は後に川崎造船所を興し神戸又新日報社、神戸新聞社に関わる。郵便報知は後に報知新聞となり読売新聞と合併する。 
 1875年9月、日本国郵便蒸気汽船会社解散にともない明治政府は大有丸を琉球藩に下付。11月、郵便汽船三菱会社が琉球航路を開始した。1876年8月27日の『朝野新聞』に「沖縄は他県からの商人50人、陸軍省派遣の職工138人、女性1人」と報じられた。同年、琉球正史『球陽』の書き継ぎが終わっている。1879年3月、松田道之琉球処分官が、後藤敬臣ら内務官僚42人、警部巡査160人余(中に天王寺公園に銅像がある後の大阪市長・池上四郎も居た)、熊本鎮台分遣隊400人をともない来琉し琉球藩を解体、沖縄県を設置した。この時、内務省で琉球処分事務を担当したのが西村捨三であった。5月には沖縄県令として鍋島直彬が長崎出身官僚32人をともない着任した。前後して、琉球藩王・尚泰は東海丸で那覇港を出帆。6月4日には神戸で2泊。6月6日に新潟丸で東京に向けて神戸港を出帆。
 1883年4月に岩村通俊が沖縄県令として赴任した。12月には西村捨三が沖縄県令となる。1884年2月6日、大阪中之島の自由亭で尚典新婚帰郷の饗応に岩村通俊、西村捨三、建野郷三らが参加した。3月12日に大阪西区立売堀に鹿児島沖縄産糖売捌所が設立された。5月12日には大阪北区富島町で大阪商船会社が開業。8月、尚泰侯爵、西村捨三と同行し大有丸で那覇港に着く。1885年2月、尚泰侯爵、西村捨三と同行し金毘羅宮参詣。西村は中井弘滋賀県令と計り尚泰に近江八景遊覧にさそう。8月には元彦根藩士で西村と同士であった横内扶が沖縄県七等属として赴任する。9月、郵便汽船三菱会
 1887年6月、尚家資本の広運社が設立され球陽丸を那覇-神戸間に運航させる。1888年4月に大阪西区立売堀南通5丁目に琉球物産会社「丸一大阪支店」を設置する。9月18日に丸岡莞爾が沖縄県知事として赴任。10月には塙忠雄(塙保己一曾孫)が沖縄県属として赴任した。
 1893年、京都で平安神宮の地鎮祭が行われ西村捨三が記念祭協賛会を代表し会員への挨拶の中で尚泰侯爵の金毘羅宮参詣時の和歌「海山の広き景色を占め置いて神の心や楽しかるらん」を紹介し、平安神宮建設に尚家から五百圓の寄附があったことも報告された。ちなみにこの時の平安神宮建築技師が伊東忠太であった。寺内某が来沖し、料理屋「東家」の協力を得て沖縄芝居の俳優らを雇い関西興行をなす(7月・大阪角座、8月・京都祇園座、9月・名古屋千歳座)。俳優のひとり真栄平房春は病没し大阪上町の了性寺に葬られた。9月15日に『琉球新報』が創刊された。発起人代表が尚順で、護得久朝惟、高嶺朝教、豊見城盛和、芝原佐一(京都出身、京都名産会社経営)、野間五造(岡山県出身、後に衆議院議員)は主筆、宮井悦之輔(元京都養蚕会社支配人、後に大阪の興信社に勤める)、大田朝敷、伊奈訓(新潟出身、県庁役人)、諸見里朝鴻の以上のメンバーで発足した。琉球新報創刊を報じたヤマトの新聞を見ることにする。京都『日出新聞』は「琉球新報-混沌たる暗黒の幕を破りて五百余万の王民に対し閃山一道光燈来の光景を与へんと期する琉球新報は本月十五日を以って第一号を発刊せり紙幅体裁固より内地の発達したる諸新聞紙に比すべくもあらざれど邦人をして琉球に於ける政治社会経済上の事実を知らしめ沖縄県民をして旧慣陋習を破り文明の空気に触れしむるの機関として裨益する処少なからざるべし発行所は那覇西村百二十三番地にして隔日刊行する由」と報じた。

