1958年 那覇安里の記憶のカケラ

1960年8月に那覇の琉映本館で「壮烈新撰組/幕末の動乱」を見て以来の新撰組大好き人間だから「維新」を口にする人間は生理的に合わない。そのころオリオンでは「地底探検」「類猿人ターザン」を上映していたせいでもないが、江戸文化を再評価してみたい。

東京江戸博物館や京都国立博物館で開かれた「新撰組展」


「壮烈新撰組/幕末の動乱」中央・片岡千恵蔵

映画ー1960年8月「壮烈新撰組・幕末の動乱」琉映本館・桜坂琉映



東映太秦映画村の片岡千恵蔵コーナー
かたおかちえぞう【片岡千恵蔵】 1904‐83(明治37‐昭和58)
映画俳優。本名植木正義。群馬県生れ。ヒット作の一つに《七つの顔》があるが,遠山の金さん18本,多羅尾伴内11本,宮本武蔵10本,国定忠治9本,浅野内匠頭8本,大石内蔵助6本,机竜之介6本と,当り役の作品本数に明らかなように,まさしく〈七つの顔〉をもつ映画スターであった。それらに共通する個性の特徴は明朗さで,若いころの美剣士ぶりにはユーモアの気配があり,中年以降,豪快さを演ずるときはむろん,一転して虚無的な心情を演じても,どこか明るさを感じさせた。(→コトバンク)

旗本退屈男 はたもとたいくつおとこ (映画)
市川右太衛門を世に知らしめた時代劇映画。もともとは、佐々木味津三*1の時代もの小説。1930年に映画化。以来、戦後の1963年まで作られ、舞台でも数え切れないぐらい上演した。旗本の早乙女主水之介の「眉間に冴える三日月形、天下御免の向こう傷」の名ゼリフと豪快な太刀裁きで人気を集め、右太衛門の代表的な作品になった。また、右太衛門の息子の北大路欣也もこの役を演じた。(はてなキーワード)
◎粟国島の幼年時代、少年雑誌の旗本退屈男をモデルにした劇画をよく模写した。


(上原実所蔵)
月形龍之介(1902ー1970)
阪東妻三郎、大河内伝次郎と並ぶ剣豪スターの一人。日本で最初に創られた俳優養成所の第一期生。尾上松之助の「仙石権兵衛」のチョイ役でデビュー。あらゆる下積みの苦労をなめ、妻三郎主演の「討たるる者」(1924)で準主役に抜擢され出世作とする。戦前戦後を通じての日本映画史上の名優。大スターではじめて性格俳優と呼ばれた。「剣士・沖田総司」(1929/監督・井上金太郎)で月形が自分で企画し自分の月形プロで初めて沖田総司を主役にした映画を撮った。もんくなく最初の沖田総司役者である。伊藤大輔監督と組んだ映画史に残る名作「斬人斬馬剣」、「堀田隼人」の家老役に評価が高い。(はてなキーワード)








1983年10月「神田古書店地図帖」/毎日新聞発行の『アミューズ』1999年、よく古本屋を特集する。

作家・戸川昌子
 作家の戸川昌子さんは1969年3月に、第11回文春講演会で講師として近藤日出造①、五木寛之と共に来沖。

1969年3月2日『沖縄タイムス』「1日ー超満員の聴衆 文春講演 タイムスホールで1日ー好調なスタート切る」
1969年3月8日『沖縄タイムス』「第11回 文春講演ー五木寛之『漂流の思想』/近藤日出造『おかしな話』/戸川昌子『東西雑感』」
1969年3月10日『沖縄タイムス』「作家・戸川昌子さん沖縄見たまま(上)」
1969年3月11日『沖縄タイムス』「作家・戸川昌子さん沖縄見たまま(下)」

①近藤 日出造 (コンドウ ヒデゾウ)
昭和期の漫画家  生年明治41(1908)年2月15日 没年昭和54(1979)年3月23日
出生地長野県稲荷山町(現・更埴市) 本名近藤 秀蔵
経歴ー家業の洋品店の手伝いなどを経て、大正15年上京、昭和3年岡本一平の門下となる。以後九州日報の嘱託をして政治漫画を描き、7年杉浦幸雄、横山隆一らとプロダクション“新漫画派集団(のち漫画集団)”を結成、8年から「読売新聞」に得意の似顔絵を生かした時事漫画を描く。15年“新日本漫画家協会”が結成され、機関誌「漫画」の主筆となり、毎号表紙の時局漫画を描き、ルーズベルトやチャーチルを“鬼畜”にたとえたりもしたが、大政翼賛会から漫画集団への援助を断わるなど漫画への理想論に忠実に生きた。戦後20年10月新漫画派集団が“漫画集団”として新生、その中心人物として後進を育てた。また「読売新聞」に政治漫画の連載をつづけた。39年日本漫画家協会初代理事長に就任し、同協会の発展に尽力。また、テレビ「春夏秋冬」の司会や週刊誌の対談などでも軽妙な味をみせた。著書に「にっぽん人物画」(正続)など。→コトバンク

 デイリースポーツ2016年4月26日ー作家で歌手の戸川昌子さんが26日午前5時47分、胃がんのため静岡県内の病院で死去した。85歳。東京都出身。長男で歌手のNERO(年齢非公表)がフェイスブックで公表した。1962年にはミステリー小説「大いなる幻影」を発表して作家としてデビューし、江戸川乱歩賞を受賞。64年、直木賞候補となった自作を日活で映画化した「猟人日記」で女優デビュー。コメンテーターとしても「三時のあなた」「11PM」「ライオンのいただきます」などで活躍した。46歳で長男を出産した際には、当時の有名人による“最高齢出産記録”として話題になった。67年、東京・渋谷にシャンソンバー「青い部屋」を開店。三島由紀夫、川端康成、野坂昭如、岡本太郎、なかにし礼、太地喜和子ら多くの文化人、芸能人らと交流した。


1953年7月『奇抜草紙』(『モダン生活増刊号』)




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 東京文学の散歩道/日本近代文学館/東京都近代文学博物館
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 1995年12月27日『琉球新報』「戦後50年 日本文学の軌跡」