1994年5月 『版画集 儀間比呂志の沖縄』海風社 高橋亨「自費出版にはげんだ初期から」〇大阪の心斎橋筋で似顔絵かきをしていた儀間比呂志に合ったときのことを、ぼんやりとだが、覚えている。新聞記者として美術を担当しはじめてまもない1955年頃だったと思う。そのころ似顔絵かきのアルバイトをする画家たちのことが話題になっていたのであろう。それで取材に訪れた私に、かれは新聞記者には話をしないことにしているが、あんたならええといいながら近くの喫茶店にさそってくれた。1人百円で1日5百円くらの稼ぎになればさっさと引き揚げることにしていたと『儀間比呂志が沖縄について彫って語る本』(1982年3月・みやざき書店刊ー本文は1980年の朝日新聞連載対談再録)で語っているが、そのときも確かそんなことをいいながら似顔絵かきの道具を片付けていたような記憶がある。

〇高橋 亨 Takahashi Toru
1927年神戸市生まれ。美術評論家、大阪芸術大学名誉教授。
東京大学文学部を卒業後、1952年に産経新聞大阪本社に入り、文化部記者として主に展覧会評など美術関係を担当して11年後に退社。具体美術協会の活動は結成直後から実見し、数多くの批評を発表。美術評論活動を続けながら1971年より26年間、大阪芸術大学教授を務める。兼務として大阪府民ギャラリー館長(1976―79)、大阪府立現代美術センター館長(1979―87)。大阪府民ギャラリーでは、具体解散後初の本格的な回顧展「具体美術の18年」(1976)開催と、詳細な記録集『具体美術の18年』の発行に尽力。その他、徳島県文化の森建設顧問として徳島県立近代美術館設立に参画し同館館長(1990―91)、滋賀県立近代美術館館長(2003―06)を歴任。
〇大江健三郎「真に沖縄的な画家ー儀間比呂志の仕事は、あえてこの言葉をもちいれば、いまやわれわれの南島の絵画の代表ということができるだろう。(略)いま本土日本からおしよせる沖縄の自然破壊、また人間のうちなる自然破壊について、もっとも暗くもっとも激しい怒りをあらわしているのを、僕は知らぬということはできない。」


1966年1月 儀間比呂志『版画風土記 沖縄』題字/榊莫山 編集/高橋亨

榊莫山ー三重師範学校在学中、学徒出陣で徴兵され、沖縄に派遣される予定だったが、艦船がなかったために鹿児島で足止めされ、そこで敗戦を迎える→ウィキ)


1969年7月 『儀間比呂志版画集 沖縄』題字/榊莫山〇高橋亨「儀間比呂志の具象画と沖縄」


1974年5月 儀間比呂志『儀間比呂志の版画』講談社□三味線ー朝日新聞のT記者が、新風土記の沖縄編を書くにあたって、視座をコザにすえたのは感心した。それほど、コザには沖縄の政治、経済、文化が集約されている。なかでも、まわりに巨大な基地群をもち、その米軍へのサービス業で栄えている町なのに、島の人たちにしか用のない土着の文化が目立ちすぎるほど、根づいているのには一驚させられる。〇高橋亨「沖縄とは何かをえがく版画ー最近では毎年のように沖縄へ飛び、老母や弟妹の住む那覇の家で何日かをすごしてくるが、それは帰るというより訪れるといったほうがふさわしい。いま作者の帰るところは大阪である。(略)沖縄のみ、土地と作家との全的なかかわりあいのなかから、こんにち儀間比呂志を育てた。ただ人間形成の土壌もしくは環境としてでなく、作者の表現の形式、内容その他あらゆる成長にたえず根源の息吹を与えつづける沖縄という南の世界はいったい何なのか。それは私がここで語りうることではない。それこそ作者が版画によってえがきだそうとするところのそのものなのである。」





1980年8月26日~9月6日 大阪府立現代美術センター「儀間比呂志 版の世界展/」高橋亨・大阪府立現代美術センター館長「その木版画の根の深さ」

1980年9月 雑誌『青い海』96号 「本土の沖縄県人ニュース」



2000年9月ー『ヤマトゥのなかのウチナー(沖縄)』大阪人権博物館□儀間版画も多用されている。



ここで、大阪人権博物館の沖縄関係の展示、シンポジウム、講習会を『大阪人権博物館20年の歩みと総合展示の概要』(2005年12月)からアト ランダムで見ることにする。
1985年12月 「なにわ再発見ー太鼓のふるさと展」
1986年7月  「東松照明『ナガサキ』展」
1987年8月  「平和の願いを風にのせてー儀間比呂志版画展『沖縄戦』、金城実彫刻展『土の笑             い』、西浦宏巳写真展『沖縄・与那国島』」
1988年7月  「儀間比呂志木版画講習会」
1988年9月  「本・『田村義也の仕事』」
1989年4月   「発禁書と言論・出版の自由展」
1989年7月  「福島菊次郎写真展 記念のつどい」
1989年7月  「満州移民・幻想と悲劇-来民開拓団集団自決事件の真相」
1991年1月  「勇崎哲史写真展『沖縄・大神島・家族の肖像』」
1991年10月 「朝鮮侵略と強制連行」
1992年7月  「『倭乱』-豊臣秀吉の朝鮮侵略から400年」
1998年9月  「日本の中の朝鮮文化ー金達寿を偲んで」
 2000年9月には、関西の沖縄県人会有志、ウチナー青年たちが大阪人権博物館と提携し「ヤマトのなかの沖縄」を開催した。その図録は2度とは出せない記録性に富んだ豪華な写真集となっている。今後はこれらをネットで再構成し展開していかねばならない。大阪人権博物館はさまざまな差別、人権問題を考える博物館である。もともとは被差別部落に端を発した差別撤廃運動だが、いまは「アイヌ」「在日コリアン」「性的少数者」「障害者」公害被害者」「水俣病患者」などなどの色んな差別が繰り広がり問題は山積している。これらと向き合おうというのが博物館の趣旨である。

 前出の図録には大阪人権博物館の仲間恵子学芸員が「沖縄人(ウチナーンチュ)をみるヤマトゥンチュは自分自身をみつめているだろうか。自らに無自覚な漫然とした関心は、憧れと排外が表裏一体になっている。『沖縄が好き』『沖縄の文化は素晴らしい』と言う人が、沖縄人の語る歴史に嫌悪感を示すことがある。ヤマトゥでは自らの歴史性や文化性を問うことなく、都合のいい異文化への関心がブームとともに形成されつつある。(略)今年は各地のイベントでいくつもの『守礼の門』がつくられ、壊されていったという」と記し「守礼の門」は一過性の沖縄ブームを象徴しているようだと強調する。

 守礼門が出たので、図録の守礼門の話をする。カラー図版の1896年発行『風俗画報』臨時増刊号の表紙には守礼門が描かれている。26頁の久志冨佐子「滅びゆく琉球女の手記ー地球の隅っこに押しやられた民族の嘆きをきいて頂きたいー」のカットは守礼門である。29頁の島袋源一郎『新版沖縄案内』の表紙は守礼門の版画である。56頁の崎原好仁の遺稿集『琉球之ローマンス』の表紙は岸畑久吉の描いた守礼門がある。なお同著には本間久雄、谷崎精二、日夏耿之介らの序文がある。86頁の民謡パンフレットの表紙カットに守礼門がある。101頁の1972年に沖縄県人会兵庫県本部が作成し会員に配った置物にも守礼門がある。また復帰記念に大阪・沖縄物産センター上進が作った「沖縄ふろしき」にも守礼門がある。