儀間さんとは、いつのまにか沖縄での空間を共有することが増えていた。が、親族の話は聞いたことが無い。亡くなられた後に、那覇中学校の同級生(儀間さんの姪)に聞いた。儀間さんは長男、妹二人、弟二人の家族でターリーは沖縄戦で亡くなった。アヤーや亡くなって今年33年。

親族に囲まれた儀間さん

 2009年9月発行の儀間比呂志×MONGORU800『詩画集 琉球愛歌』に儀間崇が、僕が先生を知ったのは5年前。「百々」の制作にあたって、たくさんの作品を見せて頂きました。(略)戦前に十代で家出!、南洋での暮らし、戦後の大阪、現在の沖縄・・・。「ボクは動いてないと死んでしまいますよ。ハッハッハ・・・」とシャレにならないジョークを飛ばされる程、先生は常に動き続け、先の先まで見据え、今も日々作品を創り続けています。その姿を見ると、もの凄いエネルギーをもらえて、自分もガンガン行かないと!という気になります。僕は先生と同じ儀間というのですが、儀間家には昔から「亀は食べちゃダメだ」という言い伝えがあって、その事を詩にした曲があるのですが、先生にも同じ言い伝えがあり、ルーツは一緒だと分ったり・・・、とあるように先祖は久米村の蔡氏と分かる。
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久米村蔡姓

1982年2月 沖縄の雑誌『青い海』№110 <特集・久米三十六姓よ どこへゆく>

1982年2月 沖縄の雑誌『青い海』№110 仲井眞元楷「蔡氏逸話集ー蔡氏物語・蔡氏の不思議ー」

仲井眞元楷の原稿

富島壮英「久米三十六姓とは何か」/神坂次郎氏と富島壮英氏(右)

 

