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3代目山口組内弘田組副組長のところに、現・6代目山口組の司組長の名がある。
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髙山 清司/菱心会理事長。(たかやま きよし、1947年9月5日 - )は、六代目山口組若頭兼中部ブロック長、二代目弘道会会長、二代目髙山組総裁(初代組長)、旧弘田組若頭補佐.



2017/5/19  サイゾー特別編集班 『烈侠外伝~秘蔵写真で振り返る加茂田組と昭和裏面史 』 /関連資料 

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三代目山口組内大平組舎弟古川組沖縄支部→2017-6『週刊実話』「神戸山口組現役幹部(古川恵一二代目古川組長)が怒りの激白ーインタビューは尼崎市内の琉真会本部で行われた。」

橋下市長の実父がヤクザというのが『週刊朝日』で報じられていたが、1990年代の大阪市内は市民レベルを反映しヤクザ事務所が彼方此方に有った。橋下ドクサイ市長が新聞記者にトヤカク書かれる筋合いは無い。
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警20年の記録』「1969年 広域暴力団『柳川組』解散」「1970年 非行少年グループ”梅田会″(石田組)」〇この頃、天六の親戚のところに遊びに行く途次、梅田には柳川組系の事務所が目についた。下記の金田組、一会、石田組(章友会)、藤原会など。

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1983年9月『スコラ』「兵庫県下主要暴力団」

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写真ー左が図越 利一(ずこし りいち 1913年9月17日-1998年7月7日)は三代目会津小鉄会会長。
右が石本久吉小久一家総長
□石本久吉原作
1965.10.31 関東破門状  東映京都
1967.08.26 浪花侠客伝 度胸七人斬り  東映京都
1969.02.01 緋牡丹博徒 花札勝負  東映京都
1971.08.26 日本悪人伝  東映京都

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1992年4月 高山登久太郎『警鐘ー無謀なる権力の狭間にて』ぴいぷる社
〇一流建設会社の間にも、いわゆる”談合„が今でも常識化され、実地されている実態をよく知っている。いつでも告発できる資料を持っている。大企業と役人と政治家ーこの三位一体の”なれあい„”癒着〟があっては、どうしょうもない。甘い、うま味のある仕事は、みんな持っていかれてしまう。天下りは、なにもこの北海道開発局にかぎったことではない。大蔵省、通産省、建設省をはじめとしてほとんど全官公庁において、なかば堂々と実地されている。大蔵省の役人たちは、銀行や証券会社へ天下りしている。そこで高給をもらい、4,5年務めて退職金までもらい、あとは遊んで暮らすといった寸法だ。どこまで国民をナメているのか。(略)大体、公務員(官僚)は、退職後2年間は、その前の5年間に密接な関係にあった企業に就職することは禁じられている。しかし、現実には守られていない。-
□高山 登久太郎(たかやま とくたろう、 1928年 - 2003年6月15日)は、ヤクザ。指定暴力団四代目会津小鉄会長。在日本大韓民国民団中央本部中央委員、滋賀韓商常任顧問。本名は“姜 外秀”(カン ウェス)。若い頃は、“今里のタッカン”、“タッカン”と呼ばれた。→ウィキ


写真ー本多仁介
神戸大嶋組の四天王の一人と言われた本多仁介が、1938年豪雨にみまわれた神戸の河川工事を行い本多組を立て1940年に大嶋組から独立、本多組を結成。本多組は倉庫業、湾岸荷役業をシノギとしており「ミナトの六人衆」と呼ばれるようになる。ダイエーの中内功会長も闇市で活動していた当時を回顧し、「本多さんは大親分だったですよ」と証言している。 二代目本多会の時代まで所属していた最後の若衆であった四国の竹形の逝去とで本多会を支えていた者達はほぼ生存しなくなった。本多仁介の関わったものは今や、倉庫会社、建設会社など、いわゆる堅気の企業としてしか残っていない。 →ウィキ

1992年12月ー『新沖縄文学』新城栄徳「来訪者略年表ー1972年3月 小田秀臣(『山口組時報』発行責任者)来沖 」


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1977年9月「朝日新聞の誤報について」(小田秀回状)
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『山口組時報』
私は東大阪の布施駅ちかくに住んでいた。かつて通り道の鶴橋駅を7時ごろ散策のおり小田秀総業の2階でボヤ騒ぎがあり、パトカーが無線で「親分(小田秀)と、子分8人がいる」と喋っていた。その小田秀組長は怒号し子分をどやし続けていた。すぐ目の前だったが火はすぐ収まった。小田秀組長は『山口組時報』の編集責任であった。かつて佐野真一氏も『山口組時報』の編集に誘われていた、と本人が書いている。
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大阪・小田秀組総本部、1980年ー八興建設(瀬川清社長)が2億4、000万円で請け負う

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福岡田川市ー太州会事務局長/右ー太田洲春太洲会会長

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山本健一を中心とした3代目山口組組織図□田岡組長の写真は粟国出身者が多い大阪天六の市場にあった金田組事務所に飾っていたもの、この組事務所は窓が空きっぱなしで組員がいつも不在であった。


山本健一初代山健組組長(バックの扁額は頭山満の書)
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初代山健組組織図

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写真ー1977年6月ー徳島・勝浦会2代目襲名、左から諏訪健治、勝浦隆司、松浦一雄、図越利一、山本健一

 私は東大阪の布施駅ちかくに住んでいた。かつて通勤電車の近鉄線から山本健一組長の入院している大阪市生野区の今里胃腸病院の看板がよく見えた。山本組長は1982年2月4日に肝硬変に腎不全を併発して死去。関西の夕刊紙ではいつも病状を伝えていたので病院の看板が見える毎に思い出していた。