1940年1月、在米沖縄県人会『琉球』7号□幸地新政「太平洋の危機と在米同胞ー第一次世界大戦の終わりと共に、来るべき世界制覇の舞台は、周知の如く太平洋に移動したのである。(略)若し、日米間に万一のことがあれば、その直接の発火点は疑いもなく蘭印問題であろう。(略)米国政府は1939年7月26日に日本政府に向かって日米通商航海条約の廃止を通告した。これは日支事変に対する米国の日本への抗議の一形態であり、さらに軍需品禁輸断行の事前工作である。米国にも日米開戦論があると同時に又、日米非戦論即ち日米親善論も決して侮るべからざるものを内包している」
アメリカ合衆国ワシントン州のタコマナローズ海峡に架かるつり橋で、1940年11月7日に強風の共振による影響で崩落しました。(いちらん屋) 
1941年7月、フランクリン・ルーズベルト大統領(民主党)行政命令でCOI(情報調整局)設置。ウィリアム・ドノバン(アイルランド系)長官→1942年6月、大統領行政命令でCOIが廃止、OSS(戦略事務局)設置。ウィリアム・ドノバン長官
1941年、第二次大戦勃発と同時に、アメリカ政府によって、日系人11万人余は永年住みなれた家を追い立てられるように着のみ着のまま家族と共に僻地に設けられた10ヶ所の収容所に送られた。(アリゾナ州のボストン収容所とギラ収容所、アーカンサス州のジェローム収容所とロワ収容所、ユタ州のトバズ収容所、コロラド州のグラナダ収容所、ワイオミング州のハートマウンテン収容所、アイダホ州のミネドカ収容所、カリフォルニア州のツールレイク収容所とマンザナー収容所)。この日系人の収容にあたってはドイツのユダヤ人検索同様にIBMの機械が活躍した。
□731部隊 - Wikipediaja
初代部隊長の石井四郎(陸軍軍医中将)にちなんで石井部隊とも呼ばれる。 満州に拠点をおいて、防疫給水米軍 (GHQ)との取引 [編集]終戦時に特別列車で日本に逃げ帰った石井ら幹部は、実験資料を金沢市に保管、千葉の石井の実家にも分散して隠し持っていた。戦後、石井は戦犯追及を恐れ、病死を装い、千葉で偽の葬式まで行い行方をくらます。
原子力ー1942年12月2日、最初の自律核連鎖反応ーこれが原子力の鍵であるーが、イリイノ州シカゴのウラニウム炉の中で発生した。これは、人類の幸福のために発展せしめ得る巨大な力の新しい源であった。第二次世界大戦の終結の時、合衆国は、この原子エネルギーの平和的利用に関する計画を国内及び海外において進展させるための方法を研究し始めた。(以下略)


〇犯罪王アル・カポネも真っ青、葉巻を銜えたルメー /勲一等旭日大綬章
沖縄の新聞報道によると、日本に居る米軍幹部に日本政府は「日本を護ってくれて有難う」という意味なのか勲章を贈っているという。かつて日本を空襲で焼き払ったルメーに勲一等旭日大綬章を贈った話はネット上に飛び交っているが今でも勲章を贈っていたことに疑問を持つ。ルメーは1945年に日本占領は「百年間続く」とほざいた。たしかに日本の現実はアメリカの属国と化している。『アメリカの属国で悪いか』という本も出て居直る性質の悪いのも居る。今年は敗戦70年。「敗戦後100年」は無いと思うが、そのアメリカ占領100年を目指そうとしている安倍麻生自公政権は辺野古新基地をつくり、嘗てルメーが言った米軍の日本占領は百年続くことを実現しようと試みる。大多数の日本国民もそれを支持している。(2015-1記)

