真哲宛1945年ー南風原朝光の手紙「・・此の手紙書き終へてすぐ渡口政興氏 死去の通知あり残念。手紙出されたし。奈良県磯城郡纒向村巻ノ内 坂口方 渡口杜子(長女)」/1947年「・・6月の連合展が終へたら早急に帰へるつもりですからその節 ゆっくり沖縄文化の為に語りませう。書籍も城間得栄君も一緒に良いのを集めつつたります。現代作家の美術品もなるべく沢山集めて沖縄に〇る現代美術館を作りたい念願で居ります。近日その活動を開始します・・」東京都豊島区長崎3丁目25 南風原朝光


1946年5月、国吉眞哲宛、灰原(南風原)朝光、山城善光書簡

1946年11月 伊波普猷『沖縄歴史物語(日本の縮図)』<南風原朝光 装幀>沖縄青年同盟中央事務局


1948年3月15日 沖縄青年同盟準機関紙『沖縄タイムズ』第3号



1968年4月 『南風原朝光遺作画集』同刊行会(豊平良顕 代表)
交遊記
緒方昇「双眼の色」/里見勝蔵「朝光君と琉球歌」/佐藤英男「朝光の想い出」/具志堅聖児「南風原朝光さんの思い出」/檜山義夫「南風原朝光と沖縄」/桑原実「南風原朝光君を憶う」/木内岬「先輩」/里見陽文「南風原朝光氏を憶う」/今井滋「空白の時代」
彼のひとがら
比嘉良篤「故南風原朝光君の憶い出」/内堀勉「珍しく純粋な人」/大城皓也「南風原朝光という人」/松本三益「南風原君をおもう」/国吉景祉「南風原朝光追憶記」/阿波根朝松「あの時代の南風原君」/池原清子「朝光様の思い出」


内堀勉 


池原清子1987年3月 那覇市企画部文化振興課『明治・大正生まれの作家たち』

1985年4月4日『沖縄タイムス』「喫茶室」
□池原清子さん(83)は、県人には珍しい南画家。日本南画院会員で、現在、京都で開催中の第25回記念日本南画院に「私のすきな山水」=150号=を出品している。昨年は、石垣市川平で取材した「私の川平湾」=(150号)=を出品した。両作品とも秀作賞を受賞「この年で、好きな絵を描き、賞がもらえるのはうれしいですね」と笑顔で感想を述べた。独り暮らしだが、自宅のアトリエで絵も教えている「この道40年」のベテラン。雅号は池原胡捷(蝶)。
池原さんは、那覇市の生まれ。詩人の国吉真哲氏夫妻とは小学校時代からの友人で、今も交際を続けている。「私が短歌や絵に親しむようになったのも、国吉氏の感化です。沖縄に旅行すると、お訪ねして旧交を温めています」とうれしそうだ。
東京にあこがれ、19歳で上京、東京中央工業校製図科に学んだ。卒業後、国鉄の東京鉄道管理局に入る。仕事は、鉄道の線路、駅などの製図担当。課内では、文字通りの紅一点で、職業婦人の草分け。「自分で製図または設計した駅などをみるとやりがいを感じました」と、なつかしそうだ。結婚し子供もできたが、3歳で死亡。その後、一人になり独身を通している。
40歳過ぎから、南画と短歌を始め、定年後は本格的に取り組んだ。「絵と短歌は、私の生きがい。おかげでボケにもなりません」とくったくがない。目も耳も達者で、年齢より若くみえる。南画は心象画で、自分の美意識を素直に表現できるのが気に入っているとか。15年前から日本南画院展の常連。短歌歴も長く吾妹(わぎも)短歌会同人。同会40周年記念歌集(昭和38年発行)には、20数首収録されている。「やりたいのがたくさんある。がんばらなくちゃあ」と胸を張った。

彼と沖縄文化
本田安次「南風原氏を思う」/新崎盛敏「朝光さんの思い出」/山之口貘「縁の下の文化功労者」/伊波南哲「懐しい思い出」/古田重郎「朝光さんの想い出」/比嘉春潮「幸福な芸術家」
作品について
原精一「南風原君のこと」/上野維信「南風原さんの思い出」 /中村哲「南風原朝光の生地ー戦前に何回か会ってはいるが、とくに戦後のつき合いが深い。池袋の「おもろ」の常連として、山之口貘氏とコンビといっていい人で、山之口氏と切り離して考えられない。私は戦後、毎週、立教大学の講義に行ったので、池袋で顔を合わせる機会がつづいた。・・・」/立石鉄臣「遺作に輝く」喜多村知「南風原朝光について」
座談会ー南風原朝光・人と作品  国吉真哲/末吉安久/大嶺政寛/伊波広定/新垣盛市/司会 真栄城玄裕
作品目録 刊行のことばー豊平良顕、崎原当保 経過報告・後記ー佐田勝
年譜 
  
