2018年5月5日『沖縄の軌跡』第188号《静子さん・志多伯克進を語る》 編集発行人・島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)

志多伯克進「酒禮門」新宿・歌舞伎町
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上ー志多伯克進(1908年2月~1979年3月14日)写真ウラに「1936年6月、ある同志のカメラに向いてー志賀進」と記されている。


1956年 四原則貫徹・県民代表として本土渡航の瀬長亀次郎沖縄人民党書記長を羽田空港で出迎える松本三益(瀬長の右)、志多伯克進(瀬長の左)/1967年11月 新宿・酒礼門で「瀬長亀次郎歓迎会」中央に瀬長亀次郎、その左が松本三益、右隣りに比嘉春潮

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1959年10月ー東京沖縄県人会会場の廊下で、貘、伊波南哲、霜多正次、当間嗣光、平良真英、新崎盛敏(東京沖縄県人会3代会長)、金城唯温、「志多伯」「おもろ」「紅型」など泡盛屋のオヤジ、紅一点の山口一子


□1960年10月『オキナワグラフ』ー新宿の人気男「志多伯のおやじ」新宿コマ劇場の横丁にある”コマ小路”というバー街に、この春から異様な門構えのアワモリ酒亭ができてなかなか繁昌している。
屋号は「酒礼門」。勿論”守礼之門”をモジッてつけたもので、故伊江朝助男爵が名付の親だということだが、ゲン語学者の石川正通先生にいわすと、その語イはー酒の友こそ真の友 礼を守りて盃酌めば 門は大道無門にてーだそうだ。
 店構えが異様なら、ここの主人もまた変わり種。志多伯克進という名前からしてコクのよい銘酒を思わせるが、無類の好々爺で、ジュクの酒徒からは”シタハクのオヤジ”と愛称されている。
目マユがこく長く、デップリ太って、みるからにアワモリ天国のエビス様とう感じ、いつあっても、赤ら顔に満面笑みをたたえてさも愉快そうに話し出す。どんな酒癖の悪いインマヤーでもすぐなついてくる。
しかし、このオヤジが庶民の街で名物オヤジとしたわれているのは、ただこの人がお人好しだということばかりではなさそうだ。この人には往年の社会運動の体験から得た”庶民哲学”とジュクのヨタ公共をまかす位の”度胸”が備わっている。愛すべき志士だ。このスジ金の入ったところがまた魅力となって学生や労働者たちに好かれるのだろう。
 この人の哲学というのは、先ず人間は平等だということ、第2に貧乏人を蔑まず金持を恐れないこと、第3に真心を以って事に当たること、だそうだが、これはやはり戦前の社会運動時代に豚バコにブチ込まれたり、法廷に立たされた苦闘の中から生まれたものに違いない。非常に正義感が強い人で、終戦直後、新宿のテキヤ安田組を向こうに廻して空手で打ち負かしたという武勇伝は有名だが、いまでもヨタ公同志の決闘に”流血を避けるため”顔をかすこともあるという。
 都内の泡盛屋は大小入れて40軒を数えるといわれるが、この総元締格が志多伯のオヤジさんである。泡盛屋の歴史は古く、昭和12年に若い奥さんと大塚駅前で「デーゴ」を開いたのが始り、それからまもなく本所深川の「泡泉」に移った。新宿駅西口に乗り込んだのは終戦直後。ヤミ屋の横行する焼跡で「志多伯」の赤チョウチンを下げ、カッポウ衣に前カケをしめてジュウジュウ鳥焼きとアワモリのサービスに励むかたわら、西口の開拓にも力を注いで今日の繁華街を築きあげた。独得な風貌と誰にも好かれる人柄と親身の世話焼きで忽ち西口の人気オヤジとなり、つい最近まで飲食組合の会長にまつりあげられていた。
 『オヤジもトウトウ成り上がったかー』東口に酒礼門を開いたとき西口店のナジミがこう歎いた。お座敷酒亭より西口の番台でバタバタニコニコしていた方がオヤジらしい、ということだろうが、しかしオヤジの庶民性はどこへ行っても消えうせない。むしろ新しい酒礼門こそ庶民の酒亭だ。そこには南の芸術がある。文化がある、ラフティを食べ、アワモリを酌みながら踊りをみる。<しかもフトコロの心配もない、なければオヤジに話せばわかるのだー。あなたふと讃酒之仁義ありという 酒礼門にて酔い泣かんかも(石川正通)