アメリカ軍統治下の「オキナワ」1945年
1945年3月26日 アメリカ軍、慶良間諸島に上陸開始(~28)/島民の「集団自決」あいつぐ
1945年4月1日 アメリカ軍、北谷村嘉手納の渡具知浜に上陸
1945年4月2日 読谷村チビチリガマで住民の「集団自決」おこる。村内数ヶ所でもあいつぐ
1945年4月5日 アメリカ海軍、読谷山村比謝に軍政府樹立。ニミッツ布告を発して軍政に着手した。
1945年4月13日 『台湾新報』「敵米の陣営に蠢くB29の元凶カーチス・ルメー」
1945年4月16日 アメリカ軍、伊江島に上陸。ついで本部半島制圧(~18)
1945年4月22日 『週刊朝日』大仏次郎「沖縄決戦を直視して」
null
null
null
null
1945年7月26日『ウルマ新報』(ガリ版)創刊号
□第二号ー7月26日/第三号ー8月1日/第四号「原子爆弾太平洋戦線に現る」ー8月15日/第五号ー8月22日/第六号(この号から活字)8月22日=翁長良明氏所蔵□沖縄県立図書館は「大嶺薫資料」に入っている。
□琉球週報は米軍の前線部隊が捕虜となった日本人の協力をえながら発行した新聞である。創刊号が出た4月29日は奇しくも「沖縄新報」の終刊号が出た日であった。1980年3月ー那覇市企画部市史編集室『写真集・那覇百年のあゆみ1879~1979年』
 参考ー2004年12月大田昌秀『沖縄戦下の米国心理作戦』岩波書店
1945年7月28日9時49分、濃い霧の中をニュージャージー州のニューアーク・リバティー国際空港に着陸しようとしたアメリカ陸軍の中型爆撃機 B-25が、エンパイア・ステート・ビルディング(英: the Empire State Building)内79階の北側に衝突して機体が突入するという事故が起こった。79階で火災が発生し、衝突時の衝撃で機体から脱落したエンジンが破壊したエレベーター扉と同シャフトを経て80階へ延焼したが、約40分後に消火された乗員3名を含む死者14名を出したものの、比較的小型の機体であった上に着陸直前で燃料残量が少なかっことから建物自体への損は比較的少なく、事故後2日で営業を再開している。→ウィキペディア
1945年5月7日 石川に城前初等学校開校 
1945年5月20日 『週刊朝日』親泊朝省「敵の恐怖、わが沖縄特攻隊」
1945年5月26日 南風原の野戦病院、真壁村に移動
1945年5月27日 第三十二軍司令部、首里から津嘉山へ、ついで摩文仁に移動(~30)/『週刊朝日』土屋文明「琉球阿嘉島国民学校生徒の勇戦を讃ふ」
1945年6月23日 沖縄戦終結ー戦没者 一般住民9万4000人、日本軍将兵9万4136人、アメリカ軍将兵1万2281人 計20万417人

1945年9月5日『ウルマ新報』(活字)「ミズリー号で歴史的署名式、劇的に終了」「日本に於いては闇取引が盛ん」」「軍政府に於いては本島民待望の通信事務開始」
1945年9月26日『ウルマ新報』「マッカサー元帥の語る日本の現在と将来」「アメリカ国務長官代理アチソン氏『マッカーサーは単なる管理者で政策決定の権限なし』」「各地区市会議員当選者」
1945年11月11日 東京丸ビルの沖縄県事務所で沖縄人連盟発足
1945年11月21日『ウルマ新報』「米英加の三国首脳 原子エネルギー会談」
1945年12月6日 沖縄人連盟機関紙『自由沖縄』創刊(編集発行・比嘉春潮)
1945年12月19日『ウルマ新報』「山下泰文大将 死刑の宣告」「糸満市建設着々」
1945年12月26日『ウルマ新報』アメリカ合衆国マリン軍大佐・軍政府副長シー・アイ・マレー「年末の挨拶」
NHKが、2010年8月6日NHKスペシャル『封印された原爆報告書』にて調査報道した。 その報道の内容は次の通り。字幕:昭和20年8月6日、広島。昭和20年8月9日、長崎。
ナレーター:広島と長崎に相次いで投下された原子爆弾、その年だけで、合わせて20万人を超す人たちが亡くなりました。原爆投下直後、軍部によって始められた調査は、終戦と共に、その規模を一気に拡大します。国の大号令で全国の大学などから、1300人を超す医師や科学者たちが集まりました。調査は巨大な国家プロジェクトとなったのです。2年以上かけた調査の結果は、181冊。1万ページに及ぶ報告書にまとめられました。大半が、放射能によって被曝者の体にどのような症状が出るのか、調べた記録です。日本はその全てを英語に翻訳し、アメリカへと渡していました。→ウィキ
参考資料ー
1979年2月『戦後沖縄写真記録ーゼロからの時代』那覇出版社/1979年3月『沖縄戦後写真史ーアメリカ世ーの10年』月刊沖縄社
2012年8月 『オキナワグラフ』「伝単ー翁長良明コレクション(携帯090-3793-8179)」




