1972年2月号『青い海』10号 「若者が集う『沖縄関係資料室』の西平守晴氏宅」

1972年1月ー『青い海』10号□若者が集う「沖縄関係資料室」の西平守晴氏宅ー西平沖縄関係資料室主宰「柳宗悦という人を皆さんもよく知っていると思う。沖縄の民芸を高く評価した人だが、その人が昭和14年に書いた『琉球の富』の序に次のような言葉がある。<人々は今まで余りにも暗い沖縄を語り過ぎていたのです。私たちは優れた沖縄を語りたいのです。それは私達を明るくし島の人々を明るくさせるでしよう。私達は実に多くの富に就いて語り合いたいのです。沖縄に就いて歎く人々のために、又この島に就いて誤った考えを抱く人々のために、又自国を余りにも卑下して考える土地の人々のために、そうして真理を愛する凡ての人々のために、この一文が役立つことを望んで止まないのです。> この30年も前の文章が、私の今の気持ちを言い当てています。-」
□ここで資料の内容の一部を紹介しよう。開設当時200冊足らずだった書籍・雑誌は、現在約3200冊。新聞や週刊誌などのスクラップが300冊。沖縄に関する資料については、関西隋一と言われる。▽人物関係ー「謝花昇伝」「平良辰雄回顧録」「伊波普猷選集」などの伝記、回顧録、全集もの。▽市町村関係ー「北谷村誌」「南大東村誌」 比嘉景常「久米島紀行」など。▽歴史関係ー「沖縄県史」(直接主席から贈呈される。関西では天理図書館と資料室ぐらいだろうとの話) 「琉球建築」 田代安定「沖縄結縄考」 金城朝永「異態習俗考」や戦史・戦記もの。▽文芸関係ー「山之口貘詩集」「新沖縄文学」や大城立裕、石野径一郎、霜田正次、石川文一などの諸作品。▽芸能関係ー「組踊大観」「工工四」など。▽政府刊行物ー「立法院議事録」 白書類。▽ミニコミー「沖縄差別」「石の声」「沖縄月報」「寮友」「琉大文学」や本土各大学の県学生会の機関誌・パンフなど。▽地図ー「首里古地図」その他。これらの資料を整理したり、購入したり目録をつくるなど、一人でするにはたいへんな仕事である。西平守晴さんは保育園の仕事もあり忙しいので、現在もっぱら新城栄徳君(23)が動きまわっている。

システム手帳

1984年には日本国内でもFilofax(ファイロファックス)が正式に発売された。著名人の愛用者がしばしばマスメディア上で「便利な手帳」とするコメントを発した事から、1980年代末 - 1990年代中頃より類似製品を含めて急速に愛好者が増加した模様。1985年にジャーナリストの山根一眞が書いた「スーパー手帳の仕事術」(ダイヤモンド社刊)が日本で最初のシステム手帳Filofaxの解説本と言われる。日本で言われる「バイブルサイズ」を最初に日本で流布したのは山根で、欧米では使われていない単語である。なお、日本初の国産システム手帳は、1968年に経営コンサルタントの奈良総一郎が考案した「システム・ダイアリー」である。→ウィキ

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1972年6月の『豊川忠進先生の長寿を祝う会』では、沖縄の又吉真三氏から文化財の碑文の拓本を借りて展示して参加者を感動させ、平良盛吉翁らを豊川氏の隣りに座らせて感激させた。」
 1984年2月24日『琉球新報』「アシャギー新城栄徳『琉文手帖』で資料紹介」/3月17日『琉球新報』「さし絵人生40年ー金城安太郎さん」/『琉文手帖』「日本画家・金城安太郎」/5月『青い海』「新刊案内ー『琉文手帖』「日本画家・金城安太郎」


6月23日『朝日新聞』(大阪版)「沖縄のこころを本土にー大阪の西平守晴さん」

8月14日『毎日新聞』(大阪版)「反戦平和へ遍路10年ー沖縄出身の西平守晴さん」

9月10日、沖縄協会機関紙『沖縄』「21世紀へはばたけ沖縄青年ー新城栄徳さん」/12月7日『琉球新報』「俳人・末吉麦門冬が没して60年」/12月、『琉文手帖』2号「文人・末吉麦門冬」


1985年5月23日『沖縄タイムス』「30周年を迎える沖縄資料室ー大阪・西平守晴さんの個人文庫」

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1988年11月 史海同人『史海』№6 新城栄徳「関西と沖縄」