1951年3月 池袋おもろで、親友、貘(右)と/1953年 文部省主催 第八回日本芸術祭 第一回沖縄芸術使節団を迎えて 左から山城善光、比嘉春潮、比嘉良篤、陳而松、山之口貘、南風原朝光、本田安次、田辺尚雄、東恩納寛惇(『貘のいる風景』)


2004年9月 『新生美術』13号「プラットホームの見送りー左より不詳、山之口貘、南風原朝光」「左から南風原朝光、山城善光」


左から三羽烏の山之口貘、南風原朝光、末吉安久(『貘のいる風景』)/1953年 中央に山之口貘、前列左から末吉安久、不詳、国吉真哲、南風原朝光、


1954年2月14日 「火野葦平先生招待記念」
前列右から南風原朝光、真境名由康、火野葦平、平良リヱ子、仲嶺盛竹、真境名由祥。中列右から山里永吉、真境名澄子、真境名由苗、宮里春行。後列右から国吉真哲、一人おいて豊平良顕、真境名由乃、真境名佳子、勝連盛重。/1955年 第10回文部省芸術祭公演参加のメンバー(那覇・世界館)前列右から大嶺政寛、玉那覇正吉、國吉眞哲、山本義樹、豊平良顕、南風原朝光、末吉安久、田島清郷。後列右から宮里春行、識名盛人、眞境名由乃、眞境名由苗、牧志尚子、平良雄一、眞境名由康、勝連盛重、宮平敏子、屋嘉宗勝、眞境名佳子、喜納幸子、南風原逸子、仲嶺盛竹、嘉手苅静子、屋嘉澄子、仲嶺盛徳。


1954年9月5日 石川画塾開塾で左から国吉真哲、新樹子、南風原朝光/藤田嗣治の「那覇の客人」女性に抱かれている子は新樹子がモデル



1955年3月 壺屋小学校『第7回 沖展』「南風原朝光」

2004年9月 『新生美術』13号写真左よりー豊平良顕、南風原朝保、南風原朝光、末吉安久/「末吉安久、南風原朝光」



1956年3月 壺屋小学校『第8回 沖展』「南風原朝保コレクション」「招待ー内堀勉、中川伊作」


南風原朝保/1957年2月21日 南風原朝保没




1957年3月 壺屋小学校『第9回 沖展』「南風原朝光氏作品特陳」「招待ー儀間比呂志、金山平三、読谷山朝典、瀬高政良、渡嘉敷唯信、鳥海青児、大嶺政敏、森桂一、宮平清一、内堀勉、具志堅古雅」今回から陶芸祭(カーミスーブ)


沖展運営委員会ー前列左よりー南風原朝光、嘉数能愛、名渡山愛順、島田寛平、大城皓也、森田永吉、大嶺政寛、屋宜元六/後列左よりー末吉安久、安谷屋正義、玉那覇正吉、山元恵一、宮城健盛、大城貞成、安次嶺金正、豊平良顕


1958年3月 壺屋小学校『第10回 沖展』「南風原朝光」「儀間比呂志」


1959年3月 壺屋小学校『第11回 沖展』「南風原朝光」」「儀間比呂志」
1960年3月 壺屋小学校『第12回 沖展』「南風原朝光、南風原逸子」「招待ー内堀勉、竹谷富士雄」
1961年3月 壺屋小学校『第13回 沖展』「招待ー鳥海青児、小磯良平、福沢一郎、宮本三郎、林武、東山魁夷、前田藤四郎、棟方志功」


写真左から中山一(1899年~1964年9月/専修大学卒業。貯金局国勢院、沖縄民政府石川労務出張所所長を経て沖縄菓子工業連合会)、山之口貘、船越義彰、南風原朝光/1959年2月21日ー南風原朝保三周年忌(琉球料理・美栄)右端に國吉眞哲、左端立っているのが平良進医師、前に安里積千代、金城清松、末吉安久、南風原朝光、写真中央上に川平朝申。南風原朝保の遺影を持っているのが登美夫人

美榮「琉球料理のしおり」


1961年4月16日『琉球新報』「画家の南風原朝光・敏子夫妻経営の泊劇場 新しい試みで出発」



1961年9月30日『沖縄タイムス』「南風原朝光氏を悼むー大城皓也『おしい人を失った』/稲嶺一郎『虚をつかれた思い』」

1962年3月 壺屋小学校『第14回 沖展』「故南風原朝光遺作22点」




1982年9月『青い海』116号 安次嶺金正「自由の色彩ー南風原さんのこと」