1893年9月22日『日出新聞』                 

1894年2月、那覇の南陽館で第8回九州沖縄八県連合共進会が開催された。5月、沖縄尋常中学校生徒(伊波普猷、真境名安興、渡久地政瑚ら)が下国良之助教頭の引率で関西に修学旅行。下国は20歳のとき滋賀の学校に勤めていて中井弘の薫陶も受けているので関西には知人が多く、どこでも歓迎された。京都滞在中に学生数人は六孫王神社を訪ねて、天保三年の江戸上りの時に正使が奉納した額を書き写している。

1894年5月20日『日出新聞』

1896年11月、尚家一行(尚泰夫人マカト、尚寅、尚順、尚昌ら男14名、女17名)京都見物。

1909年4月『琉球新報』□師範中学旅行生の消息ー4月6日、火曜日、神戸、京都 午前9時半汽車にて神戸駅を発し12時京都に着。直ちに東本願寺に参詣致し建築の壮大な に驚き入り候。これより途中耳塚を右に見立て豊国神社に詣で旧伏見桃山殿の唐門大仏殿、国家安康の大鐘を見て博物館に入り歴史美術上の珍品に知囊を養い三十三間堂を経て桃山御殿に詣で血天井を見。妙法院西大谷を過ぎて清水寺に詣で候・・・。

1917年4月『琉球新報』□沖縄師範旅行たよりー午前8時、軽装して比叡山登りの道すがら、本能寺の信長墓を弔った。五尺ばかりの石塔で手向ける人とてもなくあはれ物寂しい。御所を拝して大学の裏道より、田圃の間にいで右に吉田の山を見つつ銀閣寺にいった。庭園の美、泉石の趣、形容も及び難いが義政将軍風流三昧をつくしたところかと思うと折角の美景も興がさめてしまう。狩野元信の筆や、弘法大師の書などは珍しいものである。ここから大文字山の森の下道を通ってその名もゆかしい大原白河口に出た。比叡山の登り口である。流汗淋満として瀧なす泉に咽喉を濕し息もたえだえに登ると境は益々幽邃である。ラスキンが山を讃美して、宗教家には聖光を付与す・・・。




新城栄徳「熊野人・桑原守也さん」
 1993年9月、新宮市を訪ね、徐福の墓、神倉神社、熊野速玉大社を参拝。新宮図書館で熊野特修『熊野誌』37号を入手、中瀬さんは「南方熊楠・母すみの日記」を書かれていた。旧知の元沖縄都ホテル社長で熊野人の桑原守也さんが「私の熊野ショックー古道・熊楠・沖縄」と題し「南西諸島の島々に熊野分社が十社もあるのは潮流による文化の交流によるためであろうが、那智からの渡海上人といわれた日秀上人は琉球王朝の帰依をうけ又、京都三条駅前の法林寺の住職となった袋中上人は、有名な琉球神道記を残している。浄土宗の流布がこの地に熊野信仰を広めたものであろう」と書かれている。桑原さんとは私の息子の自宅から二駅先の駅がご自宅なので、大阪に行くと、いつも近鉄資料室、袋中上人のゆかりの地、京都の古書展などに同行している。

沖縄都ホテルで新城栄徳と桑原守也氏


桑原守也氏著書

○2013年8月 ゆたかはじめ『沖縄の鉄道と旅する ケイビン・ゆいレール・LRT』沖縄タイムス社□鉄道屋の重いー(那覇市)松川ににある沖縄都ホテルの裏手には、路面電車のレールの橋げたを支えていた土台が今でも残っている。(略)この土台が残っているのに」は、一人の男の執念と努力があった。沖縄都ホテル初代社長の桑原守也さんである。彼は近鉄の出身で、鉄道の専門家、いわば鉄道屋であると同時に、あらゆることに興味と関心をもつ勉強家でもあった。刑務所の実態を見るためにタスマニアまで出かけたり、アメリカのペリー提督が那覇に来たとき、琉米両国がどんな料理でもてなしたかを、当時の原典まで調べ上げて復元した。この接待料理は、今でも都ホテルがイベントの折りに提供している。・・・


 2014年4月13日 沖縄県立博物館・美術館入口の蘇鉄