  1971年2月、大阪都島の「沖縄関係資料室」に行くと、来客があったようでテーブルに「沖縄をつくる若い広場 青い海趣意書」が置かれていた。夕方、仕事から帰宅した西平さんが「同郷(八重山)で元琉球新報記者の津野創一君が沖縄の若い人向けの雑誌を出すというので、新城君もひとつ協力してくれ」という。翌日、大阪北区太融寺の阪急東ビルのオキナワ通信に居候の『青い海』編集室を訪ねた。津野編集長の早口で語るビジョンに意気投合した。大阪の編集は儀間比呂志の紹介で万木恵美子がいた。津野は「編集デスクがほしい」と漏らしていた。
 1971年4月に『青い海』創刊号が発行された。表紙絵「舞姫」は儀間比呂志作、儀間は「この作品で云いたいのは、沖縄がどんな状況にあろうと、民族の誇りと、文化を守ろうとする若人のけがれのない瞳の美しさなのです。」と強調している。以後『青い海』表紙の儀間作品は2号、3号と続き、以後も3回、口絵も多数。その当時は渚ゆう子の歌「京都の恋」がテレビなどで流れて、歌詞の「わたしの心に鐘が鳴る 白い京都に 雨が降る」は寒い京都と相まって今でも覚えている。渚は『青い海』創刊の趣意書に「気にいった『青い海』」として、安仁屋宗八、琉王、堀江謙一とともに推薦文を寄せ、創刊号の青い海芸能に「渚ゆう子の人と歌とふるさとと」と登場して「ウミナイビ姿」の写真も載っている。『青い海』創刊当時と違って今はネットの時代なので検索すれば直ちに渚ゆう子画像・動画は過去から現在までなんぼでも出てくる。
  1972年『青い海』2月号に大阪都島の沖縄関係資料室が紹介され私の発言「沖縄のいぶき、臭いのあるもの、すべてを(沖縄の)集収する。この小さな部屋に沖縄を凝集させる」を載せ新城栄徳君の抱負であるとする。だが、すべてのウチナー資料を資料室に集めるということはスペースもだが、限界がある。そこで関西にある公共機関(図書館・博物館)の沖縄関係所蔵資料の目録をヒマがあるとつくっていった。大阪府立中之島図書館には、伊波普猷の著書は『古琉球』をはじめ、戦前のものだけでも18冊、大城立裕の著書は14冊ある。新聞は琉球新報、沖縄タイムスの両支社に10年分はある。沖縄県大阪事務所は前田朝助所長、次長の協力を得て主要な資料のリストはつくった。物産展のポスターなどの資料は豊富である。青い海大阪支社には県人会、郷友会発行の会誌、名簿資料がある。宝塚歌劇団にも沖縄芸能の録音、8ミリの所蔵300点がある。民博、日本工芸館にも沖縄民芸が豊富にある。
 1974年5月 儀間比呂志『儀間比呂志の版画』講談社□三味線ー朝日新聞のT記者が、新風土記の沖縄編を書くにあたって、視座をコザにすえたのは感心した。それほど、コザには沖縄の政治、経済、文化が集約されている。なかでも、まわりに巨大な基地群をもち、その米軍へのサービス業で栄えている町なのに、島の人たちにしか用のない土着の文化が目立ちすぎるほど、根づいているのには一驚させられる。〇高橋亨「沖縄とは何かをえがく版画ー最近では毎年のように沖縄へ飛び、老母や弟妹の住む那覇の家で何日かをすごしてくるが、それは帰るというより訪れるといったほうがふさわしい。いま作者の帰るところは大阪である。(略)沖縄のみ、土地と作家との全的なかかわりあいのなかから、こんにち儀間比呂志を育てた。ただ人間形成の土壌もしくは環境としてでなく、作者の表現の形式、内容その他あらゆる成長にたえず根源の息吹を与えつづける沖縄という南の世界はいったい何なのか。それは私がここで語りうることではない。それこそ作者が版画によってえがきだそうとするところのそのものなのである。」、大江健三郎「真に沖縄的な画家ー儀間比呂志の仕事は、あえてこの言葉をもちいれば、いまやわれわれの南島の絵画の代表ということができるだろう。(略)いま本土日本からおしよせる沖縄の自然破壊、また人間のうちなる自然破壊について、もっとも暗くもっとも激しい怒りをあらわしているのを、僕は知らぬということはできない。」
 1974年7月、大阪で「中華人民共和国展覧会」があった。立命館大卒業で元沖青友の会のメンバーが中国物産の売店で働いていた.そのとき買ったものに『人民中国』特大号、『毛主席語録』と中国大地図などがある。中国地図は沖縄関係資料室の右の壁に貼った。西平さんも大阪保育事業団理事として中国に保育事業の視察に行っている。お土産に毛沢東の詩を記した布の栞をもらった。真喜志康忠『沖縄芝居50年』に、17歳の大阪時代と昭和37年の関西公演のときの康忠の回想がある。その中に康忠が関西公演の折、京都の河井寛次郎宅に招かれた写真に、わが「資料室運動」の先達、西平守晴(大阪保育事業団常務理事)も写っている。西平は私に『八重山で康忠の芝居を見たとき、舞台から芝居を演じながら観客席の私を見つけ、舞台が終わると連絡してきた』と康忠のことを語ったことがある。康忠は儀間とも親交がある。
 1979年11月 儀間比呂志・中山良彦『戦がやってきたー沖縄戦版画集』集英社□儀間比呂志ーここに収めた作品は、わたしが初めて手がけた戦争版画です。いままでのわたしの作品といえば、古い”美しい琉球〟であり、戦後を生きる”逞しいオキナワ〟であり、祖国復帰を闘う”沖縄人民〟であったのです。それらは版画集として、あるいは絵本として幾冊か上梓しています。それなりに人間の「生」の根源を追求したつもりですが、沖縄民衆の平和思想の原点ともいわれる沖縄戦をテーマにした作品は一枚もありませんでした。そのわたしに”沖縄戦〟の彫刻刀を握らせたのは、沖縄県史の戦争記録に収録された次のことばなのです。「わたしたちが味わったあの地獄絵図は、どんな小説にも、映画にも描きあらわすことはできませんよ!」
 

1960年4月 村松寛『美術館散歩』「日本工芸館」河原書店

 
1981年6月 雑誌『青い海』104号「那覇市に”反戦版画〟がやってきた 平和運動に役立ててと儀間比呂志さん」


1982年6月 上江洲久『ここに榕樹あり 沖縄県人会兵庫県本部35年史』儀間比呂志「扉及び見返し版画」