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吉田 初三郎(よしだ はつさぶろう、1884年(明治17年)3月4日 - 1955年(昭和30年)8月16日)は、大正から昭和にかけて活躍した鳥瞰図絵師。元の姓は泉。生涯に約1600点とも3000点以上ともいわれる鳥瞰図を制作し、「大正の広重」と呼ばれた。→ウィキ
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石原 正(いしはら ただし、1937年3月2日 - 2005年3月8日)は、日本の鳥瞰図絵師。北海道函館市出身。北海道函館西高等学校を経て、金沢美術工芸大学を卒業。広告会社に勤務していた時にヘルマン・ボルマンのニューヨーク鳥瞰図に出会い衝撃を受け、1969年に独立。以降、鳥瞰図制作の第一人者として活躍し続けた。→ウィキ

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写真左/1999年5月11日沖縄ハーバービューホテルで神坂次郎氏(作家・熊野の生き字引で司馬遼太郎の文学仲間)、新城栄徳。麦門冬・末吉安恭の取材を終えての祝盃。撮影・末吉安允
写真右/1974年4月、司馬遼太郎が沖縄関係資料室に来室、西平守晴と対談司馬遼太郎『街道をゆく6』朝日新聞社
○大阪の都島本通で、篤志でもって「沖縄関係資料室」をひらいていおられる西平守晴氏にもきいてたしかめることができた。西平氏は、「そうです、そんな話があります」といって、南波照間の「南」を、パイと発音した。ついでながら本土語の南風(はえ)は沖縄でも「南」の意味につかう。本土語の古い発音では、こんにちのH音が古くはF音になり、さらに古くはP音になる。つまり花はパナである。八重山諸島の言葉はP音の古発音を残していて、南(ハエ)が南(パイ)になるらしい。西平氏はこのまぼろしの島を、「パイ・ハテルマ」と、いかにもその島にふさわしい発音で言った。

 1158年 太宰大弐に任ぜられた平清盛は、太宰府に赴任することはなかったが、宋商船が運んでくる唐物に強い興味を抱き、やがて宋人を太宰府から瀬戸内海へと招いた。
☆神戸の灘の薬師さんの傍らで長年「国語」の研究に専念していた奥里将建翁、最後のまとめとして1964年「沖縄に君臨した平家」を沖縄タイムスに連載(10-8~12-11)した。□10月11日ー『沖縄タイムス』奥里将建「沖縄に君臨した平家」(4)怪傑・平清盛をして天寿を全うさせ、彼が抱いていた南宋貿易の夢を実現させ、中世日本の様相はすっかり一変していたかも知れない。(略)戦後のわが歴史学界において、清盛に対する評価が大分改まって来たのも、彼の経綸と人間的魅力を高く買って来たために外ならない」→「琉文21」雑誌『おきなわ』/1926年4月ー奥里将建『琉球人の見た古事記と萬葉』青山書店

1167年 平清盛、太政大臣となる

写真ー重要文化財本堂 昭和大修営落慶記念  昭和四十四年五月十八日 六波羅蜜寺(新城栄徳所蔵)
六波羅蜜寺は、天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所である。当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与している)
 現存する空也上人の祈願文によると、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。寿永2年(1183)平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。
 源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなった当寺はその変遷も甚だしいが、源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領70石を安堵した。徳川代々将軍も朱印を加えられた。現本堂は貞治2年(1363)の修営であり、明治以降荒廃していたが、昭和44年(1969)開創1,000年を記念して解体修理が行われ、丹の色も鮮やかに絢爛と当時の姿をしのばせている。なお、解体修理の際、創建当時のものと思われる梵字、三鈷、独鈷模様の瓦をはじめ、今昔物語、山槐記等に記載されている泥塔8,000基が出土した。重要文化財の質、量において文字どおり藤原、鎌倉期の宝庫と謂われる所以である。

