屋良朝信 2019-6-8、ようやく「関西沖縄文庫」を訪ねる機会に恵まれました。新大阪駅近くの宿泊先を少し早めに出て大正駅周辺を歩きました.。金城馨さん、諸見里さんにも会うことができました。蔵書の数量にも圧倒されましたが分野別に整理/分類されているのがすばらしいです。関西沖縄文庫は私設で、すべてスタッフメンバーの私費で運営されているとのこと、ありきたりの芸能の場や会員間の交流にとどまらず自由な視点で情報発信しているのが印象的でした。金城さんもその日の午後は沖縄に行かれるとのことでした。精力的ですね。小一時間ほどしか滞在できませんでしたが、皆さまの意気盛んなスピリッツに触れて勇気をもらいました。


左が屋良朝信、諸見里宗博さん

 1971年5月、沖縄の雑誌『青い海』2号に「あるグループ 沖青友の会(写真中央ー諸見里宗博)」が紹介されている。末尾に、大阪には沖青友の会のようなグループが四つある。おそらく10余のグループがあるのではないか、という。諸見里君らは、思想、信条の違いはあってもいいから、それらのグループとヨコのつながりだけでも持って、共通の悩みを解決し合いたいと思っている。と結んでいる。当時、関西には、京都の都沖青、港区の沖青友の会、大正区のサークル南風、枚方市の守礼の会、尼埼の三和同郷青友会があった。それらと連絡雑誌を作ろうと沖青友の会が動きはじめた最中であったから、『青い海』創刊は渡りに船であった。


左が金城馨さん


1972年4月 雑誌『青い海』12号 「屋良朝信くん・ギター一丁かかえ世界一周旅行〝貧乏旅行″」/『青い海』13号①~22号⑧ 屋良朝信「旅行記でない旅行記」
屋良朝信 やら・とものぶ 川崎沖縄県人会会員。1949年川崎市川崎区生まれ。両親に連れられ幼い頃から沖縄を訪れる。学生運動が盛んだった10代の終わり頃、在籍した都内の明治大では休講が続いた。作家・小田実さんの著書の影響を受けて休学、「何でも見てやろう」とバックパッカーの旅に出た。北欧や英国の街角で、ギターを抱えて日本の歌を歌った。1年間で復学。卒業後、沖縄や欧州、アジアの安宿を泊まり歩く旅を30歳近くまで続けた。旅の途中、親交を深めた日本人の尺八奏者とも楽曲を制作した。その後、出版社や電子部品メーカー勤務などを経験。退職後は沖縄出身者やその子孫を応援する。→旅の記憶 〜遊民雑記〜 tomoyaraのblog


2018-10 屋良朝信◇津野創一さんの愛娘・愛さんとお目にかかれて感無量です。半世紀近くも前に小田急線/南武線-登戸駅前で津野さんにお会いした日のことを鮮明に覚えています。 “青い海”との付き合いを通して”書く“喜びや大切さを学びました。今現在、私がささやかながら物書きの仕事に関わっている原点でもあり感謝の気持ちでいっぱいです。

2018年2月4日 ジュンク堂書店那覇店「屋良朝信『沖縄・思い遥か』発売記念トークイベント」

『沖縄・思い遥か』を手に著者・屋良朝信さん

2017年11月 屋良朝信×新井克英『沖縄・思い遥か』AWAWA

2017年11月 屋良朝信×新井克英『[川崎・鶴見・東京]ウチナーンチュ100年 沖縄・思い遥か』AWAWA
12月11日、那覇市役所で早く用事が済んだので、ジュンク堂那覇店に寄って上記の本を入手。

『神奈川新聞』2018/03/13 本格移住100年 沖縄出身者に勇気を- 沖縄出身で川崎、横浜、東京に移り住んだ人々やその子孫らの素顔を紹介する本「沖縄・思い遥(はる)か」が自費出版された。本格的な移住から約100年の節目を機に、一般財団法人川崎沖縄県人会会員の屋良朝信さん(68)=川崎市川崎区=らが約2年がかりで取材し作成。ミュージシャン、沖縄料理店主をはじめ市井の21人にインタビューし、その思いを伝えた。 沖縄からの移住が本格化したのは1915(大正4)年、現在の川崎区に富士瓦斯紡績(当時)の工場が操業開始したのがきっかけ。

2018年4月2日~8日 川崎競馬場2号スタンド2F「川崎競馬場・沖縄100年の歩み展」(監修:屋良朝信)