2001年1月 『マッカーサーの日本占領』世界文化社
マッカーサーの日本 1945年8月ー1951年4月
。1945年8月14日、日本は連合国に対し、ポツダム宣言を受諾した。日本を占領する連合国軍の最高司令官にはダグラス=マッカーサー元帥が任命された。占領行政がスムーズにいったのは、一つにその中枢神経が東京の都心に集中していたからである。もし、占領を司るこれらのセクションがはいる建物がなかったら、占領の性格そのものが大きくかわっていたことであろう。もともと米空軍は都心部の爆撃を避けるよう命令されていた。/ワンマン宰相・吉田茂ー反対者を罵倒するその姿は「ワンマン」の名にふさわしい。ただしそれができたのは、マッカーサーの権威を借りたからである。(袖井林二郎)

○現代に至る日米関係はすべてマッカーサーが作り上げたと云って過言ではない。日本は敗戦国のトラウマを未だに引きずっている。
1946年5月15日、『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版が創刊。
1947年1月、東京裁判ソ連側検事のヴァシリエフ少将が石井らの身柄の引渡しを要求。ソ連は既に731部隊柄沢(からさわ)班班長であった柄沢十三夫少佐を尋問し、アメリカが把握していなかった中国での細菌戦と人体実験の事実を聞き出していた。 同年2月10日、GHQはワシントンへ「石井達をソ連に尋問させて良いか」と電文を出す。同年3月20日、それに対しワシントンは「アメリカの専門家に石井達を尋問させる。重要な情報をソ連側に渡してはならない」と回答。
石井は再度のGHQの尋問に対し、人体実験の資料はなくなったと主張。さらに、アメリカの担当者ノーバート・フェル博士に文書での戦犯免責を求めると共に、「私を研究者として雇わないか」と持ちかけた。近年アメリカで公開された資料によると神奈川県鎌倉での交渉で731部隊関係者側が戦犯免責等9か条の要求をしていたことが判明。「日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる」、「報告はロシア人には全く秘密にされアメリカ人にのみ提供される」等と書かれており、731部隊の幹部たちは戦犯免責と引き換えに人体実験の資料をアメリカに引き渡した。最終報告を書いたエドウィン・V・ヒル博士は「こうした情報は人体実験に対するためらいがある(人権を尊重する)我々(アメリカ)の研究室では入手できない。これらのデータを入手するため今日までかかった費用は総額25万円(当時)である。これらの研究の価値と比べれば、はした金に過ぎない」と書いている。結局、東京裁判においても731部隊の関係者は誰1人として裁かれていない。なお、ソ連によるハバロフスク裁判では訴追が行われている。 
1947年7月に日本社会党の片山哲を首班とする片山内閣が発足したが、片山はクリスチャンであり、マッカーサーはクリスチャン片山の総理大臣就任を喜び「今や東洋の三大強国にキリスト教徒出身の首相、中国の蒋介石、フィリピンのマニュエル・ロハス、日本の片山哲が誕生してことは広く国際的な観点から見ても意義が深い。これは聖なる教えが確実に広まっている証である・・・これは人類の進歩である。」と断言し、片山内閣発足を祝福したが、マッカーサーの期待も空しく、片山内閣はわずか9ヶ月で瓦解した。
 マッカーサーはその権力をキリスト教布教に躊躇なく行使し、当時の日本は外国の民間人の入国を厳しく制限していたが、マッカーサーの命令によりキリスト教の宣教師についてはその制限が免除された。その数は1951年にマッカーサーが更迭されるまでに2,500名にもなり、宣教師らはアメリカ軍の軍用機や軍用列車で移動し、米軍宿舎を拠点に布教活動を行うなど便宜が与えられた。またポケット聖書連盟に要請して、日本語訳の聖書約1,000万冊を日本で無償配布している。→ウイキ
1948年2月 伊波普猷『沖縄歴史物語』「奈翁と英艦長との琉球問答ーセントヘレナに於ける1817年8月13日の昼過ぎー」マカレー東本願寺