1260年 英祖王、即位☆麦門冬・末吉安恭は、この時代を「仏教の起源と芸術の揺籃」と称した。
      補陀落僧禅鑑、葦軽船で琉球に漂着、英祖王保護のもと極楽寺(のち龍福寺)を創建
1281年 島津長久ら薩摩国の兵を率いて壱岐にて元軍を攻める。
1372年 1月、楊載、来琉
1377年 琉球国王察度、南山王承察度ら明に使者を遣わし馬、方物を貢す。北山王帕尼芝、明に使者、方物を貢す。頼重法印(真言宗)、薩摩坊津から        来琉。
1402年 足利義満、島津伊久に明を侵す鎮西海賊の取締を命ず。
       明使が北山第に足利義満を訪ね国書・大統暦、賜物を伝える。
1404年  時中、来琉し武寧に皮弁冠服が頒賜される。
1406年 武寧、寨官の子石達魯ら6人を明に遣わし国子監に学ばせる。
1410年 琉球国官生模都古ら2人、明の国子監に入り学を受ける。
1413年 中山王思紹、太勃奇を明に遣わし馬を貢し、寨官の子ウ同志久・周魯毎らを送り国子監で学ばせる
1415年 琉球国山南王汪応祖の世子他魯らを明朝に遣わす。足利義持、琉球国思紹に「りうきう国よのぬし」で書簡を送る。
1418年 琉球国中山王思紹、長史の懐機らを明に遣わす
1425年 柴山(中官)来琉、勅を齎らし巴志に中山王を嗣がせる。「中山門」扁額を掲げる。

1427年 安国山樹華木之記碑「壮者時有りて舞ひ、老者時有りて歌ふ」

右ー沖縄県公文書館玄関にある安国山樹華木之記□首里王城の威容を増し、合わせて遊息の地とするため、王城の外の安国山に池(龍潭)を掘り、台を築き、松柏・花木を植え、太平の世のシンボルとして永遠の記念とする。

1429年 巴志、三山統一 
1430年 巴志、明帝から尚姓を授けられる
1443年 朝鮮通信使の書状官として申叔舟が来日
1453年 朝鮮国、琉球国使者道安の齎らした日本琉球地図表装
1456年 尚泰久王、梵鐘を鋳造し大聖寺、天尊殿、相国寺、普門寺、建善寺、長寿寺、天竜寺、広厳寺、報恩寺、大安寺に寄進
1457年 尚泰久王、梵鐘を鋳造し霊応寺、永福寺、大禅寺、上天妃宮、天妃宮、竜翔寺、潮音寺、万寿寺、魏古(越来)に寄進
1458年 尚泰久王、万国津梁の鐘を正殿にかける。
  
  万国津梁の鐘(沖縄県立博物館・美術館)
      尚泰久王、梵鐘を鋳造し永代院に寄進
      尚泰久王、梵鐘を鋳造し一品権現御宝殿、東光寺に寄進
1461年 島津立久、尚徳の国王即位を祝い太平書を賜う
1466年 琉球国王尚徳の使者芥隠承琥、足利義政に拝謁、方物を献ず。
       □7月28日ー琉球の使者一行が将軍・足利義政に謁見、方物も献上する。
        8月1日ー琉球正使・芥隠西堂から蔭涼軒(季瓊)真蘂に大軸(中国から琉球国王に贈られたもの)、南蛮酒を贈る。(義政時代6度目の琉球人        参洛)。
    

雪舟が描いた琉球人

『自治おきなわ』1996年7月号に私(新城栄徳)は「京都の博物館で『国々人物図巻』を見たことがある。明に渡った雪舟が北京の街で見かけた珍しい人びとを写生したものを弟子が模写したもので、その中に世界の海を駆け回ったイメージに重なる琉球人像がある。」と書いた。明代の類書『万金不求人』に和寇図と共に大琉球國人も載っている。長崎県立美術博物館の正保版『万国人物図』にも琉球人が登場している。多くの絵師たちが好んで万国人物図を画題にしていたようだ。私は雪舟の弟子の絵の写真(琉球人)を琉球新報の岡田輝雄記者に提供。これは1991年9月発行の『新琉球史』(古琉球編)に載った。同様に佐久田繁月刊沖縄社長に提供したものは99年9月発行の『琉球王国の歴史』に載った。

