1975年2月 雑誌『青い海』40号 「沖縄の食べもの文化考/豚の泣く日」

1957年3月 与那国善三『新沖縄案内』沖縄観光協会/印刷・おきなわ社
○広告「沖縄唯一の百貨店 観光お土産にもっとも喜ばれる品々」「サービスのオアシス 料亭小川荘(小橋川和子)」「沖縄観光協会指定旅館 鶴よし」「ホテル琉球」「沖縄観光協会指定 沖縄ホテル」「コザホテル(国吉鶴子)」「大津旅館(津波幸盛)」「ホテル森乃(名嘉真キヨ)」「沖縄観光協会指定旅館 初音館」「沖縄観光協会指定 観光ホテル厚養館(岸本金光)」「料亭・山手(長峯春良)」「料亭・登美の家(金城利江)」「料亭・新鶴(我那覇文子/佐久本嗣子)」「料亭・那覇/東京支店・琉球亭なは(上江洲文子)」「レストラン松屋(前田義善)」
1960年1月8日『琉球新報』島袋盛敏「仲宗根章山翁の思い出ー首里城懐古」(写真/)仲宗根真吉、摩文仁憲和、新垣良光、島袋盛敏。明治42,3年)
1960年1月10日『琉球新報』「新春インタビュー石野記者/朝倉文夫×浜田庄司」

 1960年1月17日『琉球新報』坂口総一郎「順応する生活態度ー40年前クリ舟で体験した人生観」
1960年10月8日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと①島本豊氏(日航沖縄支店長)独自の風土活かせ」
1960年10月9日『琉球新報』「座談会/本土経済人の見た沖縄ー観光地として有望」今里広記/湯浅佑一/五島昇/鹿内信隆
            「観光沖縄にひとこと②松川久仁男氏ー海の特色売り物に
1960年10月10日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと③太田守徳氏(国際中央通りほしい立派な歩道」
1960年10月11日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと④儀間光裕氏ーきたないガーブ川」
1960年10月12日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑤東盛良恒氏ー”南国沖縄„打ち出せ」
1960年10月13日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⓺島袋清氏(ハワイ球陽観光団長)全住民も関心持て」
1960年10月14日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑦宮里辰彦(リウボウ専務)政府、住民も協力を」/糸満盛信「沖縄の古武術」①
1960年10月15日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑧荻堂盛進氏ー島ぐるみで協力を」/「あれから15年ー本土の沖縄開拓村を行く 千葉県三里塚の沖縄農場」
1960年10月16日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑨宮里定三氏ーホテル施設の充実」→2016年6月ー那覇空港見学者デッキに「沖縄観光の父・宮里定三」(ブロンズ像)設置
1960年10月17日『琉球新報』「観光沖縄にひとこと⑩宮城仁四郎氏ー花いっぱい運動を」
1960年10月18日『琉球新報』「あれから15年ー本土の沖縄開拓村を行く 東京新生会」

1961年5月29日ー第二回粟国郷友会総会(レストランアサヒ)
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1963年
6月6日ー粟国郷友会4代目会長に屋宜宗一
11月ー安里幸一郎、大阪南の割烹関西で調理修行。

1965年
5月 源武雄『琉球歴史夜話』月刊沖縄社/印刷・緑地印刷事業股份有限公司
○廃藩置県直前の辻遊郭/黒糖文化史/イモの文化史/パインの歴史/泡盛と歴史/琉球料理の話/豪華な御冠船行事
5月23日ー粟国郷友会5代目会長に安村善太郎

2003年1月24日「関西沖縄』報⑤
1966年  田島清鄕『琉球料理』月刊沖縄社

1967年
1月 日本料理研究会『日本料理』19巻新年号□川島四郎①「酒一合と牛乳一合の比較論」/白井喬二②「味の始まり」/加藤藤吉③「江戸から東京へ97大正世相史」清水桂一④「料理品名考(18)清水鮓年表」

①1895-1986 昭和時代の栄養学者。
明治28年2月8日生まれ。陸軍で軍用食糧を研究し,携帯食糧などを考案。桜美林大教授,食糧産業研究所所長などをつとめた。栄養と食物についての執筆や講演で活躍した。昭和61年12月3日死去。91歳。京都出身。東京帝大卒。著作に「まちがい栄養学」など。→コトバンク
②[生]1889.9.1. 横浜 [没]1980.11.9. 茨城,龍ケ崎 小説家。本名,井上義道。 1913年日本大学政経科卒業。『忍術己来也 (じらいや) 』 (1922~23) ,『神変呉越草紙』 (22~24) の2つの長編忍法小説が芥川龍之介,菊池寛らの激賞を受け,『新小説』に執筆の機会を得て作家としての地位を固めた。→コトバンク
③手元に『全国花街連盟名簿』(加藤藤吉編、全国花街連盟発行、昭和31年)と題されたB六判の小冊子がある。そこには、北海道から鹿児島にいたるまで、都市部を中心に600を超す関係団体(料理業組合、芸妓組合、置屋組合など)とその所在地が掲載されている。『日本花街志』の著者紹介によると、加藤は明治27(1894)年に東京に生まれ、浅草の花街に家業の料亭を継ぐ。その後、全国の花街の研究を志し、昭和4(1929)年には『柳橋沿革誌』(柳橋開橋祝賀会事務所)を編集した。→転点notes
④清水 桂一 (1907-1980)

