2017年4月3日~7月17日 高麗美術館「上田正昭と高麗美術館」 

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『日本のなかの朝鮮文化』朝鮮文化社(鄭 詔文)


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1973年3月ー『琉球の文化』第3号□広告に朝鮮文化社がある。
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1974年ー『東アジアの古代文化』大和書房/1966年3月ー鄭貴文『民族の歌』東方社
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1974年ー『東アジアの古代文化』大和書房

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上田正昭さんが沖縄に来られたとき写真に収まってもらった。ご本人の著書は1971年末からの付き合いである。



ごあいさつ
 たったひとつの朝鮮白磁の丸壺に魅かれて、古美術商の店先に立ちどまったのが四十余年前。祖国は解放されたものの、私自身、まだ帰るあてもない日のことでした。いつかは祖国へ帰る。そう思いこんでいたものですから、みやげのひとつにしようと暖簾をくぐったことが,「今日」の始まりとなりました。
 今もなお私にとりましては帰るに帰れない祖国ですが、そこには私のふる里がございます。六十余年の歳月はあまりにも遠く、もう私の知っているふる里ではないのかも知れません。しかし、高麗・朝鮮の時代にも、ふる里の平原はあのように風を走らせ、夏の洛東にはとうとうとした流れで、私たちのような童を抱き慈しんでいたことでしょう。
 美術工芸品を観ていますと、どの匠人もそうした風土の恵みをたっぷりと受け留めていたことが感じられるのです。同胞の若き人々よ、どうか知って下さい。あなたの民族は、日々の生業そのものを文化とする豊かさをもって、生きてまいりました。あなたにもその豊饒な生命が息づいているのです。
 この度の開館におきまして私が望み願いますことは、すべての国の人々が私たちの祖国の歴史、文化を正しく理解することで、真の国際人となる一歩を踏み出して頂くことでございます。韓国・朝鮮の風土に育った「美」は今もなおこの日本で、言語・思想・主義を超えて、語りかけております。 どうぞ、心静かにその声をお聴き下さい。
                                                  1988年10月25日                                  
    財団法人 高麗美術館  鄭 詔文

【鄭詔文氏略歴】
1918年慶尚北道醴泉生まれ。1960年代に実兄鄭貴文とともに「朝鮮文化社」を設立、季刊『日本のなかの朝鮮文化』を50号まで発刊。1988年10月に朝鮮古美術品約1700点と建物を財団に寄附し、「高麗美術館」を設立。1989年2月肝不全のため永眠。享年70歳。



新城栄徳「熊野人・桑原守也さん」
 1993年9月、新宮市を訪ね、徐福の墓、神倉神社、熊野速玉大社を参拝。新宮図書館で熊野特修『熊野誌』37号を入手、中瀬さんは「南方熊楠・母すみの日記」を書かれていた。旧知の元沖縄都ホテル社長で熊野人の桑原守也さんが「私の熊野ショックー古道・熊楠・沖縄」と題し「南西諸島の島々に熊野分社が十社もあるのは潮流による文化の交流によるためであろうが、那智からの渡海上人といわれた日秀上人は琉球王朝の帰依をうけ又、京都三条駅前の法林寺の住職となった袋中上人は、有名な琉球神道記を残している。浄土宗の流布がこの地に熊野信仰を広めたものであろう」と書かれている。桑原さんとは私の息子の自宅から二駅先の駅がご自宅なので、大阪に行くと、いつも近鉄資料室、袋中上人のゆかりの地、京都の古書展などに同行している。

沖縄都ホテルで新城栄徳と桑原守也氏


桑原守也氏著書

○2013年8月 ゆたかはじめ『沖縄の鉄道と旅する ケイビン・ゆいレール・LRT』沖縄タイムス社□鉄道屋の重いー(那覇市)松川ににある沖縄都ホテルの裏手には、路面電車のレールの橋げたを支えていた土台が今でも残っている。(略)この土台が残っているのに」は、一人の男の執念と努力があった。沖縄都ホテル初代社長の桑原守也さんである。彼は近鉄の出身で、鉄道の専門家、いわば鉄道屋であると同時に、あらゆることに興味と関心をもつ勉強家でもあった。刑務所の実態を見るためにタスマニアまで出かけたり、アメリカのペリー提督が那覇に来たとき、琉米両国がどんな料理でもてなしたかを、当時の原典まで調べ上げて復元した。この接待料理は、今でも都ホテルがイベントの折りに提供している。・・・


 2014年4月13日 沖縄県立博物館・美術館入口の蘇鉄