今年3月15日にJR西日本「おおさか東線」が開業した。5月26日、息子の家(布施)から近い真新しい長瀬駅から乗る。久宝寺駅で乗り換え王子経由で9時前に法隆寺に着く。法隆寺は日本仏教の始祖といわれている聖徳太子を祀っている。日本最初の世界文化遺産でもある。法隆寺には和歌山有田の修学旅行生がバス3台で見学に来ていた。このときは夢殿とその周辺を見て帰った。那覇に帰る前日の6月6日、新城あけみと一緒に改めて法隆寺見学、金堂は改修工事中で上御堂で御本尊の金銅釈迦三尊像を拝観。1998年に完成した大宝蔵院には百済観音像玉虫厨子などが安置されている。出てすぐの所の大きな蘇鉄の前で新城あけみを立たせて記念写真。法輪寺、法起寺の三重塔も見学した。

辛口批評家の谷沢永一氏著『聖徳太子はいなかった』新潮新書によると、柳田国男は聖徳太子が虚構であることを知っていた。古事記や日本書紀について書くのは柳田は慎重であったという。柳田が自分の見るところ信じられるところにしたがって記紀をいじれば、なにしろあの時代においてのことであるから、かならずヤケドするとわかっていた。とくに民俗学は理論をおしすすめてゆくと、当時やかましかった国体の問題につきあたる。折口信夫」も微妙に避けた。現代の学者がおのれの創見であるといなないているテーマのいくつかは、知られていたけど書けなかった、という。俳人・末吉麦門冬も南方熊楠宛の書簡で「小生も嘗て『古事記を読む』の題にて古代人の恋愛問題を論じヨタを飛ばし過ぎた為か、これを載せた新聞の編集人が、検事局に呼出されて叱られた」と書いている。


契沖の出家した妙法寺(今里)

息子の家からほど近いところに司馬遼太郎記念館と、契沖の出家した妙法寺(今里)がある。契中は水戸光圀と出会い『万葉代匠記』をまとめた。本居宣長は契中を「古學の祖」と位置付けた。今里駅から大阪市内に入ると天王寺公園がある。琉球処分のとき警官で来琉したのが池上四郎、大阪の礎を築いた関一市長は著名だが、その関を呼び寄せたのが池上6代目大阪市長である。池上の銅像が天王寺公園にあるが池上の曾孫が沖縄に何かと縁がある秋篠宮紀子さん。北上し中之島に出る。その昔、豊臣秀吉が大阪城築城のときに全国から巨石が集められた。川に落ちたのも多数にのぼる。中之島公会堂近くに豊国神社があった。神社は大阪城内に移された。その跡に木村長門守重成表忠碑がある。碑は元沖縄県令で大阪府知事を退いていた西村捨三と、大阪北の侠客小林佐兵衛が発起し安治川口に沈んでいた築城用の巨石を引きあげ建立したもの。毛馬公園には那覇港築港にも関わった工学士・沖野忠雄の胸像がある。

木邨長門守重成表忠碑(彦根西邨捨三譔 日下部東作書)
【日下部鳴鶴】書家。近江彦根の人。名は東作,字は子暘。彦根藩士日下部三郎右衛門の養子となったが,桜田門の変で父は殉死した。1869年(明治2)東京に出て太政官大書記となったが,後年は書をもって身をたてた。はじめ巻菱湖(まきりようこ)の書風を学ぶが,80年に来朝した楊守敬の影響を受けて六朝書道を研究,のち清国にも遊学して見聞を広め,深い学識と高古な人柄とによって彼の書名は一世を風靡した。現代書道発展の先駆者として,その功績は高く評価されている。→コトバンク

池上四郎

池上四郎ー1877年、池上は警視局一等巡査として採用され、間もなく警部として石川県に赴任した。その後、富山県などの警察署長、京都府警部などを歴任し、1898年からは千葉県警察部長、兵庫県警察部長を務めた。1900年には大阪府警察部長となり、その後13年間に渡って大阪治安の元締めとして活躍した。その清廉で、自ら現場に立ち責任を果たす働きぶりと冷静な判断力は、多くの市民からの信頼を集めた。1913年、市政浄化のため、池上は嘱望されて大阪市長に就任した。財政再建を進める一方、都市計画事業や電気・水道事業、さらには大阪港の建設などの都市基盤を整備し、近代都市への脱皮を図った。御堂筋を拡張し大阪のメインストリートとする計画は池上の市長時代に立案され、続く関一市長時代に実現を見た。また、市庁舎の新築、博物館や図書館などの教育施設や病院の整備など、社会福祉の充実にも注力した。池上は1915年に天王寺動物園を開園させ、1919年に全国初の児童相談所・公共託児所を開設した。1923年には大阪電燈株式会社を買収し、電力事業を市営化した。また1923年9月に発生した関東大震災では、いち早く大阪港から支援物資を東京に送り、被災者の救済を行った。(ウィキメディア) 

1879年3月、松田道之琉球処分官が、後藤敬臣ら内務官僚42人、警部巡査160人余(中に天王寺公園に銅像がある後の大阪市長・池上四郎も居た)、熊本鎮台分遣隊400人をともない来琉し琉球藩を解体、沖縄県を設置した。この時、内務省で琉球処分事務を担当したのが西村捨三であった

