私は1984年12月発行の『琉文手帖』「文人・末吉麦門冬」で1921年以降の『ホトトギス』の俳句も末吉作として収録した。これは別人で熊本の土生麦門冬の作品である。土生麦門冬には『麦門冬句集』(1940年9月)がある。

1940年9月 川畑恒二・編『麦門冬句集』昭和印刷所(東京牛込区)



1937年11月 東京星ヶ岡茶寮ー右より藤木行人、古河風可①、茂野冬篝、土生麦門冬、菅裸馬②、斎藤適萃、乾固堂

①古河 虎之助(ふるかわ とらのすけ、明治20年(1887年)1月1日 - 昭和15年(1940年)3月30日)は、日本の実業家。古河財閥創業者古河市兵衛の実子で、3代目当主。爵位は男爵。位階勲等は正四位勲三等瑞宝章。紺綬褒章受章。号は風可。古河財閥を多角化させ、総合財閥に発展させた。→ウィキペディア

②菅礼之助 すが-れいのすけ
1883-1971 大正-昭和時代の実業家。
明治16年11月25日生まれ。菅礼治の長男。古河合名理事をへて,昭和14年帝国鉱業開発社長となる。21年石炭庁長官,29年東京電力会長。俳誌「同人」を主宰。昭和46年2月18日死去。87歳。秋田県出身。東京高商(現一橋大)卒。俳号は裸馬(らば)。著作に「裸馬翁五千句集」など。→コトバンク
【格言など】ガヤガヤした生活ばかりだったから,せめて死ぬときはひとりで静かに死なせてくれ(米寿のときのことば)


文学同人雑誌『那覇』
同人ー大串孝作・崎山鬼兵・南三郎・仲村渠・牧港徳蔵・首里二郎・古沢亀次郎・土田徳・山里長生・花城具志・中城章太
目次
評論ー花城具志「あけもどろの花」/南三郎「文学と地方性」
火野葦平□発刊に際してー随分前からぜひと思っていた琉球行を果たすことが出来てたいへん勉強になった。それはいろいろな意味で得るところが尠くなかったが、文化方面のことに関しても収穫が大きかったので喜んでいる。歴史や民俗学、民藝等に興味を持つ人にとっては琉球は汲めども尽きぬ宝庫の観があるであろう。しかし、それらは豊富な伝統の上に新しい世代に添うて今後の琉球文化がどう動いて行くかということは最も切実な問題であると思われる。外部から琉球を骨董品にしてしまうことはよいことではあるまい。また沖縄の人達が自らも骨董品に甘んじることも省みられなけでばならないことであろう。伝統の根が深く抜きがたいということはそれに制肘されることではなく、その遺産を相続することによってより立派な新しい伝統を創造することの意であろう。そこにこそ新しい沖縄文化の朝が開けるものと思われる。特殊な事情のために具体的にはいろいろと困難な問題があるようだ。しかし、世に誇るに足る立派なる琉球文化が新しい出発の肥料になるのでなければ悲しいのである。
 私は今まで遠くから考えていた私の琉球文化に対する概念が、今度の旅行で根底から覆されたことを感じた。私は沖縄の文化人達の深い悲しみを知り、胸もいたむ思いである。しかしながらそれらの身に喰い入る寂寥に鞭うって、昂然と出発を開始しようとする意欲に対して悲壮な感じを受ける。私は今度の旅行で「那覇」同人の諸兄と歓談する機会を持ったことを大いなる喜びとする。慌ただしい日程のためにゆっくりと意見を交換することの出来なかったのを遺憾とするが、それでも私達は文学と生活、文壇と文学、標準語の問題、文学の言葉、地方文学、等について心おきなく語り合うことが出来た。そのようなことは今後の「那覇」の歩調の上に具現せられて行くことと大いなる楽しみにしている。私達の「九州文学」の歩みとともに、共通する九州的血液の交流をもって、前進してゆきたい。「那覇」の人達がそれぞれ優れた特質を持ち、「那覇」にまで到る間の文化的苦悩の深さにも敬意を感じている。「九州文学」に対しても鞭撻を願いたく、新しい日本の文学の建設に輝かしい成果を挙げられんことを期待して歇まない。
詩ー山里長生「前方」/牧港徳蔵「擬混土攪拌機」/仲村渠「雌」
創作ー大串孝作「魔風異」/花城具志「茶飯写生」/土田徳「妻」
あとがき
編集発行人・大城徳蔵 那覇市上蔵町2ノ86
印刷所・有馬三笑堂 那覇市久米1ノ18
発売所・沖縄書籍株式会社 那覇市東町1丁目2ノ89 仲村渠気付



