新城栄徳「台東区浅草1965」
私は東京浅草で中華料理店の出前持ちをしたことがある。店は合羽橋近くにあった。自転車で浅草中走り回った。大半が「バクチ場」で入口まで持って行くと玄関で組員が受け取る。銭湯に入ると全身刺青(伝統芸術)の初老の人が大半であった。浅草から上野は近い。上野公園はもともと寛永寺の境内で1873年に宮内省管理、77年には第一回内国勧業博覧会が開かれ美術館も設けられた。82年に上野動物園、博物館。87年に美術学校・音楽学校などが開設、移築された。1924年、皇太子御成婚記念で東京市に下賜され恩賜公園として一般に開放され科学博物館、美術館などが出来て日本有数の芸術文化の森となった。→合羽橋「かっぱ橋道具街」。大阪には「千日前道具屋筋商店街(せんにちまえどうぐやすじしょうてんがい)がある。ー大阪市中央区難波千日前にあるアーケード商店街。飲食店などで用いる業務用の調理器具や什器を扱う店が密集している。

1957年12月 岩井弘融『暴力 日本のやくざ』平凡社
1963年3月 岩井弘融『病理集団の研究ー親分乾分集団研究ー』誠信書房
□第1篇 博徒・的屋集団
  第2篇 土建・港湾・炭鉱等における親分乾分関係
  第3篇 壮士・院外団・右翼
  第4篇 パースナリティと集団性格

岩井弘融ー佐賀県出身。東京帝国大学卒。東京都立大学助教授、教授、大正大学教授、東洋大学教授。1989年、定年、名誉教授。代表的な著作に『病理集団の構造』や『犯罪社会学』などがある。2013年8月4日、急性肺炎のため死去。94歳没。→ウィキ

1958年10月 磯村英一『性の社会病理ー日本の売春にみるもの』大日本雄弁会講談社
1961年12月 磯村英一・木村武夫・孝橋正一『釜ケ崎/スラムの生態』ミネルヴァ書房

磯村英一 いそむら-えいいち 1903-1997 昭和-平成時代の社会学者。
明治36年1月10日生まれ。磯村春子の子。東京市役所(のち都庁)勤務をへて,昭和28年都立大教授となる。41年東洋大教授,44年学長。アメリカ都市社会学にまなび,行政経験をいかして日本の都市社会学の確立につくす。同和対策協議会会長などもつとめた。平成9年4月5日死去。94歳。東京出身。東京帝大卒。 →コトバンク


1962年6月  大橋薫『都市の下層社会ー社会病理学的研究』誠信書房
大橋薫-福島県田島町出身で、会津中学、浦和高校を経て1942年(昭和17年)に東京帝大へ進む。翌年に学徒出陣し、石垣島で終戦を迎える。階級は陸軍少尉。 復学後東京大学文学部、同大学院で社会学を専攻し、大学院退学後大阪市立大学に講師として採用され、家政学部助教授に進む。明治学院大学の社会福祉学系大学院開設に際して招聘を受け[10]、文学部助教授、教授を経て1966年(昭和41年)に社会学部教授となる。担当は社会病理学。→ウィキ

null当時の合羽橋(暮らしの手帖)

上野駅は北国(雪国)の玄関口で周辺には高村光雲作の西郷隆盛銅像や、朝倉文夫作の「生誕の像」(同じものが那覇市役所広場にある)がある。ところで、金山喜昭『日本の博物館史』を見ると、江戸後期に開かれた同好者たちによる物産会(本草会)はモノを集めて公開する、出品物を記録・刊行していく点で博物館の源流だとしている。官僚主導の日本の近代博物館と違って近江の木内石亭の「奇石会」、大坂の木村 蒹葭堂「貝類・鉱物」を例に物産会は横並びの同好のサークル活動だったとしている。