10月11日『琉球新報』「駅前広場ー西平守晴さん」/10月31日『沖縄タイムス』「自宅に沖縄関係資料室ー石垣出身の西平守晴さん」/11月6日『朝日新聞』(大阪版)「自宅を改造して沖縄を学ぶ拠点にー大阪の西平守晴さん」/11月、『琉文手帖』3号「歌人・山城正忠」/12月15日、東京沖縄県人会機関紙『おきなわの声』「琉文手帖『歌人・山城正忠』を読む」



1986年1月15日、東京沖縄県人会機関紙『おきなわの声』「此処に人ありー新城栄徳さん」/4月15日『沖縄タイムス』「関西沖縄県人会機関誌『同胞』創刊号はガリ版刷りー新城栄徳さんが確認」/12月、沖縄県歌会『金真弓』新城栄徳「沖縄近代美術の流れと文学」/12月、『北谷町史』第2巻「争議にともなう財産調書」(新城栄徳寄贈)

1987年4月25日『琉球新報』「われらウチナンチュー西平守晴さん」/5月『新生美術』新城栄徳「浦崎永錫画伯美術史を語る」/9月、沖縄県立博物館「特別展・沖縄近代の絵画」(新城栄徳協力)

1987年6月 大阪沖縄県人会連合会40周年記念誌『雄飛ー大阪の沖縄』西平守晴「就学前教育と児童福祉」「沖縄関係資料室」

1987年9月15日、東京沖縄県人会機関紙『おきなわの声』新城栄徳「人物・沖縄近代美術略史」/10月1日『琉球新報』「明治の沖縄の画家一堂にー東京の島袋和幸さんが見つけ、新城栄徳さんが人物確認」

1988年2月19日『週刊レキオ』「先人の足跡を残したいー新城栄徳さん」/4月、緑林堂『琉球弧文献目録』新城栄徳「沖縄出版史ノート(戦前篇)」/6月『新沖縄文学』№76□新城栄徳「近代沖縄の新聞人群像」/7月4日『琉球新報』「首里那覇鳥瞰図の作者は阿嘉宗教ー新城栄徳さんが確認」/9月、南風原永育『南の島の新聞人』ひるぎ社(新城栄徳資料提供)/11月『史海』№6□新城栄徳「関西と沖縄」

1989年4月18日『沖縄タイムス』「神山宗勲の小説『闘へる沖縄人』、新城栄徳さんが見つける」
7月、西平守晴、琉球新報の落ち穂を担当






10月、沖縄県立図書館「沖縄の同人誌展」(新城栄徳協力)/11月、『沖縄美術全集』(辞典・年表・文献委員ー新城栄徳)/11月30日『琉球新報』「琉球新報初代主筆『野間像』鮮明にー新城栄徳さんが見つける」/12月2日『琉球新報』「金口木舌ー新城栄徳と野間五造」

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(上)1996年12月7日/大阪・大正駅前「居酒屋ゆんた」で、左から金城勇(演劇「人類館」上演を実現させたい会)、息子、諸見里芳美(演劇「人類館」上演を実現させたい会)、仲間恵子(大阪人権博物館学芸員)、崎浜盛喜(奈良沖縄県人会副会長)、右端がゆんた主人の玉城利則(関西沖縄青少年の集い「がじゅまるの会」初代会長。1981年、『ハイサイおきなわ』編集人、発行人は嘉手川重義(現大阪沖縄県人会連合会長)と夫人、真ん中の女性はお客さん。撮影・新城栄徳/(下)1996年12月8日/大阪港区・池島保育園(近鉄の野茂英雄投手も同園出身)階上で、左より西平久子、西平守晴夫妻、娘、後に息子。撮影・新城栄徳

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1972年5月13日ー大阪『日本経済新聞』「民芸品・図書を守ろうー都島の『沖縄資料室』」
1973年5月14日ー大阪『朝日新聞』「守れ!沖縄の心と自然ー埋もれた文化掘起す」

平良盛吉□→1991年1月『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)平良盛吉「村の先生」/平良盛吉(1890年8月28日~1977年6月28日)1912年、沖縄ではじめての総合文化誌『新沖縄』を創刊。琉球音楽研究家。『関西沖縄開発史』の著がある。□→2009年5月『うるまネシア』第10号/新城栄徳「失われた時を求めてー近鉄奈良線永和駅近くに平良盛吉氏が住んでおられた。息子が1歳のとき遊びに行ったら誕生祝をいただいた。袋は今もある」
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沖縄関係資料室の内部(西平守晴と司馬遼太郎)