戦前の志多伯克進(志賀進)
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私の手元には志多伯克進、静子が國吉眞哲、まり子に宛てた手紙などが6通ある。また静子が岡村吉右衛門から貰った『沖縄之民謡』、克進が刑務所時代に作った漆器もある。前に、戦後の新宿・酒禮門時代のことを記したので今回は戦前のことを記す。眞栄田三益の協力で親族の眞栄田勝朗が『大阪球陽新報』を創刊したのは前に記した。その新報の1939年1月15日付けに「オイル事件の志賀君/泡盛屋開業ー沖縄オイル事件で有名な志賀進君はその後、東京市政人社に勤務していたが同社を辞し小石川区坂下町154番地にモダン泡盛スタンドを開業しているが愛嬌者の君のサービス振りが評判になり大繁盛を極めている由である」と親しく報道している。ちなみに側の記事は南風原朝保(台北市)「郷土趣味講座は非常に有益」がある。

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國吉眞哲翁は眞栄田三益、志多伯克進とも親しかった。で、琉球新報記者時代はよく検挙されブタ箱に入れられた。社に帰ってくると太田朝敷社長からは「行ってきたか」と首里言葉の一言だけで別に咎めなかったという。眞哲翁は1932年2月の『琉球新報』にオイル事件で刑務所に収監されている志多伯克進、前田一郎、大城永繁、安里成忠、徳田球一らの「獄中通信ー沖縄共産党諸君の事件より」を掲載した。

□志多伯克進「世間では俺が弱っているとの風聞らしいが、それは自分が娑婆に居た当時弱っていたのから推してあんな所へ行くと猶更とへるもんだと想像したに違いない。しかしそれは間違いだ。当人の俺は娑婆とお別れの際に病という厄介千万な奴とも御サラバしてきたのでここへ来て以来大変健康だ」

弁護士・布施辰治(1880年11月13日~1953年9月13日)
1954年9月24日ー沖縄人有志(比嘉春潮、宮良寛雄、志多伯克進)「布施先生の国民葬にあたり沖縄人として吊詞を述べさせていただきます。今から20余年前の昭和6年沖縄共産党事件が起こり、投獄された解放戦士の中二人が狂死したほど残虐な圧迫が加えられました。先生は当時幾多の事件を管掌され非常に御多忙の身であったにかかわらず往復10数日を要する沖縄に遥々とお出かけになってこの虐げられた人々のために弁護に立って下さいました。(略)実に先生は沖縄解放運動の大恩人であります。」

1954年2月ー小生夢坊・本多定喜『涙を憤りと共にー布施辰治の生涯』学風書院

詩人あしみね・えいいち
2005年10月5日 『琉球新報』 「あしみね・えいいち氏死去 山之口貘賞選考委員を23年」
 山之口貘賞の選考委員を務めた詩人のあしみね・えいいち(本名・安次嶺栄一)氏が4日午後10時37分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。81歳。那覇市出身。自宅は東京都練馬区大泉学園町4-30-5。告別式は6日午前11時半から練馬区大泉学園町4-9-38の長女田中洋子さん宅で。喪主は妻秀子(ひでこ)さん。安次嶺さんは県立二中を卒業し、東京外語学校を中退。米国ニューメキシコ大学を修了。琉球政府行政主席専属秘書などをへて、南洋相互銀行に入行。その後、沖縄銀行や沖縄証券の監査役を務めた。安次嶺さんは、52年に発足した詩同人「珊瑚礁」に参加。「峰一華」の名で俳人としても活躍した。78年の山之口貘賞創設時から23回(2000年)まで選考委員を務めた。著書に詩集「光の筏」などがある。「珊瑚礁」の同人だった詩人で作家の船越義彰氏は「ひょうひょうとしていて人生を楽しんでいる方だった」と語った。あしみねさんの後を継いで貘賞選考委員になった詩人の花田英三さんは「ゆったりした感じのする人で、とても親しくしていただいた」と話した。


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右から新城栄徳、あしみね・えいいち氏(山之口貘記念会三代目会長)、真喜志康忠氏、名護宏英氏(劇作家)