高村光雲作の西郷隆盛と犬の像

明治政府は1867年に「神仏分離令」を布告。そのために全国で廃仏毀釈が行われ古文化財の破壊を招いた。71年になって太政官は「古器旧物保存ノ布告」を出す。やがてそれが国粋主義や美術富国論の勃興へとつながる。前出の『日本の博物館史』には鈴木重雄により1924年に設立された「遠野郷土館」を、個人の趣味や愛好的な色彩ではなく、国策に従う郷土教育ではなく「日本歴史のどの頁に吾々の共鳴する点がありますか」とし、「個」の確立を目指した点を特に述べている。



1953年2月ー松居桃樓『蟻の街の奇蹟ーバタヤ部落の生活記録』国土社

1932年12月ー神田須田町アメリカン・ベイカリー2階、腰掛けている人左より加藤朝鳥、中山太郎、松居松翁、松居桃樓、武田忠哉、長谷川天渓、小山良修、江戸川乱歩、大槻憲二

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右ー北原怜子
松居桃楼 まつい-とうる 1910-1994 昭和-平成時代の随筆家。
明治43年3月30日生まれ。松居松翁の3男。昭和17年台湾演劇協会にはいり,文芸部長となる。戦後,東京隅田公園の「蟻の街」で小沢求と知りあい,「蟻の街の奇蹟」「蟻の街のマリア」などを発表。北原怜子(さとこ)とともにこの街をささえた。平成6年9月25日死去。84歳。東京出身。早大中退。本名は桃多楼(ももたろう)。著作に「市川左団次」など。→コトバンク

蟻の町のマリア - 北原怜子 -
1月23日は北原怜子さん(リンク先はカトリック報恩寺教会へようこそ)が帰天された日です。Wikipediaによるとー裕福な大学教授の令嬢であったが、キリスト教に帰依し、ゼノ・ゼブロフスキー修道士(ゼノ神父として知られる)と知り合い、ゴミ拾いをしながら、それで得た資金で東京都江東区の隅田川の言問橋周辺、現在の墨田公園の界隈にあった通称「蟻の町」で奉仕活動を行った。初めは良家の令嬢の気まぐれボランティアと解され周囲から冷ややかな目で見られたが、やがて彼女の真摯な姿勢が認められ、支持者が増えていったが諸々の奉仕活動での体力的無理がたたり著しく健康を害し、1958年、惜しまれながら夭折。享年29。

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1950年9月27日号『アサヒグラフ』「大都会の蟻」

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1960年10月29日『琉球新報』

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1960年11月4日ー料亭松の下で、川平朝申画


1983年8月『琉球新報』新城栄徳「落ち穂ーオキナワの少年」

東京時代の座右の書

 左の本の表紙の「さざれ石」写真を見て京都のさざれ石を見た。→日本国歌にうたわれている「さざれ石」とは、ちいさな石という意味です。さざれ石は年とともに大きく成長し、岩になると信じられている神霊の宿る石です。 国歌の原典は「古今和歌集」にも詠まれた生き石伝説「さざれ石」です。下鴨神社の「鴨の七不思議」の中に、「泉川の浮き石」や「御手洗の神石」伝承が残っており、石に宿る神聖な力をを現しています

 東京時代、浅草で中華料理屋の出前持ちをしたことがある。自転車であちこち配達するわけだが大体がバクチ場であった。風呂屋では全身入れ墨の老人たちが大半を占めていた。そこで週刊誌の影響も相まって「社会病理」の研究に余念がなかった。当時の赤尾敏の演説会は新橋駅、数寄屋橋などでよく聞いた。それから日本の古都・京都に移り住んだ。そこで沖縄青年会に参加したら友人の殆どが「左翼」であった。それで小学4年のころからの琉球史に取り組んだ。それの合間に大阪の右翼・ヤクザもチェックしている。



 1984年6月ー親戚の経営する泊サンワホールで赤尾敏の演説会を聞きに行った。この爺さん、まだ生きて居たかというのが実感であったが、さすがに老獪な人物、沖縄県民の複雑な気持ちは分かっているようで『皆さん、天皇陛下万歳をお願いします』と申し訳なさそうに云うていた。