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1962年、真喜志康忠優の関西公演のとき京都五条坂の河井寛次郎からの招待を受け西平守晴(沖縄関係資料室主宰)の案内で訪ねる。帰り河井作品を貰ったのは言うまでもない。
写真は左から西平守晴、真喜志康忠夫妻、河井寛次郎夫妻







1976年1月10日『サンデー沖縄』「沖縄資料室を開放ー西平守晴」

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写真ー左・コウ君と西平守晴さん

1982年6月、沖縄県人会兵庫県本部『ここに榕樹ありー沖縄県人会兵庫県本部35年史』(新城栄徳資料提供)

1983年1月17日、NHKラジオ第1放送「人生読本ー西平守晴『わが沖縄に想う』」
名もなく、貧しく、島チャビの島に生き、そして戦さ世をかなしく去った父や母の心を偲びつつーわが沖縄に想うー
昨年は沖縄が祖国へ復帰して10年になる年でした。思いますに10年前その復帰のあり方の是非を論ずる激しい意見が対立する中で「いもはだし論争」という、今考えると何か珍妙な論争が本気で論争された事を思い出します。「いも、はだし」とは戦前沖縄の農村や離島はほんとうに貧しく、主食はほとんど「サツマイモ」で米の食事などは何かお祭りか病気のとき以外はめったにお目にかかれなかったものでした。「はだし」も私達の年代のものの小学校時代はほとんど「はだし」で通してきたものでした。即ちこの様に今復帰の態様の選択をあやまると「昔の貧しかった沖縄の生活に戻ってしまうぞ」という論旨だったようでした。この様に戦前の沖縄の悲しいまでに貧しい暮らしだった事が私の幼いころの思い出としてよみがえってきます。
日本列島の最南端に位置する八重山群島の中の石垣島が私の生まれたところです。昔から沖縄には「島チャビ」という言葉がありますが、それは離島苦ということですが、辺境の地沖縄の島々に住む人には苛酷な自然の猛威との闘いと共に圧政の中で苦しみぬいた島の人々がどうにもならない自分達のかなしい運命と貧しさへの絶望を言いあらわした言葉だと思います。
こんな時代の沖縄の石垣島で幼少年期をすごしてきた私には父(西平守珠)や母(ツル)がただ黙々と働いている姿からこの「島チャビ」の苦悩を教えられてきました。私の父や母の思い出と言えば牛馬のようにただ働くこと以外に何もない、悲しいまでに哀れな姿しかありませんでした。朝の早い母は午前3時頃からせっせと豆腐づくりに励む姿が大きなカマドのあかあかと燃える炎に映し出されている母の顔が今も脳裏に深く焼き付いています。父もまた4キロほど離れた畑へ痩せこけた馬に肥料(こやし)を積んでまだ暗いうちに出かけ、日が暮れて帰るのが毎日の日課でした。子供との対話など全くありませんでした。ただとにかく働くことにより、親の健在を子供に示し、その後ろ姿からしか私たちはいろいろの事を教えられたような気がするのです。
又父も母も小学校も満足に出ていないので難しい理屈や教えを私達に話すこともありませんでしたが、ただこの離島苦は二度と子らにはあじあわせたくないという切々な愛情を常に肌で感じていました。そしてこの苦労から脱出するには勉学にはげむ以外にはないことを父は私達に期待していたようでした。然し農業と言っても今日のような換金できる作物とてなくただ「さつまいも」をつくるだけの農業では進学で学資を必要とする当時の中学校への進学は全く不可能で夢でしかありませんでした。どうしても進学するとすれば、師範学校か軍人の学校のように即ち官費でいける学校へ行くしか進学の道はなかったのです。その上、男の子を進学させることは、一家の労働力を失うことになるので、三人の男の子に進学をすすめる父は周囲の農家の人々から嘲笑されていたようでした。
三人の兄弟(長男・守助、三男・守吉)の二男だった私は、ついに高等小学校を卒業と同時に子供心に父の苦衷をよみとり、又この島からの脱出の方法として、進学をあきらめ台湾へ理髪職人の見習として行くことになるのですが、そのとき丁度すでに台湾に働きにきていた叔母と姉の反対で一カ月位で島に帰され師範学校への受験の準備にかかるのですが、当時としてはもう、これしか離島苦からの脱出の方法がないと思うと、死にものぐるい」で勉強に身を入れた当時を今でも思い出すのです。このことは農家の子弟が師範学校への受験に没頭したのも皆私と同じ思いの人々であったことは当時の競争のはげしかったことからも伺えます。この様にしてようやく合格して、いよいよ沖縄本島へ2日の船旅で行くことになるのですが、私はその時はじめて洋服を着せてもらい革靴というものを履いたことを考えると昭和12年でこんなものだから、離島の生活がいかに文明からほど遠く、どんなに貧しいものだったかをしみじみと思いにふけるのです。
(略)
このようにしてようやく卒業、新任教師として国頭郡恩納国民学校へと赴任することになるのです。その間いわゆる徴兵検査を受け甲種合格、しかも海軍への入隊がきまったのが5月末でした。愈々来るものがきたと思うと1年後の4月には軍人として出征しなければならないと思うと、1日1日が惜しまれ身の引き締まる思いで毎日教壇に立ったものでした。
(略)
昭和25年6月頃でしたか梅田の闇市にあった古本屋の店頭で『琉球建築』という一冊の本との出会いでした。この本には戦争で完全に壊滅してしまった沖縄の文化財の写真がありました。値段も当時二千五百円という金は私にはどうにもならない金額でしたが、古本屋の主の好意で3回にわけて支払うことで手に入れるのですが、後にこれが私の沖縄関係図書収集のきっかけとなるなど当時は考えもしませんでした。それからと言うものは、何かにつかれたように神戸・大阪と古本屋廻りがはじまり、店頭で沖縄とか琉球の名のつく本を買いあさりがはじまるのですが、収入は少なく生活は貧しくそれは「赤貧洗うが如し」とはこんなものだろうと自分自身でも思ったものでした。(略)私は昭和30年6月「沖縄関係資料室」の開設にふみきった次第です。(1983年1月17日~19日 NHKラジオ第一放送)