2月 日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本人の舌と鼻」/添田知道「調理界の長老 原勇蔵」/加藤藤吉「江戸から東京へ(98)大正世相史」/清水桂一「料理関係書一覧表」/知切光蔵「天狗の系譜」
3月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本人と菓子(その1)」/加藤藤吉「江戸から東京へ(99)大正世相史」/清水桂一「料理関係書一覧表」
4月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本人と菓子(その2)」/加藤藤吉「江戸から東京へ(100)大正世相史」/清水桂一「料理関係書一覧表」/内田春夢「春夢覚え書ー『日本は敗戦国ではないー負けたのではないのである・・・・地球上から人類を抹殺するが如き野蛮極まる戦争を、日本は、全世界の人類の幸福のために、率先、放棄しただけなのである』これは先年逝去された元陸軍大将荒木貞夫氏の”終戦の弁„である・・・」
5月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本人と菓子(その3)」/加藤藤吉「江戸から東京へ(101)大正世相史」/清水桂一「律令時代の鮓」/内田春夢「春夢覚え書きー酒とは愚痴なもの」
6月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「漢方薬と食物」/加藤藤吉「江戸から東京へ(102)大正世相史」/清水桂一「コンフリー料理」/内田春夢「春夢覚え書きー鰻串」
7月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「日本人とチーズ」/清水桂一「明治の料理」
8月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「食塩恐怖症」/加藤藤吉「江戸から東京へ(104)大正世相史」/清水桂一「明治の料理あつめ」/内田春夢「春夢覚え書きーうすれゆく」/佐藤伍一「アメリカ見てある記(14)」
9月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「はき違えの栄養知識 その1」/加藤藤吉「江戸から東京へ(105)大正世相史」/清水桂一「明治の料理屋」/内田春夢「春夢覚え書きー河岸揚 東京の魚市場は、築地、千住、大森の三か所である。このほかに私営の魚市場も数か所、あることはあるが、それはごく小規模のものである。・・・」/佐藤伍一「アメリカ見てある記(15)」
10月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「はき違えの栄養知識 その2」/加藤藤吉「江戸から東京へ(106)大正世相史」/清水桂一「明治の料理屋」/内田春夢「春夢覚え書きー立ん坊」/佐藤伍一「アメリカ見てある記(16)」
11月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「はき違えの栄養知識 その3」/加藤藤吉「江戸から東京へ(107)大正世相史」/清水桂一「明治の料理屋3」/内田春夢「春夢覚え書きーメガネの黒と白」/佐藤伍一「アメリカ見てある記(17)」
12月ー日本料理研究会『日本料理』□川島四郎「はき違えの栄養知識 その4」/加藤藤吉「江戸から東京へ(108)大正世相史」/清水桂一「明治の歳末ー明治26年ごろ沖縄那覇の歳暮」/内田春夢「春夢覚え書きー赤い米」/佐藤伍一「アメリカ見てある記(18)」

1969年
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写真左手前が安里幸一郎氏、左奥のほうが新城三郎で手前一人置いて中村喜代治氏
9月15日ー沖縄調理師協会(福永平四郎会長)30人、敬老の日で那覇市首里の沖縄厚生園(渡名喜聡園長)を訪れ、お年寄り180人に昼食の料理を提供。この時の一日園長は平良那覇市長夫人の信子さん、ウエイトレス姿でかいがいしく配膳に立ちまわった。

11月9日ー安里幸一郎「魚安」経営


1970年
10月ー沖縄調理師協会(四元実会長)『あだん』発刊号

1971年4月 新島正子『琉球料理』新島料理学園




『日清食品社史』「めんの系譜図」
台湾出身の安藤百福(あんどう・ももふく、1910-2007)は繊維業に携わり大阪へ進出。第二次大戦後の復興にはまず食事が大事と考え、食品加工・製塩などの事業を経て1948年(昭23)加工食品の輸出入・販売業の中交総社を設立。翌年サンシー殖産に改称、1958年(昭33)瞬間油熱乾燥法の即席袋めん(チキンラーメン)を開発し、「日々清らかに豊かな味をつくる」との願いから日清食品に商号変更する。1971年(昭46)カップめんを発売開始、事業を多角化し海外へも発展する。当該社史は7章の本文と資料からなり、創業前史で安藤の生い立ちと即席めん開発を記述。口絵にめん食の文化史や製品・工場写真を多数掲載。[2008年(平20)持株会社日清食品ホールディングス設立、新たに即席めん事業の日清食品(株)が誕生]