火野葦平→「火野葦平没後50年」
編集事務所・那覇市上蔵町火野葦平は、郷土の誇る作家です。出征前に書いた「糞尿譚」で芥川賞を受賞し、第一線の兵士として戦った経験に基づく「麦と兵隊」などで一躍国民的作家としての地位を占めました。戦後も「花と龍」など力作を世に問い、単行本は200冊にのぼります。流行作家になってからも郷土を愛し、終生、若松を離れず、若松を作家活動の糧としてきました。

その一方で、港湾労働者の待遇改善のための組合設立や活動を行い、火まつり行事を創設し、五平太ばやしや校歌を作詞するなど、若松のまちづくりにも貢献しています。その生涯は、若松が石炭積出港として栄え、北九州地域が近代産業の礎を築いた時代と重なります。

火野葦平を語り、火野葦平を知ることは、若松区や北九州市の歴史と文化を再認識することでもあり、今後のまちづくりにも繋がっていきます。
火野葦平と河童
火野葦平の旧居は、河童の棲む家という意味で「河伯洞」と呼ばれています。河童をこよなく愛した火野葦平は、『河童曼茶羅』など河童を題材にした詩や小説などを数多く残しています。小説「石と釘」のモデルとなった若松区高塔山の「河童封じの地蔵尊」は、名所として親しまれています。また若い時には画家志望でもあった火野葦平は、持ち前の絵心で表情豊かな河童の絵を数多く描いています。

火野葦平とまつり
昭和29年には、火野葦平の発案で「かっぱまつり」が始まりました。今も「火まつり行事」の一環として、夏の風物詩となった「たいまつ行列」に先立って開催されています。また、同年には、五平太ばやしの作詞を手掛けるなど、若松のまちおこしに大きく貢献しています。

火野葦平と校歌

火野葦平は、作家として活動しながら、若松高等学校や修多羅小学校、浜町小学校(現:若松中央小学校)をはじめ11校もの校歌を作詞しています。それは、戦後の民主教育と戦前の校歌とがマッチしなくなり、火野葦平に作詞依頼が多数寄せられたことによるものです。そして『希望・生命・誇り・理想・自由・平和・自主』などの言葉がいずれの校歌にも拡張高く表現されています。火野葦平の詩人としての一面と若人に対する思いを見て取ることができます。

nullnullnull(竹久コレクション)

中山省三郎

左ー中山省三郎『詩集縹緲』小山書店1942年/中山省三郎『随筆・海珠鈔』改造社1940年「この歌をはじめ、多くの歌を中年の品のよい女に弾かせて、一々説明してくれたのは國吉眞哲君といふ文學に明るい人である。」

中山省三郎 なかやま-しょうざぶろう
1904-1947 昭和時代の詩人,ロシア文学者。
明治37年1月28日生まれ。横瀬夜雨(よこせ-やう)の影響をうけ,早大在学中に火野葦平らと詩誌第2次「聖杯」を創刊。卒業後はロシア文学を翻訳,ツルゲーネフの「猟人日記」などの名訳をのこした。昭和22年5月30日死去。44歳。茨城県出身。詩集に「羊城新鈔」「縹緲(ひょうびょう)」など。(コトバンク)