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1983年4月『佼成』通巻397号「庭野会長対談「豊かさの中で平和の心をどう育てるか」ーゲスト・西平守晴(大阪保育事業団常務理事)」
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1983年10月11日『沖縄タイムス』「二度と教壇に戻らなかった青年教師ー教え子と40年ぶりに再会」

1983年9月14日『琉球新報』新城栄徳「資料室運動」
○すべての沖縄資料を「資料室」に集めるということは限界があり、無理である。そこで関西の主要な機関の所蔵資料の目録をヒマがあると作っていった。大阪府立中之島図書館には、伊波普猷の著書は明治44年『琉球人種論』をはじめ、戦前のものだけでも18冊、大城立裕氏の著書は14冊ある。新聞は琉球新報、沖縄タイムスの両支社に過去10年分はある。沖縄県大坂事務所は前田朝助所長、次長さんの協力を得て所蔵資料を作ったが、物産展の資料は豊富である。青い海大坂支社は、県人会、郷友会発行の会誌、名簿などがある。宝塚歌劇団は沖縄芸能の録音、8ミリの目録には300点もの資料がある。民博、日本工芸館も沖縄資料がある。




1937年6月『日本古書通信』第80号 比嘉春潮「琉球ものゝ話」
 古書展に行ったり、古本目録を貰ったりして、私の第一に探すのは琉球物である。不思議に二つや三つは必ず見付かるが併し大抵は在り来たりのものが多く、初めて見るといふやうなものは極稀である。沖縄県立図書館の郷土資料室の目録を見ると、内外の書籍約5千冊登載してゐるが、これだけの中で板本は極めて少なく殆ど全部が寫本である。これでは琉球ものが古本として市場に出ないのも當然である。
 先達て白木屋の古書展に行ったら松田道之の「琉球處分」三冊が硝子の棚に納まってゐた。2百圓の札が貼ってあって私など側へも寄りつけないものだが、二三年前には□□堂とかで同じ本が三百圓で賣れたと聞いて益々驚いた。一體この「琉球處分」には甲乙両冊あって、甲冊は清國との交渉顛末、乙冊は主として内政上の處理を記録したものださうだが、甲冊は大震災の時内務省の書庫で全部焼失し残本はなく、乙冊だけが極少部流布してゐて、白木屋に出たのも其の一部で値の高いのも無理はなからう。