1948年夏 比屋根安定(中央)、その左が岩原盛勝


1950年  内間安瑆、イサム・ノグチに禅、茶道に関する書籍の翻訳を頼まれ、以後、生涯にわたり交流する。

昭和25年3月18日から6月12日まで朝日新聞社主催、外務省・通産省・建設省・文部省・国鉄そして西宮市が後援し、連合軍総司令部の全面的協力によって「アメリカ博覧会」が開催されました。戦後における本格博覧会の最初であり、国際性、スケールとも空前の大きさを誇り、大阪市内ではカウボーイの市中行進、東京から西宮までの直通バス「ブロンディ号」が走り、西日本各地からは修学旅行・団体旅行で訪れた。阪急スタジアムとその南側はアメリカ博の第一会場でした。球場正面の“自由の女神”に迎えられ、正門をくぐるとホワイト・ハウスがあり、アメリカの歴史と文明をジオラマ等で紹介します。モデルハウスやシボレー、フォードなどの最新の自動車を展示した自動車館も人気を博しましたが、最も注目を集めたのは「テレヴィジョン館」でした。野外劇場で撮影された映像が館内に流れ、多くの人が足を止めて見入ったようです。3年後の昭和28年、NHKのテレビ試験放映にも繋がったものです。→「歴史と文化財(楽しむ・学ぶ) › 西宮の歴史」
1952年8月6日『アサヒグラフ』「原爆被害」の初公開」
1953年   男性向けの月刊雑誌『PLAYBOY』 ー実業家ヒュー・ヘフナーやエルドン・セラーズ(Eldon Sellers)などが共同でシカゴで創刊。
1954年7月 中野五郎『アメリカの暗黒ー米国を衝動した大事件』角川書店
1954年9月1日 ベッテルハイム百年記念祭実行委員会『伯徳令ーベッテルハイム博士滞琉百年記念誌』印刷/沖縄タイムス社
○写真ー護国寺、ーベッテルハイム博士、琉球訳聖書「ヨハネ伝」部分
川平朝申「ベッテルハイム博士の来琉」/波上の眼鏡ーベッテルハイムのこと」/仲地紀晃「ベッテルハイム博士と医者・松景慎仲地筑登之親雲上紀仁のこと」/金城清松「琉球に於ける牛痘接種法とベッテルハイム博士」/島袋源一郎「ベッテルハイムの碑」/比嘉盛章「伯徳令の伝道は実ったが琉球政庁に刈り取られた」/川平朝申「エピソード一拾遺集 涙もろい伯徳令さん」
1955年1月13日『朝日新聞』「米軍の『沖縄民政』を衝くー米国からの手紙で自由人権協会が調査/ボールドウィン氏の手紙」
1955年3月11日ー『琉球新報』「伊江島と伊佐浜 土地収用」

銃剣とブルドーザー 




目次/基地難民のはじまり/伊江島/伊佐浜/具志/銘苅/渡具知/土地接収の背景にある布令、条約など/住民を不安に陥れた新たな土地接収計画/島ぐるみの抵抗/復帰後は米軍の銃剣に代わって。
→1998年3月 沖縄県教育委員会『銃剣とブルドーザー 戦後①』(沖縄県史ビジュアル版)→コメントー昨今は日米国家が国家の暴力装置(防衛局・警察・海保・沖縄総合事務局など)を使って辺野古の「核弾薬庫」跡に核基地を造るに必死である。
1955年4月19日『琉球新報』上間朝久○琉球舞踊雑観ー琉球歴史は既に郷土研究の先哲伊波普猷先生を初め、真境名笑古、末吉麦門冬、東恩納寛惇、島袋全発の諸家に依って解明されたが、中でも琉球古文化の研究という点においては、郷土史家の鬼才末吉麦門冬に負うところ多大であった。
1955年8月 岡倉古志郎『財閥 かくて戦争は、また作られるか』光文社
○敗戦後の10年間に、日本は、よかれあしかれ、アメリカの政治上、経済上、軍事上の支配をつよくうけるようになってしまっている。そして、それは、事実上、アメリカの大財閥が日本を支配していることを意味する。日本の財閥は、アメリカの大財閥によりかかり、協力することによって、敗戦のいたでから復活しつつある。だが、いま、日本を、あなたや、わたくしを新しい戦争、原子戦争の危険に立ち向かわせている原因は、まさに、そこにあるのではなかろうか。原水爆実験の危険、原子戦争の危険、また、そればかりでなく、軍事基地の問題や黄変米の問題や不景気や失業や就職難や、あなたやわたくしの生活のすべての原因も、やはり、そこにあるのではなかろうか。
1955年9月3日 石川市の永山由美子ちゃん(6歳)が米兵に暴行・殺害され嘉手納海岸で発見された。同年12月に米兵に死刑を宣告されたが、その後アメリカに送還されうやむやになった。
1955年9月8日『琉球新報』「日本新聞週間の当選作ー新聞は世界平和の原子力」
1955年9月10日 具志川村明道のB子ちゃん(7歳)宅に黒人兵(レイモンド21歳)が押し入り拉致、強姦。
1955年9月12日 越来村胡屋区女子ホーム(島マス園長)に黒人兵3人が踏み込もうと戸板をはぎ騒がれて逃走した。
1955年11月7日『琉球新報』「”琉球の舞姫〟根路銘房子嬢ハワイで引っ張りだこ/京マチ子、草笛光子にも劣らぬ明眸」
1955年12月26日『琉球新報』「揺らぐ原爆基地沖縄」