1918年、富山県魚津で火蓋を切った米騒動は、瞬く間に全国を席巻し、軍隊の動員を待たねば沈静化せず、ために時の寺内内閣は総辞職した。大阪では、その米騒動の収拾のために米廉売資金が集められていた。その残金を府・市で折半したのであるが、府(林市蔵知事)では発足したばかりの方面委員制度のために利用した。市(池上四郎市長ー秋篠宮妃紀子曽祖父)では「中産階級以下の娯楽機関として市民館創設資金」27万7千円弱が市に指定寄附されたのを受けて、1921年6月20日、天神橋筋六丁目(天六)に日本初の公立セツルメント「市立市民館」を開設したのである。これが、1982年12月に閉館を迎えるまで62年間にわたって、大阪ばかりでなく全国の社会福祉界に歴史的シンボルとして存在した「大阪市立北市民館」(1926年の天王寺市民館開設とともに改称)の始まりであった。



□小林佐兵衛   生年: 文政12 (1829) 没年: 大正6.8.20 (1917)
明治期の侠客。大坂生まれ。通称は北の赤万(明石屋万吉)。年少から侠気を発揮し,幕末には大坂の警備に当たった一柳 対馬守に請われて捕吏頭を務めながら,禁門の変(1864)で敗れた長州藩士の逃亡を助けたりする。維新後に大阪の消防が請負制度になると,渡辺昇知事に頼まれ北の大組頭取として活躍した。米相場で成した資産を投じ,小林授産所を営み,多数の貧民に内職を教え,子どもは小学校へ通わせた。明治44(1911)年9月,米相場の高騰で苦しむ貧民のため,取引所へ乗り込んで相場を崩す。貧民700人の無縁墓を高野山に建立。浪速侠客の典型として,司馬遼太郎の小説『俄』のモデルになる。 (コトバンク)

粟国島の実家隣りの與那太郎さんの遺族を門真市に訪ねた。子息も故人になったようである。門真市立歴史資料館を見学すると、常設展に「『幣原家』の足跡を訪ねて」があった。幣原喜重郎は第44代内閣総理大臣で「日本国憲法改正草案要綱」を発表し現代日本の礎を築いた。兄の坦は1899年に『南島沿革史論』という沖縄通史を発表。28年、台北帝国大学総長。晩年は門真で過ごした。東恩納寛惇とも親交があった。駅近くに松下電器歴史館も見学。先日、東成区大成を歩いていたら「松下幸之助起業の地」の表示があったので見学した。福島区大開には松下電器創業の家跡がある。守口市にはSANYO MUSEUMがある。

地下鉄堺筋本町駅近くに大阪企業家ミュージアムがあって文献資料や映像ライブラリーが充実している。解説に「携帯電話やインターネットの普及などによる情報化が急速に進みました。また、関西国際空港が開設し海外との結びつきもより強いものとなりました。一方で海外生産の増加による産業の空洞化や、少子化による人口の減少、環境問題など難しい課題も生まれています」とある。ライブラリーで三島康雄『造船王・川崎正蔵の生涯』同文館を見る。沖縄で教員をしていた山本実彦にも『川崎正蔵』の著がある。川崎は、1869年から薩摩藩下屋敷跡の砂糖会社に勤めていた。1875年、川崎は琉球藩の貢糖を大阪まで運送し販売する役目を大蔵省から命ぜられ、自己所有の龍王丸、龍田丸、布引丸で回漕を行ないその管理のため東京と大阪を往復した。大阪江戸堀にあった川崎の大阪邸には松方正義、西郷従道、中井弘らがよく宿泊した。川崎は支那宋元の古画コレクターで、1870年に神戸の邸内に美術館を設けた。親交のあった伊藤博文が「長春閣」と命名した。

南方熊楠の「思考」をコンピュータ上に甦らす試みが進められているようである。私も末吉麦門冬とそれを取り巻く琉球をコンピュータ上に刻印しようと神戸の息子に数年前『琉文21』ネットを創らせた。



『紀伊民報 』3月14日
和歌山県の田辺市と南方熊楠顕彰会(会長=真砂充敏市長)は14日、第23回南方熊楠賞の受賞者に東京大学名誉教授の杉山純多氏(74)=千葉県白井市=、特別賞に南方熊楠顕彰館名誉館長の中瀬喜陽氏(80)=田辺市神子浜1丁目=を選んだと発表した。杉山氏は菌類に分子系統学を導入した貢献や系統分類学の基礎を築いたことが評価され、中瀬氏は熊楠研究の業績などが評価された。杉山氏は東京都出身。東京大学大学院理学系研究科で北極や南極の菌類調査や分類学研究に専念した。1970年には菌類の分類学や系統学が進んでいたカナダの国立植物研究所に勤務し、多くの著名な菌類研究者のもとで研究。80年に東京大学応用微生物研究所に助教授として赴任、89年に教授となり、99年に退職するまで微生物系統分類学の主任教授として菌類や細菌の収集、特性解明、保存などに関わった。特に菌類の類縁と系統進化の研究で世界的な業績を挙げ、1998年に日本菌学会賞を受賞した。菌類という生物の生き方の解明に大きな前進をもたらした。杉山氏は「熊楠と私の接点はカビ、酵母、キノコを含む菌類や変形菌類(粘菌類)。この方面の開拓者であった熊楠の天空からの励ましと受け止めています」とコメントを出した。

 中瀬氏は高校の国語教諭として教壇に立つ一方で地域文化の研究を熱心に行った。そうした中、熊楠の魅力にひかれ、熊楠が残した膨大な記録が未整理状態であることを知り、熊楠研究をライフワークとすることを決意。「南方熊楠アルバム」「覚書南方熊楠」などを公刊、著作としてまとめるだけでなく、市民や研究者を対象に熊楠自筆資料の解読講座を開き、指導に取り組んだ。2006年に開館した南方熊楠顕彰館初代館長に就任した。昨年3月まで務めた。中瀬氏は「南方熊楠を知るということが私のライフワーク。特別賞は望外の喜びです」とコメントを出した。