古美術なるみ堂の翁長良明さんのところで城間恒有発行の書物を見た。一部だけなので奥付が無く発行年が分からない。国会図書館には『工工四』城間恒有 [作] ; 松村真信 [編], 楽声会, [昭和8]があるが同一なものか。

写真ー前列右端が城間恒有、後方に池宮喜輝。城間については池宮喜輝『琉球芸能教範』月刊沖縄社に詳しい。/翁長氏愛蔵の「志堅原比屋の三線」

1915年8月30日『琉球新報』「琉歌吹込みを聞くー1昨日から石門通り森楽器店主の主催とせる琉球音楽奨励会のレコード吹込みを奥武山公園内城間氏別荘でやっているが昨日吹込みを為すべき音楽家は首里から高江洲氏那覇から城間、伊差川、我謝、池宮城喜輝の諸氏であったー」

1915年9月3日『琉球新報』広告「空前の大提供ー本県家庭の大福音/琉球歌と蓄音器」
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1915年9月3日『琉球新報』「琉歌レコード仕上ー森宗次郎、仝仲太郎、山口全則主催の琉歌レコードは去る31日までに吹込みを終了し1昨日技師等は是を携え上阪せるが該レコードの仕上は多分9月下旬ならんー」


1917年1月 那覇商業銀行 監査役・山城高興、城間恒有、森亀次郎/謝花雲石・島袋石扇「琉球音楽野村流始祖先師顕彰碑」始祖・野村安趙、松村真信、桑江良真、城間恒有、伊差川世瑞、世禮國男

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毛氏古堅盛珍は亀川殿内2代の支流平安名親雲上の長男、1852年生まれ。父の役をつぎ平安名の脇地頭、後読谷山古堅の脇地頭。18歳の頃、弦声の道を安室親雲上に学ぶ。次男盛保。1920年没。1915年、城間恒有別荘でコロンビアレコードに辺野喜節を吹き込む。金武良仁は述懐節を吹き込む。



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池宮喜輝と東恩納寛惇

□池宮喜輝(73)は琉球音楽と仏教の声明(ショーミョウ。補助楽器を用いない声楽)念仏と琉球古典曲との関係を探求した。高野山大学で中山僧正に琉球古典曲「十七,八節」を歌三味線で紹介したら「これは比叡山の天台声明にちかい」との話で、さっそく同僧正の紹介状をもって比叡山に行き、比叡山音律研究所の教授・中川僧正に会い古典曲「十七、八節」を聞かせたら「この曲は、音律、節回しなど声明と密接な関係がある」といわれた。弘法大師時代にできた声明(浄土声明その他)が袋中上人の時代に琉球の風土に移植され、さらに湛水親方によって、古典曲としての面目があたえられたと、池宮は見ているのである。

1987年1月 池宮喜輝『琉球芸能教範』月刊沖縄社
池宮は15歳の頃に空手を赤畑の安座間の島袋という人物の自宅に通い習った。同門に山城正沢、宮里良栄とか、田頭、渡口といった弟子が6,7名だった。後に西の東恩納先生に弟子入りした。その時の相弟子に宮城長順、許田重発や首里の島袋がいた。


儀間比呂志の絵・版画が使われているレコード・CD


池宮喜輝の墓、中央に世界漫遊記念碑→識名
池宮喜輝「東京での沖縄芸能保存会」

池宮喜輝「東京での沖縄芸能保存会」
〇渡嘉敷守良さんは、宮崎から鹿児島市へ転出し、同市において舞踊の指導を始めることになった。当時鹿児島市には別に舞踊団として川田松夫氏の守礼会があって盛んに活躍しており、それに押されて渡嘉敷さんの方はあまり振るわず、踊子としては僅かに孫さんの信子と利秋、兒玉清子の三名と大島出身の娘等が2,3あったに過ぎなかった。