1474年 尚円、島津忠昌の家督相続を祝う
1480年 足利幕府、応仁・文明の乱が終わったので琉球に朝貢船を送るよう島津忠昌に催促させる。
1482年 琉球国尚真、奏して陪臣の子蔡賓ら5人を南京国子監において読書させることを乞う。
1492年 ドイツ人地理学者マルティン・ベハイム、地球儀を作成
1492年 尚真王、先王尚円を祀るため円覚寺建設に着手
1497年 万歳嶺記、官松嶺記を建設。円覚寺禅寺記碑
1502年 朝鮮王季揉から贈られた方冊蔵経収集のため円鑑池に小堂を建設(1621年に弁財天像を安置)
1507年 尚真王、書を島津忠昌に送り修好の意志を伝える
1508年 島津忠治、尚真に書を送り、島津氏の印判(琉球渡海朱印状)を持たない商人を点検し船財等を収公を許す
1510年 尚真王、官生蔡進ら5人を南京国子監において読書を乞う。
1527年 尚清王、智仙鶴翁を遣わし明皇帝の日本宛の国書を齎す。足利義晴、書を尚清に送り日明和与の斡旋を謝す。
1530年 月船寿桂、「鶴翁(智仙)字銘并序」で為朝伝、琉球附庸説に言及。
1531年 『おもろさうし』第一巻、成る
1534年 5陳侃(正史)、高澄(副史)那覇着。7尚清冊封の礼。9冊封使、開洋。10陳侃『使琉球録』著わす

1550年 5月4日ー足利義晴、近江穴太(現滋賀県大津市穴太)にて死去。享年40(満39歳没)。

1556年 島津貴久、尚元王が建善寺月泉を遣わしたことに答書し隣交を求める。
1561年 郭汝霖(正史)、李際春(副史)
1568年(永禄11)9月 織田信長、将軍足利義昭を奉じ上洛、当面の仮御所として義昭は本國寺に入り、信長は清水寺を宿所とした。 
1569年(永禄12) 仮幕府のおかれた本國寺が襲撃にあったことから、信長は義昭のために二条城(二条御所)を築く。
1569年(永禄12年)、将軍・足利義昭を擁して台頭していた織田信長と二条城の建築現場で初めて対面。既存の仏教界のあり方に信長が辟易していたこともあり、ルイス・フロイスはその信任を獲得して畿内での布教を許可され、グネッキ・ソルディ・オルガンティノなどと共に布教活動を行い多くの信徒を得た。その著作において信長は異教徒ながら終始好意的に描かれている。フロイスの著作には『信長公記』などからうかがえない記述も多く、戦国期研究における重要な資料の一つになっている。その後は九州において活躍していたが、1580年(天正8年)の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの来日に際しては通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁している。1583年(天正11年)、時の総長の命令で宣教の第一線を離れ、日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念するよう命じられる。以後フロイスはこの事業に精魂を傾け、その傍ら全国をめぐって見聞を広めた。この記録が後に『日本史』とよばれることになる。→ウィキ


松田 毅一(まつだ きいち、1921年5月1日 - 1997年5月18日)は、日本の歴史学者。香川県高松市出身、大阪市育ち。専門は戦国時代から江戸時代初期の日欧交渉史、特にポルトガル・スペインとの関係史。ヨーロッパ各地(ポルトガル・スペイン・バチカン等)やフィリピン、マカオ等の文書館に保存されている日本関係史料の発見・翻訳・紹介に取り組み、また多数の著書・論文を発表して日本における上記分野の研究の進展に貢献する一方、こうした研究成果の一般市民への啓発・普及、関係諸国との学術・文化交流にも尽力した。→ウィキ

