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1968年12月ー『真鍋博の鳥の眼』毎日新聞社/この年、福岡の金平団地の土建屋でアルバイトをして旅費をためて鹿児島へ向かう。鹿児島の日本調理師会の事務所の紹介で温泉ホテル「中原別荘」(赤線の場所)で調理師見習。鹿児島は古本屋が少ないが、ビルの間から見え隠れする噴煙の桜島は幻想的だ。
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1968年4月6日ーデパート山形屋・丸屋での「日本の開眼・鹿児島百年」展パンフにあった未来の鹿児島。

 今年は「明治維新150年」ということで色んな催しがあった。かつて「維新」というアナクロニズムが流行っていた。これは手垢がつきすぎた坂本竜馬などが象徴となっていた。1968年4月に鹿児島での明治100年はデパート山形屋・丸屋で開かれ私も見た。
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1960年8月に那覇の琉映本館で「壮烈新撰組/幕末の動乱」を見て以来の新撰組大好き人間だから「維新」を口にする人間は生理的に合わない。そのころオリオンでは「地底探検」「類猿人ターザン」を上映していたせいでもないが、江戸文化を再評価してみたい。

東京江戸博物館や京都国立博物館で開かれた「新撰組展」

「壮烈新撰組/幕末の動乱」中央・片岡千恵蔵

映画ー1960年8月「壮烈新撰組・幕末の動乱」琉映本館・桜坂琉映


東映太秦映画村の片岡千恵蔵コーナー
かたおかちえぞう【片岡千恵蔵】 1904‐83(明治37‐昭和58)
映画俳優。本名植木正義。群馬県生れ。ヒット作の一つに《七つの顔》があるが,遠山の金さん18本,多羅尾伴内11本,宮本武蔵10本,国定忠治9本,浅野内匠頭8本,大石内蔵助6本,机竜之介6本と,当り役の作品本数に明らかなように,まさしく〈七つの顔〉をもつ映画スターであった。それらに共通する個性の特徴は明朗さで,若いころの美剣士ぶりにはユーモアの気配があり,中年以降,豪快さを演ずるときはむろん,一転して虚無的な心情を演じても,どこか明るさを感じさせた。(→コトバンク)

NHK大河ドラマは会津が舞台の「八重の桜」である。新選組は、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争に参戦するも、無念の敗北を繰り返した。甲州勝沼戦争を経て、近藤勇が西軍へ投降してもなお抵抗し、戦争の舞台は宇都宮さらには会津へと移る。 会津においては、負傷した土方歳三に代わり、斎藤一が隊長を務めることとなる。白河方面へ出陣し、白河関門の守備にあたる。猪苗代町の母成峠において、会津藩士や新選組隊士を含む800名と西軍3000名とが交戦。
 旧幕府軍の敗色が濃厚な中、土方歳三は援軍を求めて、単身仙台へ向かう。会津に残ることを主張した山口次郎(斎藤一)ら一部の隊士は、市内如来堂において西軍に急襲され全滅したと言われる。(実際には何らかのかたちで脱出し、その後も生存している。) 翌年、土方歳三の函館での戦死をもって、史上最強にして最高の剣客集団「新選組」は武士の時代とともに終焉を迎えた。 →「会津と新撰組」

天寧寺の裏手の墓地には新選組の近藤勇の墓があります。土方歳三が遺髪などを持っていて会津戦の折、ここに仮埋葬したといいます。4月25日の近藤勇の命日には、墓前祭りが開催されます。
また、藩主松平容保が京都守護職にあった際の国家老で、戊辰戦争の責任者となり明治2年に切腹した萱野権兵衛と、その次男郡長正の墓もあります。→「会津若松観光ナビ」

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森銑三①→佐渡山安治宛葉書
森 銑三モリ センゾウ-大正・昭和期の書誌学者,随筆家
生年明治28(1895)年9月11日 没年昭和60(1985)年3月7日
出生地愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)
学歴〔年〕文部省図書館講習所〔大正15年〕卒
主な受賞名〔年〕読売文学賞(第23回・研究翻訳部門)〔昭和46年〕「森銑三著作集」
経歴郷里の刈谷図書館開館に伴い寄贈された国学者・村上忠順の蔵書整理・目録編纂に従事。東京大道社、代用教員、市立名古屋図書館などを経て、東京帝大史料編纂所勤務。この間、三古会、伝記学会などを創立。昭和14年尾張徳川家・蓬左文庫主任。近世の埋もれた人物の発掘、研究に力を注ぎ、在野の歴史家として「平賀源内」「渡辺崋山」「池大雅」ら多くの人物研究、伝記を手がけたが、戦災により一切の研究資料を焼失し人物研究を断念。23年古典籍商である弘文荘に入社。傍ら、25〜40年早稲田大学講師として書誌学を講じたが、その間“西鶴の浮世草子は「好色一代男」だけで他は西鶴自身の著作ではない”と論じて学界に波紋をまき起こした。主著に「近世文芸史研究」「おらんだ正月」「井原西鶴」「明治東京逸聞史」などがあり、「森銑三著作集」(全12巻・別巻1 中央公論社)、「森銑三著作集続編」(全16巻・別巻1)がある。→コトバンク