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1922年4月17日『沖縄タイムス』莫夢生(末吉安恭)「陽春雑筆ー神遊は神舞」
○此の程私は上里春生君が書かれた希臘舞曲論を同君から見せて貰った・・・

1929年10月に東京の春陽堂から発行された『校註琉球戯曲集』には末吉安恭(莫夢生)の「組踊談叢」「組踊小言」が収録されていることは夙に知られている。この組踊談の初出は1924年の11月3日『沖縄タイムス』からである。

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莫夢生「組踊談叢」「組踊小言」ー沖縄タイムス紙上では「組踊小言」は11月21日まで連載された。末吉は25日には水死している。おそらくまた題を変え組踊談を述べるつもりであっただろう。

〇1924年11月4日の「組踊談叢」に麦門冬は「今は故人となった書家の仲田朝棟」とあるが、これは朝株である。1907年4月の『琉球新報』に本県書家の1人として仲田朝株とある。1912年2月の新聞の死亡広告に友人として伊江朝助の名もある。朝助は戦後の1953年7月大阪『球陽新報』に七流老人名で「狂歌のやりとりー男色で有名な仲田朝株・・・」を書いている。








1966年2月9日 沖縄タイムスホール「琉球組踊保存会/組踊 大川敵討」



1966年2月9日~10日 沖縄タイムスホール「琉球組踊保存会主催・第一回鑑賞会/組踊 大川敵討」


 谷茶の按司は、人望の厚い大川の按司を滅ぼし大川城を乗っ取るが、大川按司の忠臣・村原の比屋の報復を恐れ、大川の按司の若按司を捕虜にする。今帰仁城からの帰途で悲報を聞いた村原の比屋は、どうにかして若按司を取り返し、主君の仇を討とうと考える。
 村原の比屋の妻・乙樽は、若按司を救うため、若按司の乳母だと偽って谷茶の按司の居城・谷茶城に単身乗り込み、巧みな話術と色仕掛けで谷茶の按司をだますことに成功する。
物売りに身をやつし谷茶城の様子をうかがっていた村原の比屋は、乙樽の使者である泊から谷茶城攻めの時期を聞き、大川の按司の旧臣達を手配し谷茶城へと攻め寄せる。無事大川の若按司と乙樽を救出し、谷茶の按司を捕らえることに成功する。→国立劇場おきなわ