1575年 琉球国の紋船(使僧天界寺南叔、使者金武大屋子)、鹿児島に着く。印判を持たない商船に交易を許したこと、島津使僧広済寺雪芩津興を粗略のことに島津氏に弁明。
1579年 簫崇業(正史)、謝杰(副史)来琉。簫崇業「那覇と首里の二ヶ所で、馬市(mashi)が設けられている。物を売るのはおおむね女-」。
1580年 琉球国尚真、島津義久に九州大半の帰伏を祝い隣交を求める。
1586年(天正14)  豊臣秀吉、聚楽第、方広寺大仏殿造営はじまる。
○国立博物館隣にある豊国神社は、豊臣秀吉死去の翌年の1599年、遺体が遺命により方広寺の近くの阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に方広寺の鎮守社として廟所が建立されたのに始まる。後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)の神号が贈られ鎮座祭が盛大に行われた。方広寺にあった大仏は、天保年間に現在の愛知県の有志が、旧大仏を縮小した肩より上のみの木造の大仏像と仮殿を造り、寄進した。この大仏は私もよく見にいったが1973年3月28日深夜の火災によって焼失した。


方広寺の大仏

1587年 島津義久、豊臣秀吉に降伏。
1590年 豊臣秀吉、尚寧王に書を送り、全国統一を強調。政化を異域に弘め四海を一家となす志を述べる。
1594年 尚寧王、島津義久に国家衰微のため唐入りの軍役は調達できない旨答える。


1976年2月 神坂次郎『徳川家康ー物語と史蹟をたずねて』成美堂出版
○二百七十年の徳川王国を築いた鼻祖だけあって、家康の史料は膨大である。明治以降に書かれた伝記でさえ(史料や研究書は別にしても)数えてみれば五十余冊ある。しかし、書くときめた以上、手当たりしだい、目に触れるかぎり読み倒してやろうと勇猛心を奮いたたせたのだが、これは軽率であった。なにしろ生身の家康というのは、幕府が神格化し御用学者たちが三世紀にわたって阿諛(おもねりへつらう意)をきそい、目も鼻も弁じぬまでに”神君〟の厚化粧をほどこしてしまったような扁平な人間ではない。その心意は複雑で矛盾にみち、屈折している。・・・

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尚寧王
1602年 徳川家康、陸奥国伊達氏領に船で漂着した琉球人を島津忠恒に送還させる。
1604年 野国総官、渡唐、帰国(05年)のとき蕃薯を持ち帰る。
1605年 本多上野介正純、長崎奉行小笠原一庵に平戸漂着の琉球船の荷物没収を命ず。
1606年 山口駿河守直友、薩摩商人の渡海が琉球出兵の妨げにならないよう分別を促す。
1608年 山口駿河守直友、島津家久に、琉球出兵の準備と、再度琉球国王に家康への来聘を促す交渉を命ず。
1609年 3-4島津軍、琉球出兵で山川湊を出帆。
1609年(慶長14)4月 薩摩軍、琉球侵攻/5月 鹿児島に中山王・尚寧を連れ帰る 
1610年(慶長15)8月2日 島津家久、中山王・尚寧を連れて駿府に参る/8日 島津家久、中山王・尚寧を連れて登城し徳川家康に拝謁/王弟、具志頭王子尚宏、家康に対面後に病死し興津の清見寺に葬られた。/18日 家久と中山王・尚寧に饗応で猿楽、頼宣、頼房が舞う。その間酒宴  
1610年(慶長15)8月25日 島津家久、中山王・尚寧を連れて江戸に参着/28日 尚寧、登城し台徳院(秀忠)に拝謁/9月20日 島津家久、中山王・尚寧を連れて木曽路より帰国
〇大正13年12月 藤田親義『琉球と鹿児島』末吉莫夢「薩摩関係の琉球五異人ー鄭迵謝那利山/薩摩関係の異人として、私は先ず第一に鄭迵謝那親方利山を挙げる。彼は慶長役の時の三司官の一人で、琉球に於いて最も勢力を振い、遂に対薩摩外交を誤り、其身も薩摩に於いて戮された人であるが、琉球の歴史に於いては出色の人物である。」
1611年9月19日 鄭迵・謝名親方利山、斬首