1956年11月 木村文平『米軍の諜報機関』東京ライフ社〇苦しい戦いが終わって、ほっとしたのも束の間、われわれは、更に恐怖の占領統治に喘いだ。日本の軍閥にとって代わった連合軍は、口に自由を唱えながらも、その実腹の底は搾取一途だった。占領下、苦難の七年間!彼らは政治を動かし財政を牛耳り、労組を弾圧し、言論出版の自由を認めながら、窃かに親書にさえも検閲を強化した。ある者の身辺には常に密偵の眼が光り、MPの拳銃が威嚇しつづけていた。本書は、かつて米軍の出先諜報機関の一員だった著者が、彼らの行動を衝いたものである。
1957年11月 アプトン・シンクレア/並河亮 訳『砂漠の夜の夢ー世界第三次大戦の恐怖ー』日月社
1958年11月 真境名由康父娘来布
1958年11月 ハンソン・ボールドウィン/中野五郎訳『これが核兵器競争だ!!ー最新の米ソ軍事力の比較と戦略』実業之日本社
○はしがきー戦争における工業技術的革命は、米国の地理的な孤立性を永久に打破してしまった。わが開拓時代のインディアン族と戦って以来はじめて、米国の海と空の辺境は恐るべき死の攻撃にさらされているのだ。いまや世界地図はその遠近が短縮されている。すなわち北極地方の氷山も広大な大洋もけわしい山脈も、もはや攻撃を阻止する障害ではなくなっている。米国はその領土の辺境を守備しても、もはや比較的な安全保障さえ見出すことは決してできない。すなわち、われわれは大洋の真ただ中の監視哨と北極の見張りと海外基地と全世界的な前哨線と、さらにやがて空間探察までも必要とするものだ。
○写真ー地対地中距離弾道弾/アメリカ空軍の地対空誘導弾「ボマーク」の発射風景/人工衛星を先端につけた地対地中距離弾道弾(IRBM)「ジュピターC型」(米陸軍)の発射光景/米空軍の巨大な輸送機C-133「カーゴマスター」が中距離弾道弾(IRBM)「ソーア」を積込み中の光景/ソ連のミサイル兵器陣容/誘導弾装備のアメリカ新型巡洋艦「ガルヴェストン」と地対空誘導弾「タロス」(射程65マイル、超音速)の発射装置/最新、最大の原子力潜水艦「トライートン」(長さ447フィート、排水量5900トン、1958年進水)ーこれは2年間も燃料を補給をせずに航読力を有するので「海底の人工衛星」と呼ばれている
1959年1月 『守礼の光』創刊号(表紙・崎山さん)「写真ー守礼門」、納富浪連子「原子力を平和へ」
1959年6月 ヒロ市の浦崎政致の息子・政一は18ヶ月ぶりで両親見舞いで帰布、1945年8月28日、情報本部附民間人、そしてアメリカ人として最初に東京に入って通訳。琴に東条大将とは死せし約一ヶ月半寝食を共にし世話したので大将から軍服を貰った。