1994年2月22日『琉球新報』「沖縄そば 明治40年ごろ独自の味定着 新城栄徳さん(44)が調査」


沖縄県立博物館・美術館Facebook2013 
明日10月17日は沖縄そばの日!
沖縄そばはいつごろ誕生したのか。この疑問を解明した人物がいる。「琉文21」を主宰する新城栄徳さんである。今から19年前(平成6年)の新聞紙上で沖縄そばのルーツを見事に解き明かしている。新城さんは、明治31年から大正11年までの新聞・雑誌の広告を丹念に調べあげ、明治35年4月9日付けの琉球新報に「支那そばや」の開店広告を発見する。但し、同そば屋は清国より料理人を招いて「支那そば」を売り出しているので、まだ沖縄そばと呼べる代物ではない。
では、支那そばから沖縄そばに進化するのはいつごろか。新城さんは、明治40年に那覇の前之毛で福州の料理人を雇う「観海楼」と地元の「比嘉店」が客の争奪戦をして、比嘉店が勝利をおさめたという記事に着目する。つまり、この頃には沖縄そばとしての味が一般に定着していたのではないかというのである。さらに、「不勉強屋」の広告でも分かるように、和田那覇署長が「琉球そば」と呼ぶように指示。かくて明治末から大正期にかけて、我が愛すべき県民食は誕生したのだ。
同記事は「(沖縄そばの)由緒を正確にする必要がある」という新城さんの言葉で結んでいる。嗚呼、沖縄そばよ! 汝はかくもナゾ多き食い物であったか・・・。まーさいびたん!(M.K:M.K)

5月8日『琉球新報』「戦後50年きょうから明日へ 沖縄そば」


1879年5月4日         『西京新聞』「那覇に料理店、茶店の向は一ヶ所もなし」
1889年              那覇の料理屋ー海月、東家、吉武、小徳、京亀、常盤など。
1890年              料理屋・飲食店ー那覇39軒、首里6軒
1891年              料理屋・飲食店ー那覇63軒、首里9軒、名護2軒、渡久地1軒
1892年              沖縄県の料理屋・飲食店ー開業48軒、廃業15軒
1893年              寺内某が来県、料理屋「東家」の協力をえて琉球芝居の俳優、囃子方らを雇い関西興行をなす。
1894年3月9日         『国民新聞』「沖縄農民は4食にして唐芋と云う甘藷、豆腐、味噌汁および豚肉らはその常食にして魚                     類、米、粟、豚脂に揚げ たる麦粉らこれに次ぐ。そのほか蘇鉄、椰子あり。料理には大概豚脂を用ゆ」
                   料理屋・飲食店ー那覇144軒、首里47軒、宮古10軒、八重山6軒
1895年              料理屋・飲食店ー那覇171軒、首里62軒、宮古14軒、八重山8軒。
1896年              台湾領有で那覇の主な料理屋、台湾に移る(いろは亭、玉川屋などは残る)
1899年              名護に料理屋5軒、仕出屋2軒。那覇南洋堂「食パン」販売。宮里松、大門前通りで蕎麦屋を開業(日本そば)
1900年              那覇「りん寿司」改良すしを始める。楢原鶴吉「東家」を譲り受け、大阪より料理人を雇いいれる。那覇                     「鶴屋」練羊羹・カステラ・メリケン粉販売。
                   那覇「住吉屋」牛すき焼き8銭、鳥すき焼き12銭、すし7銭。那覇「紅屋」茶碗蒸し、すし、かまぼこ、牛肉、鳥肉販売。
1901年12月          高等女学校及師範学校女子講習科が料理科を新設し和洋の料理法を実習、費用は自弁。
1902年4月9日      福永義一が大阪から清国人を雇いれ那覇警察暑下りに「支那そばや」開業。 
1915年6月           「不勉強屋」支那そばを琉球そばと表示(和田那覇暑長が指示)

1920年10月16日-新里有一郎「井筒屋」(琉球そば)開業
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1922年2月11日ー新城三郎、那覇市三重城近くの借家で生まれる。父・蒲は山原船の船頭。従兄弟の安里蒲の商売(薪)も手伝っていた。出生時は奄美近海に流されていた。母カマと姉(ウト)が世話をした。
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1924年3月-伊佐三郎、粟国尋常高等小学校訓導
1927年4月-新城三郎、粟国尋常高等小学校入学/5月ー伊佐三郎、白金小学校(牧口常三郎校長)に新里朝彦の斡旋で同校訓導
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29年4月ー仲里誠順「万人屋」開業