○1983年12月 新里堅進作画(川平朝申解説)『史劇 謝名親方』全教出版
謝名 利山(じゃな りざん、嘉靖28年(1549年/天文18年) - 万暦39年9月19日(1611年10月24日/慶長15年))は、琉球王国の政治家。謝名親方(ウェーカタ)の呼び方で一般に知られる。
 唐名は鄭迵(ていどう)。称号は親方。鄭氏湖城家九世。久米村(現・那覇市久米)出身で久米三十六姓の末裔の一人。父・鄭禄の次男として生まれる。1565年、16歳のとき官生に選ばれて明に留学し、翌年、南京の国子監へ入学する。1572年、帰琉。その後は都通事をへて長史となり、進貢使者として数度渡唐する。1580年、総理唐栄司(久米村総役)となる。 1605年、城間親方盛久を讒言して百姓の身分に貶め、自らは三司官となった。薩摩侵略の際には三重城に陣取り那覇港の防衛を行うも尚寧王の降伏によりともに連行される。その後、薩摩藩から起請文に署名するよう求められるが、ただ一人これを拒否し処刑された。(→ウィキペディア)



○琉球国中山王尚寧起請文(部分・島津家文書)。起請文は戦国時代、忠誠を誓うもの。豊臣秀吉の拾丸(秀頼)への忠節を尽くさせる血判誓紙も烏点の牛王(うてんのごおう)宝印があるので熊野信仰の流れのひとつであろう。
〇熊野那智大社は、那智山青岸渡寺とともに熊野信仰の中心地として栄華を極め、古来より多くの人々の信仰を集めました。今なお多くの参詣者が訪れ、熊野速玉大社・熊野本宮大社とともに熊野三山の一つ。夫須美神(ふすみのかみ)を御主神としてそれぞれに神様をお祀りしている。伊弉冉尊(いざなみのみこと)とも言われる夫須美神は、万物の生成・育成を司るとされ、農林・水産・漁業の守護神、縁結びの神様また、諸願成就の神としても崇められている。社殿は、仁徳天皇の御世(317年)に現在の位置に創建され、平重盛が造営奉行となってから装いを改め、やがて、織田信長の焼討に遭ったのを豊臣秀吉が再興した。徳川時代に入ってからは、将軍吉宗の尽力で享保の大改修が行われている。→「那智勝浦観光ガイド」参照





 2008年10月15日~12月21日まで 大阪人権博物館で「アジア・大阪交流史ー人とモノがつながる街」(10月15日~12月21日)と題し展示会があった。見に行って学芸員の仲間恵子さんから『図録』を入手した。中に上田正昭氏が「アジアのなかの大阪ー東アジアと難波津」を執筆されて、完全な「鎖国」の時代はなかった、と説く。仲間さんはアジア・大阪交流史ー人とモノがつながる街と題して「近現代の大阪についても、生野区のコリアタウンや『リトル沖縄』と称される大正区を訪れることで、人と人との交流が生みだす文化に触れることができる。」と強調している。

○アジア・大阪交流史ー人とモノがつながる街・・・・・仲間恵子
○アジアのなかの大阪ー東アジアと難波津・・・・・・・上田正昭
1 大阪の渡来文化

伝王仁墓 - 大阪府枚方市藤阪東町二丁目に王仁の墓が伝えられている。/王仁大明神 - 大阪府大阪市北区大淀中3丁目(旧大淀区大仁町)にある一本松稲荷大明神(八坂神社)は王仁大明神とも呼ばれ、王仁の墓と伝えられていた。また近辺に1960年代まであった旧地名「大仁(だいに)」は、王仁に由来していると伝えられている。→ウィキ
2 朝鮮、琉球からの使節


3 「東洋のマンチェスター」と海を越えた人びと
4 大阪のなかの多文化

2017年4月3日~7月17日 高麗美術館「上田正昭と高麗美術館」 

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萬野美術館/『2011年度 首里城公園管理センター 萬野裕昭コレクション調査報告書』

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浦添市美術館で/左、新城栄徳、徳川義宣氏(徳川美術館館長)( 徳川美術館 hp)□徳川 義宣(とくがわ よしのぶ、1933年12月24日 - 2005年11月23日)は、尾張徳川家第21代当主。美術史家、財団法人徳川黎明会会長、徳川美術館長。養子のため徳川家の血筋はついでいないが、多数の著作や講演でのアピールで、他の御三家以上に露出度を高めた。徳川家康の遺訓だとされていた「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし」は、家康のものではなく、徳川光圀のものであると確認した。(ウィキペディア)