1959年5月『オキナワグラフ』
1959年  御茶ノ水/喫茶ジロー「二人展 内間安瑆・吉田穂高」
1959年6月30日、午前10時30分頃、嘉手納基地の第313空軍師団所属Fー100Dジェット戦闘機が、テスト飛行中に空中で爆発炎上、パイロットは具志川村天願あたりでパラシュート脱出した後、無人飛行機は石川の街へ突入した。街では市民がいつもと変わらない日常生活を送っていた。宮森小学校では2時限目が終わって、ミルク給食の最中であった。ジェット機は、炎を吹きながら超低空飛行で宮森小学校近くの6区5班の民家に激突、その衝撃で跳ね上がり、家々を引きずりながら、100メートル先の宮森小学校のコンクリート校舎に激突した。跳ね上がったジェット機は、6区8班とそのすぐ隣の小学校のトタン葺校舎に大量の燃料を撒き散らして炎上させ、2年生の児童6人と住民2人が焼死した。この大惨事は、住民6人、児童11人の死者、負傷者210人(児童156人)、住家17棟、公民館1棟、宮森小学校3教室を全焼。住家8棟半焼、2教室を半壊するという甚大な被害をもたらした。□→2009年6月ーうるま市立石川歴史資料館『あれから50年 石川ジェット機墜落事故』→2011年6月30日、本日」は米軍機が宮森小学校に墜落した日である。その日に森本防衛相がよく墜落する米軍機を沖縄に配備するため来沖したそうである。マンガではなく現実である。
1961年2月 『オキナワグラフ』「沖縄へのアドバイスーホノルル夏の家快談」出席者ー当山哲夫(月刊「市民」社長)、仲嶺真助(2002年7月『仲嶺真助自伝』新報出版)、上原正治(エバーグリン・レストラン社長)、ワーレン比嘉(中央太平洋銀行モイリリ支店長)、安里貞雄(ハワイ沖縄人連合会顧問)、コンラッド赤嶺(元ホノルル日本人青年商工会頭)
1961年3月 『守礼の光』「姉妹都市ー那覇とホノルル」
1961年4月 「ホーレー文庫」が布大の手に入り、東西文化センター内に「沖縄文庫」を開設し陳列された。/5月 仲原善忠、比嘉春潮来布

1961年5月『今日の琉球』玉那覇正吉「守礼門」/6月 山元恵一「ハ竜船」
1961年6月 『守礼の光』「東西両文化の新しいかけ橋ーハワイ大学東西文化センター」
1961年8月4日 オバマ・バラク・、ハワイ州ホノルルにある病院(英語版)で生まれる。 実父のバラク・オバマ・シニア(1936年 - 1982年)は、ケニアのニャンゴマ・コゲロ出身(生まれはニャンザ州ラチュオニョ県Kanyadhiang村)のルオ族、母親はカンザス州ウィチタ出身の白人、アン・ダナムである。 父のオバマ・シニアは奨学金を受給していた外国人留学生であった。2人はハワイ大学のロシア語の授業で知り合い、1961年2月2日に周囲の反対を押し切って結婚、 アンは妊娠しており、半年後に、オバマ・ジュニアを出産する。→ウィキペディア
1962年  バックミンスター・フラー、ジョン・マッケールとともに南イリイノ大学に世界資源目録所を開設。
1962年  那覇市で野外展「太陽と作家の出会い」真喜志勉、比嘉良治、永山信春、西銘康展
1962年5月 『守礼の光』「立法院議員ハワイを見るーキャラウエイ高等弁務官のあっせんにより、琉球立法院議員の当銘由憲氏、嘉陽宗一氏、真栄城徳松氏、平良幸市氏の一行4人は、このほど6週間にわたり、とこ夏の国ハワイをおとずれました。」
1962年6月 『守礼の光』「ハワイに学ぶ営農の近代化」
1962年6月 宇良啓子がラジオKTRG局より電波に乗せて「沖縄貴族階級の方言で小咄を創作して」放送。
1962年6月 外間政章 訳注『ペリー提督 沖縄訪問記』研究社印刷
1962年7月 『守礼の光』「ハワイ同胞の警告『あわてて復帰は損』ーハワイ島のヒロ市で、内科と外科の開業医をしているマタヨシ・ゼンコウ博士は、琉球の古い友人や親類の人たちに会うため、このほど23年ぶりに、琉球をおとずれました。」/ヘンリー・ナカソネ(ハワイ大学付属農業試験場)「琉球の園芸の現状と可能性(1)」
1962年10月 『守礼の光』外間政章「1854年に結ばれた琉米条約

1963年 東京ー金城珍栄を囲んで、右から比嘉春潮、比嘉良篤、瀬長良直、當間重剛、金城珍栄、島清、仲原善忠
1963年5月 仲嶺真助、日本人連合協会会長に選出。/10月 琉球国民党総裁の大宜味朝徳は米軍用機で来布。
1963年7月 国際興行の小佐野賢治、ハワイのプリンセス・カイウラニ・ホテル買収□12月、モアナ、サーフライダー2ホテル買収/1974年9月 ワイキキ・シェラトン、マウイ・シェラトン、ロイヤル・ハワイアン3ホテル買収
アメリカ合衆国のオハイオ州カナウガとウエストバージニア州プリーザントのオハイオ川に架かっていたつり橋であるシルバー橋は、 1963年12月14日に崩落し、車両31台が巻き込まれ46人が死亡、18人が負傷しました。(いちらん屋)