1607年(慶長12年・宣祖40年)には、江戸時代はじめての朝鮮通信使が幕府に派遣され、6月29日(旧暦5月6日)に江戸で将軍職を継いでいた秀忠に国書を奉呈し、帰路に駿府で家康に謁見した。ただし、このときから3回目までの名称は、回答兼刷還使とされている。→ウィキ
1610年(慶長15)8月2日 島津家久、中山王・尚寧を連れて駿府に参る/8日 島津家久、中山王・尚寧を連れて登城し徳川家康に拝謁/王弟、具志頭王子尚宏、家康に対面後に病死し興津の清見寺に葬られた。/18日 家久と中山王・尚寧に饗応で猿楽、頼宣、頼房が舞う。その間酒宴

1610年(慶長15)8月25日 島津家久、中山王・尚寧を連れて江戸に参着/28日 尚寧、登城し台徳院(秀忠)に拝謁/9月20日 島津家久、中山王・尚寧を連れて木曽路より帰国

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清見寺の裏には徳川家康来遊の際の指図による名園。蘇鉄が密集。清見寺は、『臨済宗妙心寺派』に属し、本尊は『釋迦如来』、開山は『関聖上人』であります。寺名は詳しくは、『 巨鼇山清見興国禅寺』と称し、境内の面積は、六千余坪、建物の坪数は、五百五十余坪あります。寺の位置は静岡市清水区興津地区にあります。

静岡県静岡県榛原郡相良町 大興寺

1611年8月19日 山口直友、島津家久に、琉球国の珍しい草花を献上するよう命ず/10月20日、尚寧帰国

1614年12月7日、三浦安針指揮のジャンク船、悪天候と漏水のため那覇に寄港
1615年5月5日、国質として鹿児島にいた国頭按司正弥、国頭佐馬頭と称し島津家久の大坂夏の陣に従軍、鹿児島を発す

 1616年(元和2)4月17日、徳川家康は駿府城で死亡し、柩は久能山に運ばれ、19日に吉田神道の流儀で埋葬されたが、元和3年(1617年)に日光へ柩が移され、天海により山王一実神道の流儀で祀られることとなった。同年4月4日、柩は、日光の座禅院に、次いで8日には奥院へと移され、天海により五眼具足の印と真言が伝授され、11日後には塔柱灌頂鎮座深秘式、三種神器秘印明が修された。こうした儀式は、天皇の即位灌頂の際の秘儀と同一とされ、家康が日光で天皇と同等かそれ以上の神霊として祀られたことを意味するとされる。家康の墓所には東照宮が建立され、天海は薬師如来の垂迹である、東照大権現の由来を記した『東照大権現縁起』を編纂した。→ウィキ
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日光東照宮→裏辺研究所(日本の旅・鉄道見聞録)

1620年3月10日、琉球三司官、島津氏に対し、尚寧が慶長15年(1610)8月8日駿府城で徳川家康に謁見した時の進上物代銀、8月28日江戸城で徳川秀忠に謁見した時の進上物代銀、合計銀121貫目の未済分返済の延期を求める。/尚寧、没(57歳)

1634年(寛永11)閏7月9日、琉球国使節佐敷王子朝益・尚文(慶賀使)・金武王子朝貞・尚盛(謝恩使)と玉城按司(従者)、京都二条城で、将軍家光に謁見/津波古親雲上(蒋世徳・元重)、野國親雲上(武魁春・宗保)、越来思加那(向美材・朝誠)、屋宜筑登之(東表藩・政周)

1644年4月18日、島津光久、琉球国の慶賀使(正使金武按司朝貞)・謝恩使(正使国頭按司正則)を伴って鹿児島を出発、江戸に赴く/5月19日、大坂到着/6月12日、江戸到着/6月25日、島津光久、琉球使節を伴い江戸城に登城。金武按司朝貞・国頭按司正則、家光・家綱に謁見し家綱の誕生を祝い、尚賢の襲封を謝す/7月3日、島津光久、琉球使節を率いて江戸を発し日光に赴く/7日、東照宮に参詣し、11日、江戸に帰着。/7月12日、琉球使節、帰国の暇を賜る。東海道を経て大坂より乗船、8月、鹿児島着。

1649年5月、琉球国の謝恩使具志川王子朝盈、鹿児島に到着/9月1日、琉球国の謝恩使具志川王子朝盈、江戸城で家光に拝謁/9月15日、琉球使節、日光東照宮に参詣/家光、尚質に白銀5000両・屏風5双を賜う。家綱から、白銀3000両・綿衣20領を賜う/10月3日、琉球国の謝恩使具志川王子朝盈、江戸を発つ

1650年12月、羽地朝秀(向象賢)、『中山世鑑』を編纂

1653年9月20日、琉球国の慶賀使国頭王子正則、北谷按司朝暢の代わりに江戸到着。/28日、家綱に拝謁/10月4日、島津光久、国頭王子正則に漢詩を贈る/12日、島津光久、国頭王子正則を召し連れて江戸邸を出発/16日、日光東照宮に参詣/20日、江戸に帰る

1666年11月、羽地朝秀(向象賢)、摂政に就任、1673年まで国政を担当(その施政を羽地仕置と称す)

日光東照宮 - 総本宮 栃木県日光市。徳川家康霊廟

日光鳥瞰図

薬師堂天井に描かれた巨龍の墨絵で狩野安信の筆


毛延章(登川里之子安泰 1817~1838)は、首里の毛氏九世文魁(大工廻親雲上安祥)の長男。道光8年(1828)に謝恩使の楽童子として江戸に上った人物。「瑞雲」はめでたい雲の意。本紙には、銀泥や金泥で瑞雲、花、吉祥文が描かれており、書の内容に合わせて用いられたものであろう。

ここまで書くと数字の9が気になる。4月25日、関西沖縄文庫で金城馨氏から『民博通信』(2008年3月発行)「大阪のエイサーの制作をめぐって」と、「沖縄に基地を押しつけない市民の会」のチラシ「沖縄9条物語」をもらった。後のチラシには、沖縄戦後63年、これは6+3で9。本土復帰36年、これも3+6で9である。さらに島津氏の琉球国侵略から399年。琉球処分から129年を経てきたことを表し真ん中に9の字をすえて十字に先の数字を配している。面白い表現である。        

〇江戸上りは、琉球国王即位の際に派遣される謝恩使と、幕府将軍襲職の際に派遣される慶賀使とがあった。薩摩侵攻後の1634年から最後の1850年まで、200年あまりの間に18回実施されている。琉球と江戸の往復には、およそ1年前後を要した。一行は琉球から薩摩を経て伏見までを船で、伏見からは美濃路(第7回までは鈴鹿路)・東海道を経由して江戸までを徒歩で移動した。季節風を考慮して初夏に琉球を出発、準備を整えて秋に薩摩を出て、江戸で冬を過ごしたのち、翌春にようやく琉球へ戻るという旅程であった。(琉大図書館)

1832年(天保3)6月8日、那覇港を立ち江戸に赴く。7月21日、琉球国尚育王即位の謝恩のための使節(正使尚氏豊見城王子朝春副使毛氏澤岻親方安度)らの一行、鹿児島着。8月27日、正使豊見城王子死去。讃議官の向氏普天間親雲上朝朝典を正使として9月1日鹿児島を立つ。11月16日、江戸着、江戸城に登城し朝覲の礼を行う。12月13日、江戸を立ち帰路に就く。1833年(天保4)4月8日、江戸上り使節一行那覇に帰還。
 豊見城王子(普天間親雲上朝朝典)の歌→『通航一覧続輯』※わた津海の底より出て日のもとのひかりにあたる龍の宮人
 眞境名安興「酒前茶後」燕居雑話(巻3)※わたつみの底より出でて日の本の光を仰ぐたつのみやひと

〇文久二(1862)年に、寺田屋(伏見にある船宿)に集まった薩摩藩の急進派の有馬新七ら九名が、温和派の島津久光の命によって派遣された奈良原喜八郎(幼名は三次。通称喜八郎。名乗りは幸五郎、明治7年(1874年)の島津家家令から繫。後の沖縄県知事)ら八名の手によって殺傷された寺田屋騒動は有名である。その年の生麦事件では、リチャードソンに斬りつけたのは、兄の喜左衛門ではなく、弟の喜八郎であるという証言がある。寺田屋事件で犠牲となった薩摩藩勤王党有馬新七等九士の墓は伏見大黒寺にある。墓石の横にある碑文は、西郷隆盛筆。また同寺には墓は見当たらないが、琉球使節の儀間親雲上や嵩原親雲上が病死で埋葬されたという記録がある。
 
 2011年9月25日13時00分の京都教育文化センターで「琉球民謡伝統協会京都支部三周年芸能発表会」に新城あけみが舞踊で参加するというので、お供で同行する。7時前に自宅を出る。JR河内永和駅から京橋。京阪で三条駅に8時15分着。駅を出て直ぐの檀王法林寺の前で新城あけみを立たせて写真を撮る。この寺はエイサーの元祖といわれる袋中上人によって開かれた400年の歴史を誇る浄土宗の寺。
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会場に9時着。新城あけみは準備のため会場に残る。私は午後1時まで会場周辺を散策。大文字山を眺めながら歩くと山伏の総本山、聖護院門跡がある。交通神社、泉徳寺、錦林小学校の塀にゴーヤーがあったが実は破裂し赤くなっていた。平安神宮の前を通って京都府立図書館に寄る。入口に二宮金次郎胸像がある。図書館ではチラシの「府立図書館『岡崎』百年の歩みー湯浅館長編」「府立図書館が所蔵している まるごと一冊、竹久夢二の本」「府立図書館『岡崎』百年の歩みからー岡崎公園編」「当館の所蔵資料から 京都に関する本~通史編」「当館の所蔵資料から 京都に関する本~入門編」「当館の所蔵資料から 京都に関する本~年表・史資料編」などを入手する。  
知恩院の国宝の山門(高さ24メートル、幅50メートル、木造の門としては日本最大)が見えるので立ち寄る。知恩院は、全国に7000余の寺院を擁する浄土宗の総本山。法然上人が晩年住まわれ、念仏の教えを説かれた寺という。江戸時代、元和7年(1621)、二代将軍徳川家忠が三門を建立、また寛永16年(1639)に徳川家光公が御影堂を建立するなどし、現在の寺が形づくられている。
午後1時開演。1番目に琉球民謡伝統協会参加者全員の「いちんかりゆし」「鷲ぬ鳥」合奏、2番が京都支部メンバーが「安里屋ユンタ」「安波節」、3番が新城あけみなどの柳豊会・大城奈津子琉舞太鼓研究所の舞踊「いちんかりゆし」。4番が大阪支部による「流れ雲」「ハワイ節」合奏。6番が上間順子琉舞研究所の琉舞「上り口説」などが第一部であった。第二部は大城奈津子琉舞太鼓研究所の舞踊「安里屋ユンタ」「繁盛節」で新城あけみの出番が終わったので4時まで二条通りの古本屋に行き『聖徳太子と四天王寺』(1971年)、1961年の『昴宿』俳句会記録を購入。会場に新城あけみを迎える途中、天理教川原町大教会の大ソテツを撮る。
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右ー新城あけみ
  2012年、本日は「さんしんの日」 去年の年9月25日、京都教育文化センターで「琉球民謡伝統協会京都支部三周年芸能発表会」があった。その舞台で見たかんじの会長さんが、本日のパレットくもじ前で「第16回 大民謡祭」での舞台に登場していた。あとで名刺を頂くと新崎松秀氏とあり「ジャンボ三線」ともあった。

写真ー1933年12月に東恩納寛惇が安南および福建より持ち帰った三味線、昭和会館に寄贈した。(1)ヤマト、(2)琉球、(3)安南、(4)安南